極端な円安が進み物価は上昇、にも関わらず一部大手企業を除いては賃金も上がらない…。そんな閉塞感のある日本を脱出したいと考えるビジネスパーソンも多いのではないだろうか。この記事では、可能性に溢れている東南アジアで、積極的に働いている2人の日本人に、実際どんな仕事ができているのか、やり甲斐は?などを聞いてみた。
観光資源の豊富なカンボジアと日本を繋ぐ!アンコールワットで知られる国の観光省に勤務
世界遺産アンコールワットで知られるカンボジア。12世紀に建造された同寺院は現地の紙幣にも描かれている象徴的存在だ。このアンコールワットを中心にした観光業がこの国にとって重要な資源となっている。
西村清志郎さん(48歳)はカンボジア観光省のプロモーション&マーケティング部のアドバイザーを努めている。観光省の日本へのPRの方向性に対する助言をしながら、日本で開かれるツーリズムEXPOやカンボジアフェスなどに参加したり、日本人を誘致するための日本語ガイドブックの制作なども行っている。
同時に、自ら旅行会社を運営。日本からの旅行者受け入れとともに、日本へ観光に行くカンボジア人のサポートも行っている。
15年で20以上の事業を立ち上げ!
西村さんは旅行専門学校を卒業、一度社会人として働いた後、オーストラリアに4年住んで経済学を学んだ。その後、バックパッカーとして世界20数カ国を訪問。
カンボジアにも足を運び、そこで出会った人々の純朴さに惹かれた。そして2004年、知人から孤児院のボランティアを請われる。当時、カンボジアは東南アジアの最貧国として位置づけられていて孤児院もたくさんあった。
「それがカンボジア暮らしのきっかけでした。貯金を取り崩しながら、孤児たちに英語と日本語を教えました。そして、僕自身もクメール語を学びました」
貯金も底を突こうとするとき、日本に本社がある中規模の旅行会社の日本人ガイドとして就職。業務に勤しむ中、ハッと気づく。
「日本には当たり前にあるけど、カンボジアにはない物やサービスが多かったのです。それで、いろいろな事業を別部門として立ち上げました」
日本の代理店と契約を結んでドラえもんやクレヨンしんちゃんのクメール語版のマンガ発行、ハローキティのご当地土産グッズの製造販売、セグウェイを輸入しての観光ツアー、インターネットを使ったオプショナルツアーの販売、日本人旅行者向けの宿泊施設、フリーペーパー制作、飲食店、おみやげ物店、ペット用衣類の製造販売、移動式カクテルバーなどなど。
西村さんは15年で20以上の事業を立ち上げた。
「実際、そのほとんどは収益化できずに失敗してますが、それ自体が次の事業に繋がったりしています。また会社が自由な気質だったのが良かったですね」
その後、会社を退職し、西村さんがそれらの事業に自分の資本を入れていたため、立ち上げた事業を引き継ぐこととなった。従業員は最盛期は50人を抱えていたが、コロナ禍により規模縮小し現在は20人弱となっている。
その間も、カンボジア観光省が主催するイベントなどで業務を一緒に行っていたことが、現在に繋がっている。
カンボジアの魅力はアンコールワットだけではない!
今、西村さんが特に力を入れているのがアンコールワット以外の地方の紹介だ。
「今、カンボジアでは地方部の観光開発が積極的に行われています。これまであまり知られていなかったカンボジア東部には自然豊かな地域が多く、メコンの河イルカ観察や象の保護区でのトレッキングなども楽しめます」
様々な面で外国人の起業が容易な国
各国からの経済的援助を受け、高い経済発展を続けるカンボジア。首都プノンペンでは建設ラッシュが続き、オフィスビルやコンドミニアムなどが次々と建設されている。
「カンボジアは外国人がビジネスをしやすい国の1つだと思います。事業タイプにもよりますが自己投資100%で起業できるので、一部の近隣諸国のように現地パートナーが必須ではありません。そのため、多くの日本人がこの国でチャレンジしています」
しかし、こんなふうに発展が続いても変わらないものがある。
「高層ビルが立ち並ぶようになっても、カンボジアの人々の笑顔は変わりません。自分自身、この国で大したことはしていませんが、ここに住むことで、少しでも役に立ち、貢献できているのかなと思うことが、僕がここにいる理由となっています」
--バックパッカーから「カンボジアと日本をつなぐ架け橋」に成長した西村さん。今後も、観光という自分の柱をきちんと持って、それに付随する事業を行いながら、カンボジアと日本を繋げていきたいと思っている。
一方、アジアで「幸福な家庭」を作ることができた人もいる。
日本とタイの工場を結び、幸せに家族で暮らす~運命の人との出会いでタイ永住を決意
嶋健雄さん(44歳)が初めてタイにやって来たのは専門学校に通っていた18歳の時。大好きだったムエタイ(タイ式キックボクシング)を生で観たかったのだ。そしてタイの魅力にとりつかれ、卒業後の20歳の時に一念発起してバンコクのタイ語学校へ1年の留学を決める。
卒業後、せっかく学んだタイ語を活かしたいと考える。そんなとき同じ日本人の知人が声をかけてくれる。
「ある現地出版社を知っているから、そこに行ってみたら?インターンか何かできるかもしれないよ」
知人のありがたい言葉にその出版社に行くと「ちょうど人手が足りなくて困っていた!」と、その場で面接。とんとん拍子に営業として働くことが決まってしまった。
「海外だと日本人同志の付き合いが密で、こんな風に予想もつかないチャンスがあります。これは僕だけでなく、多くの邦人がそう思っていると思います」
異国の地で精力的に働きながら、嶋さんは職場の知人の紹介である女性と出会う。後に妻となるワランチャヤーさんだ。
「変な話なんですが、初めて会ったとき、“俺はこの人と結婚する”って直観しました」
数日後、デートとなった…ところが、知人とその彼女も同席。
「当時は最初に2人だけで出かけるというのはあまりなかったんです。友人や姉妹が同席するというのが当たり前でした。今はマッチングアプリなどもあって状況は変わっているようですが」
2009年、嶋さんの直観通り2人は結婚。翌年には長女の愛夏(あいな)ちゃんが誕生する。2年後には次女の愛由美(あゆみ)ちゃんを授かる。
タイの製造業を影から支える
一方ビジネスにおいて、嶋さんは2013年に転職、現在働くNCネットワークアジア社で働き始める。同社は製造業専門のフリーマガジン『エミダス・マガジン・タイランド』の発行、オンライン商談会などを催している。 タイには日系の工場だけで約2,000社があり、他に無数のローカルの工場がある。それらの工場、また日本やベトナムなど近隣諸国の工場を結びつけているのだ。嶋さんは雑誌広告の販売や企業同士のマッチングを手掛けている。
「情報があふれかえっている日本とは違い、東南アジアでは言葉の壁もあり、まだまだ企業同士の横つながりに悩まれている方も多いです。この業務に就いたことでそれを実感しました。そして、それをお手伝いできていることにやり甲斐を感じています」
嶋さんたちは時代のニーズに合わせ、可能な限り早いマッチングを心がけている。
「お客様さまから『こんな部品作れるところ知りませんか?』と聞かれると、できるだけ迅速に我々の持ってるデータベースから探したり、タイ人スタッフも一緒に新たに調達先を探しリストアップをします。結果、先方から『ありがとう助かった!』というお声を頂けるのが何よりの喜びです」
タイを含め成長を続けるアセアン諸国をつなぐ一助をしているという気概で頑張っている。
強い家族の絆で子供たちは成長
そして、今度は長男の健介くんが生まれる。嶋さんが働く一方で、奥さんのワランチャヤーさんはお姉さんと厨房ダクトクリーニングの会社を経営。深夜、営業が終わったレストランなどで換気扇の油汚れを清掃している。共働きで3人の子育ては大変なのではと思うが…。
家族でチャオプラヤー川へ遊びに
「実は家族9人で暮らしているんです。私と妻、子供たち、妻の母、そして妻の姉妹たち。義母たちが子供たちの面倒を見てくれているのです」
タイらしい家族の絆を感じられる話だ。そしてまた、タイの人たちは大の子供好きだ。
「レストランに行っても電車に乗ってもかまってくれます。こういう暖かい環境で育てていけるのは幸せですね」
現在、子供たちは12歳、10歳、8歳にまで成長した。
「数年後には日本へ留学させたいと思っています。日本語だけでなく文化や習慣も学んで将来に役立てて欲しいのです。そのために頑張って働いてお金を貯めないと(笑)」
タイで大事な家族とやりがいのある仕事を持ちながら、嶋さんは今日も堅実に前に進んでいる。
カンボジアもタイも発展途上な国々ゆえ、そこに「安定」はない。だが仕事には「熱さ」が、人間関係には「濃さ」がある。それらはもしかしたら日本が「失われた30年」とともになくしてしまったものかもしれない。
もし、あなたが今の仕事に疑問を持っているなら、そこに飛び出していくのも一つの手かもしれない。
取材・文/梅本昌男
フリーライター。