東京・大手町のオフィスで笑顔を見せる久木田紳吾さん(筆者撮影)
インテリ中のインテリが挑んだJリーグ時代
2022年カタールワールドカップ(W杯)出場権を決めた3月24日のオーストラリア戦(シドニー)で2ゴールを叩き出した三笘薫(サン・ジロワーズ・筑波大卒)を筆頭に大卒のサッカー選手は年々増加している。
この大一番に先発したイレブンを見ても、長友佑都(FC東京)が明治大、守田英正(サンタクララ)が流通経済大、伊東純也(ゲンク)が神奈川大出身。サッカー界も文武両道の傾向が強まっていると見てよさそうだ。
とはいえ、出身大学が東京大学となれば話は別。もちろん推薦入学はないし、共通テストを受験し、満点近い点数を取らなければ合格は難しい。そのうえ、卒業後にプロサッカー選手になるというのは常軌を逸していると言っても過言ではない。それをやってのけたのが、2011~19年まで9年間、J2・ファジアーノ岡山と松本山雅、J3・ザスパクサツ群馬を渡り歩いた久木田紳吾さんだ。
1988年9月生まれの彼は熊本市出身。小学校3年からサッカーを始め、県内屈指の進学校である熊本高校へ。同校時代は県大会ベスト8が最高だったという。その後、現役で2007年に東大教養学部理科2類に合格。3年からは工学部都市工学科都市計画コースを専攻した。
「都市工学には確かに興味がありましたが、僕にとってはそれ以上にサッカーの方が面白くて、そちらに進みたいという気持ちが強かったんです。でも当時の東大は東京都2部。このカテゴリーからJリーガーになる大卒選手は皆無に近かった。そこで自分のゴールシーンなどプレー集を自ら編集し、DVDを作成。それを複数のJクラブに送ったんです」
久木田さんがこう語るようにまさに大胆な戦略だが、それが奏功。3年の後半からは常勝軍団・鹿島アントラーズを筆頭に6チームの練習参加にこぎつけた。
「2007~2009年までJリーグ3連覇を果たしていた鹿島が最初でした。マルキーニョス選手や興梠慎三選手(現札幌)、1つ上の内田篤人選手(JFAロールモデルコーチ)らそうそうたる面々がいて『もうやるしかない』と腹をくくったのをよく覚えています。鹿島ではいいアピールができなかったのですが、その経験で自然体になれたのか、ファジアーノ岡山から『もう少し見てみたい』という前向きな言葉をいただき、契約にこぎつけました」と彼は嬉しそうに述懐する。
岡山に在籍した2017年、ゴールして喜ぶ久木田さん (c)FAGIANOOKAYAMA
岡山時代の2014年にFWからDFへコンバート
岡山でのプロ1年目はスーパーサブ的な役割を主に担い、27試合4ゴールとまずまずのスタートを切った。2年目の2012年は松本山雅へレンタル移籍。反町康治監督(現日本サッカー協会技術委員長)就任1年目で個性的なメンバーが揃っていた。久木田さんにとっては新鮮な出会いが多かったが、ケガの影響で出番は限定的だった。そして2013~2017年までは再び岡山でプレー。2014年にはFWからDFにコンバートされ、新境地を開拓した。
「アグレッシブに前へ突き進むFWよりも、相手の仕掛けに対応するDFの方が僕の性格には合っていましたね。元日本代表の加地亮さん(現解説者)や岩政大樹さん(現鹿島ヘッドコーチ)といった先輩と一緒にプレーできたのも学びが多かった。彼らはケガで痛みがあっても絶対に弱音を吐かないし、1人の人間としての強さがあった。オーナーシップの強さは物凄く勉強になりました」
彼自身はずっとJ1でプレーすることを目指したが、岡山は2016年のJ1昇格プレーオフ決勝でセレッソ大阪に敗れ、チャンスを逃してしまう。2018年に赴いた群馬はJ3で最高峰リーグがさらに遠のいた。「自分の限界が見えたのかな」と語る久木田さんは、2019年シーズンに群馬がJ2昇格を決めた時点で現役引退を決断。サッカーとは全く別の分野に進もうと気持ちを切り替えた。
群馬で現役のキャリアを終えた久木田さん (c)THESPAKUSATSUGUNMA
引退後は数多くの人に会い、SAPジャパンへ
「現役時代はサッカーに全力を注こうと考えていたので、群馬時代に簿記の本を読んだくらいでセカンドキャリアの勉強は特にしていませんでした。2019年末の時点では妻は育休明け直後で0歳時の娘がいたのに無職ということで、『早く職探しをしないといけない』と危機感が強まりました。
そこで東京に引っ越し、大学の先輩やサッカー関係者など社会人経験のある人に次々と会いました。さらに2020年2月にはイングランドとスペインにも訪問。海外MBA取得経験者に話を聞き、自分は進むべき道はIT業界だと目標を定めたんです」
そんな中、見つけたのが、現在の勤務先であるSAP(エス・エー・ピー)ジャパン。SAPはドイツ中西部・ヴァルドルフに本社を置く欧州最大級のソフトウエア会社で、総従業員数は10万人にのぼる。創業者のディトーマー・ホップ氏はドイツ1部・ホッフェンハイムに巨額を投資し、強豪クラブへの引き上げており、サッカーとの関わりも非常に深い。
ただ、久木田さんはそこに着目したわけではない。人口減少で経済的に下降線を辿っている日本がIT・デジタル化(DX化)によって合理化を図り、労働生産を高め、国力を維持していく必要性があると強く感じたからこそ、入社を強く希望したのだ。
面接は5回行われたが、9年間のプロサッカー選手経験を通じて培った目標と向き合いやり切る力、オーナーシップを持つ力、人を生かすコミュニケーション力を積極的にアピールした。同時にITスキルや知識がないことも正直に伝え、真摯に向き合ったところ、採用を勝ち取ることに成功。31歳の就活は3カ月で結実したのである。
コロナ禍入社でリモートワークも前向きに取り組む
「入社したのは2020年4月。コロナ禍に突入した直後で、いきなりリモートワークを強いられました。自宅にパソコンが送られてきて、研修を受け、部長とワン・オン・ワン・ミーティングを行ったうえで、先輩のバディと組んで仕事を進めていくスタイルでした。
SAPには世界中の優秀な営業マンの経験値を蓄積したフォーマットがあるので、それを理解し、忠実にやっていくことが第一。会議もそれをベースに行われるので、まずは徹底的に覚えることに努めました。もともと新しいことを始めるのが好きなタイプなんで、Jリーガーの新人時代に戻ったような感覚で取り組みましたね」
久木田さんの仕事は、大企業向けの業務ソフトウエアの営業。相手の仕事内容を深く理解し、どうしたら最も合理的かつ効率的なシステムを導入できるかを一緒になって考えるというのは非常に有益だ。彼自身、大いにやりがいを感じ、意欲的に取り組み、4か月後くらいからはバディなしで単独の営業もできるようになった。
2年が経過した今は完全に1人で仕事をしており、顧客には海外企業、外国人エグゼクティブのいる会社もある。英語で話をする機会も増えたという。もともと東大に合格しただけあって、ヒアリングとリーディングはかなりのレベルだったが、スピーキング力も養われたのは大きなアドバンテージだ。
「経営やITに関する本もそれなりには読みましたけど、僕は実践主義。新人選手が沢山試合に出してもらって成長するように、僕自身もやらなければいけない環境に送り出されて、必死に取り組んだ結果、2年である程度のレベルまで来たのかなと感じています。
会社もITスキルや経験がないという僕自身の可能性を信じて採用し、2年という時間的余裕を与えてくれた。それは物凄く有難いことですね。
プロアスリートはもともと地頭もいいですし、1つの目標に向かって突き進む集中力や継続力がある。それを評価し、時間をかけて成果を出すように会社側が仕向けてくれれば、僕のようなサッカー関係以外の再就職も増えてくると確信しています」
アスリートはセカンドキャリアでも成功できる!
久木田さんが言うように、異業種でのセカンドキャリアを成功させるためには、本人の意思と努力に加え、会社側の理解と配慮が少なからず求められてくる。お互いが歩み寄り、能力を引き出し合い、仕事の成果につなげるという「ウイン・ウインの関係」が生まれれば、アスリート経験者が活躍できる仕事の場は確実に増えるはず。その事実を彼自身が身を持って示してくれている。
「もう1つ有難いのは、完全フレックスという仕事環境です。SAPグローバルのCEOの『プレッジ・トゥ・フレックス(フレックスへの誓い)』という言葉とともに、2021年6月から全社的にこの制度が導入されましたが、自宅にいるのが多いので、娘との時間が凄く増えました。親子の絆も深まったのかなと思います。
さすがに現役時代のように体を動かせないので、24時間のフィットネスジムと契約して、行ける時に行ってますが、体重は5キロほど減りました。そういった環境ではありますが、今は全てを自身でマネージメントし、成果を出せることをポジティブに捉えています」
このように久木田さんは今はイクメンをしつつ、会社の業務に全力を注いでいる状態だが、いつかはサッカー界に何かしらの還元したいという思いも抱いている。それがJクラブやJリーグに勤務することなのか、企業側からの支援なのか、DX化での貢献なのかまだ分からないが、まずは力をつけ、社会の役に立てる人材になること。それが当面の目標だ。
「東大初のJリーガー」になるのも並大抵のことではないが、SAPジャパンでビジネスマンとなった引退後のセカンドキャリアでも稀有な例なのは間違いない。彼には元アスリートのビジネスマンとしてこの先も目覚ましい活躍を期待したいものである。
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。