秀吉の朝鮮出兵という野心のための船出に、7匹の猫?
人間という動物はなかなかに罪深いもので、これまでにも人間の都合のためだけに、たびたび他の動物を使ってきた。
馬に乗って長距離を移動したり、犬を戦わせる賭け事を発明したりもした。
家畜もまた本来は野生動物。牛も豚も、人間が改良を重ねた末に誕生したものである。ペットだって、広い意味では人間の都合のためだけに存在しているともいえるだろう。
中でも罪深さの極致にあるのが、動物の戦争利用である。
古今、さまざまな生き物が戦争目的で利用されていた事実はあるが、今回はその中でもかなり奇妙な理由で活躍を強いられていた猫たちの話をしたい。
歴史好きな人たちにとっては、何かと論議の的になりやすい「文禄・慶長の役」。これはかの太閤・豊臣秀吉が文禄元年(1592年)と慶長2年(1597年)の二度に渡って行わせた、朝鮮半島への侵略である。
晩年の秀吉は海の向こうの朝鮮にもかなり意識が向いていたようで、無謀な出征を実行させ、両軍に少なくない被害を負わせた。
結局この騒乱は秀吉の死去と共に終結することとなったが、その規模はすさまじく、16世紀における世界最大の戦争ともいわれている。
さて。この文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵した船団には、7頭の猫が乗っていたという記録がある。
普通、船に猫が乗船する理由はネズミによる食料や備品への食害を防ぐためだが、このときの猫には違う役割があたえられていた。
7頭の猫には、彼らの瞳孔の開き具合で時間を推測するという、朝鮮半島上陸後における時計のような特殊な役割があったのだ。
「それってあんまり頼りにならないような……」と苦笑したくなるが、発案者は当の秀吉。だからこんなアイディアでも無視するわけにはいかない。
これを受けて実際に出港に向けて猫を集めたのが島津家であったと記録されている。
島津家の義弘は奮戦に奮戦を重ね、この戦いでは軒並み勝利を手にしているが、日本に戻ってきたときに残っていた猫は7頭中2頭だけだった。
5頭は死んだか逃げたのか。それはもう今となっては分からない。
だけどまあ、知らない土地にいきなり連れてこられたわけだし、猫は身軽な動物なのできっと逃げ出したんだろう。そう思いたい。
無事帰国した2匹を手厚く葬った島津義弘
さて、秀吉の命令で朝鮮に猫7頭を連れて出兵した島津義弘だが、彼といえば、世間的には「鬼島津」の異名でも知られている。
勇猛果敢で武勇にも長けた名将である。
一方で義弘は、家臣だけでなく、敵国や動物に至るまでを広く慈しんだ。
実際に戦争で打倒した勢力を含めた戦死者(朝鮮半島で敵対した者たちも含まれる)を高野山で供養しているほか、愛馬の供養もかなり手厚かったといわれている。
朝鮮出兵で同道した猫についても、やはり供養はしっかりと行っている。
特に、生き延びて無事に日本に戻った2頭については、のちに薩摩藩領の庭園内に、わざわざ「猫神神社」という神社を作っていたほどだ。
この神社は今日においては猫好きの人たちにとって、一種のパワースポットのような扱いを受けている。
猫神神社内で用意されている絵馬には、丸々と肥えた2頭の猫のイラストが施されているほか、猫の供養や長寿祈願なども行われている。
おわりに
まあ……いち猫好きとして考えると、意味不明な作戦のために猫を戦争に巻き込まないでほしいというところではある。
しかし朝鮮出兵の折には島津家は豊臣政権下においては、比較的勢力が強く、秀吉からも若干の懸念を持たれていた。
そのため、猫を連れて出兵するという、若干気の抜けるような作戦を命令されていたのかもしれない……。
それにしても、秀吉だけでなく、のちの天下人となる徳川家康にすら、島津家は警戒されていたぐらい強力な一族だったのに、自分たちのせいで戦争に巻き込んだ猫の供養を忘れないとは。
本当に天下を獲るべきだったのは、島津義弘だったんじゃないかとすら思えてくる(当人は固辞しただろうけど)。
文/松本ミゾレ(PETomorrow編集部)
あるのは動物への愛だけ!人間の心揺さぶる犬猫記事はPETomorrow