犬が死んだ朝
「いつまでも泣いてるんじゃないよ」と言われて、思わず彼の顔を見てしまった。
こんな人だったっけ?優しくて、思いやりがあって、素敵な男性だと思っていたのに。
「せっかく元気づけてあげようと思ってこの店を取ったんだよ?なのに、なんで涙ぐんだりしてるの?」いきなり怒っちゃってる。私はびっくりして食べ物が喉を通らない。だって、うちの子が虹の橋を渡って、まだ一週間しか経ってない。何をしてても思い出すんだよ。
レストランで分厚いハムが前菜に出てきて、うちの子がハム好きだったのを思い出した。それでつい「このハム、すごく美味しそう」って言った途端、涙があふれ出てしまったのだ。
「ごめんね、ここ、すごく美味しいって聞いてて、来たかったから嬉しい。ありがとう。あんまりハムが美味しいから、つい涙が出ちゃった、嬉し涙」へへっと肩をすくめて見せた。
彼はちょっと機嫌を直して「だろ?だから、犬のことで、もう泣くのやめろよ、いつまでも引きずっててもしょうがないだろ」と追い打ちをかけてきた。もうダメだ。
「そうよね、ごめんね。でもどうやってここ、予約取ったの?よく取れたね?すごいじゃない?」彼が喜ぶ言葉をあげた。僕スゴイの自慢話は尽きることなく、私は適当な相槌と「ホントすごいね~」「で、どうしたの?」「それで?」でやり過ごした。食事中に私の心はどんどん冷えて行って、最後のデザートで氷点下まで下がった。
私のわがままだけど、一週間前に亡くなったうちの子の話を聞いて欲しかったな。ゴールデンがどんなに素晴らしくて素敵だったか、愛する恋人と話し合いたかった。
でも彼にとっては単なる「犬」なんだな。
私の心の中には、素晴らしい黄金の犬がいて、一緒に過ごした記憶が残された。もう二度と会えないけど、私の心の大切な大切な宝物のような思い出だ。その大切な記憶を、愛する人と共有したかったんだ。私の心の黄金の犬を、二人の間に残しておきたかったな。でも、彼はそういう人じゃなかった。それだけの話だったんだ。
そういえば彼はいつも自慢ばかりして、あんまり私の話は聞いてくれない。というか、私自身、まったく大切にされてなかった。二人で温泉に行く前に私がインフルエンザになっちゃった時なんかも、怒って、ひどかったっけ。私だってなりたくてなったんじゃないよ。
今もそうだけど、この人、うんちくと自慢ばっかり。私はあなたの母親ではありません!うちのゴールデンなんて私が悲しい時はいつも寄り添ってくれたし、怒っている時は一緒に怒ってくれたよ。すごくいい子だったんだ。
癌になって苦しかったのに、我慢して私に見せなかった。気づいた時には手遅れだった。私がもっと何とかしてやればよかったのに、本当に情けない飼い主だった。後悔ばかりで苦しくて仕方がない。なのになんでこの男はゴルフの話なんてしてるの?
大好きで優しくて、思いやりのある恋人だと思っていたのに、なんだかすっかり夢から覚めた。うんちくばっかりの自慢男だよ。1年前、彼から付き合ってって言われた時は天国に上るような気がしたのに、今の私に彼への愛情は微塵もない。
亡くなったゴールデンが、私にそれを気づかせてくれたのかもしれない。虹の橋を渡った後で、私に恋人の真実の姿を教えてくれた。この人は私と生涯を共に過ごす相手じゃない。ゴールデンの話をちゃんと聞いてくれるような男性と、きちんとしたお付き合いがしたい。
家に帰ってゴールデンのいた場所のにおいを感じながら、お骨を抱いて寝よう。恋人と別れて一人になってしまうけれど、私の心には永遠の犬がいるから独りぼっちじゃない。いつか犬の話を聞いてくれる男性と結婚して、生まれた子どもにゴールデンの話をたくさん聞かせてやりたい。
文/柿川鮎子(PETomorrow編集部)
「犬の名医さん100人データーブック」(小学館刊)、「犬にまたたび猫に骨」(講談社刊)、「動物病院119番」(文藝春秋社刊)など。作家、東京都動物愛護推進委員)
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