緊急事態宣言が明けて1カ月余り。東京では新型コロナウイルス感染者再拡大が止まらず、第2波の懸念が日に日に高まっている。しかしながら、同じ大都市の大阪は感染者数が落ち着いており、新生活様式での暮らしが定着しつつあるようだ。
そんな中、サッカー元日本代表・加地亮さんが経営する大阪府箕面市の「CAZI CAFE(カジカフェ)」も7月1日から店内飲食を再開。3カ月ぶりにお客さんが戻ってきた。
地道な努力を続けていればいつか道は開ける
「コロナのリスクを考えて、3月末から6月いっぱいは店内飲食を見合わせていました。その間、換気のいいテラス席を作ったり、外眼の模様替えのためにペンキを塗ったり、再出発に向けて、いろんな準備をしてきました。お客さんを迎えるに当たり、入店時の検温と消毒を徹底しています。僕らスタッフも全員マスク着用。今はかなり蒸し暑いから大変ですけど、現役時代の真夏に試合に比べるとましですね」と加地さんはどこまでも前向きだ。
店内も三密を避けるために、席と席の間の感覚を空ける必要があり、これまでより稼働席数を減らさないといけない。そうなるとお昼がトントンか赤字。夜をフル稼働させないと黒字化は難しい。この3か月間も売上が減少し、持続化給付金や雇用調整助成金、休業要請支援金を申請すべく、ハローワークに通いながらさまざまな書類と格闘してきたが、地道な努力を続けていればいつか道は開けると40歳の経営者は力を込める。
「今はコロナ感染者を出さないことが第一。サッカー選手の頃と同じように万全の対策を取って、お客さんに料理を楽しめる環境を提供することが僕らの使命だと思っています」と話す加地さんは戦う場をピッチから飲食店へと移して今、奮闘している。持ち前の運動量と献身性を最大限生かして、この困難に立ち向かっていくつもりだ。
80年1月に兵庫県淡路島で生まれた元右サイドバックがJリーガーになったのは98年。名門・滝川第二高校からセレッソ大阪入りし、プロキャリアがスタートした。
「あの頃はまだ高校生の延長で、メンタル的にもプロになり切れていなくて、夜遊びも結構してました」と本人も苦笑いする。
そんな彼が高いレベルに目覚めたのが、99年ワールドユース(ナイジェリア。現U-20W杯)。小野伸二(琉球)、稲本潤一(相模原)、遠藤保仁(G大阪)、播戸竜二(Jリーグ特任理事)らとともに世界2位に輝いたのはまさにスペシャルな経験だった。高度なタレントが集まる「黄金世代」の仲間に追いつきたい思いが一気に高まり、2000年には出場機会を求めて当時J2の大分トリニータへのレンタル移籍に踏み切る。ここで急成長し、2002年にはFC東京へ完全移籍。不動の右サイドバックの地位を確保し、2004年にはJリーグナビスコアップ初優勝に貢献した。
代表キャリアがスタートしたのもFC東京時代。2003年秋にジーコ監督率いる日本代表に初抜擢され、2004年アジアカップ(中国)優勝に貢献。中村俊輔(横浜FC)や宮本恒靖(G大阪監督)らと壮絶な戦いを繰り広げた。そして2006年ドイツワールドカップにも参戦。大会直前のドイツ戦(レバークーゼン)で負傷し、初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)欠場を強いられ、その逆転負けが引き金になって日本惨敗という結果になったのは悔やまれる出来事だ。それでも2008年に至るまでの64試合の日本代表キャリアは「必死に走り回った結果」だと本人はポジティブに受け止めている。
強いチームはみんなが支え合うことによって生まれる
「ジーコジャパン時代はヒデ(中田英寿)さんや俊さんみたいにうまくて個性の強い選手が沢山いたんで、自分は右サイドを走ることに集中していました。自分は下手なりにみんなを助けて黒子として支える意識を持って戦っていましたね。ドイツはホントに一瞬で終わった印象しかない。あれだけ予選を苦労して勝ち上がったのに何も残せなくて空しい気持ちになったのはよく覚えています。代表はオシムさんから岡田武史(FC今治代表)さんに監督が代わってすぐ引退しましたけど、あの頃は海外遠征が多くて時差や不眠に悩まされ、心身ともに苦しかった。ウッチー(内田篤人=鹿島)という非凡な才能のある右サイドバックの出現に圧倒されたのもあって一線を退いたんです」
代表とクラブの掛け持ちに区切りをつけた加地はガンバ大阪でのプレーに専念。2008年アジアチャンピオンズリーグ制覇、2008・2009年天皇杯連覇と数々のタイトルを手にした。当時のガンバは遠藤やルーカスのような突出した存在がいる一方で、明神智和(G大阪ジュニアユースコーチ)や橋本英郎(FC今治)のような身を粉にして働くタイプが揃っていた。強いチームはみんなが支え合うことによって生まれる。その重要性を痛感したことは、サッカー選手としても、1人の人間としても意味あることだった。
ガンバには2014年夏まで在籍。その後、アメリカ・メジャーリーグ(MLS)のチーバスUSAに移籍。長年の夢だった海外挑戦に踏み切った。ところが、その3カ月後にクラブが解散。ドラフトでも指名がかからず、アメリカ残留が難しくなり、翌2015年にJ2・ファジアーノ岡山へ赴いた。
FC東京時代に指導を受けた長澤徹監督(現FC東京コーチ)が率いていたこともあって、新天地にはすんなりチームに溶け込むことができ、2016年にはJ1昇格プレーオフ決勝に勝ち上がるところまでたどり着いた。J1昇格こそ叶わなかったが、30代後半になるまで試合に出続け、若手を鼓舞し続けたことは、貴重な人生経験になった。2017年末にユニフォームを脱ぐことを決断した時、Jリーグ通算出場実績は499試合。あと1つで500試合の大台到達だったが、そこでガツガツと頑張らないのが加地らしいところ。38歳になる直前に潔くセカンドキャリアに舵を切ったのである。
DAZNの解説者やイベントのゲストなどサッカー関係の仕事も手掛けているが、メインの仕事はカジカフェの経営。2011年7月にオープンしたお店で、加地さんがアメリカや岡山でプレーしていた間はスタッフに営業を任せていたが、2018年2月からオーナーの妻・那智さんと揃って店に入るようになった。淡路島の民宿・大倉荘の長女である那智さんはもともと飲食業になじみがあり、料理にも長けていて、開店当初は彼女自身がランチを作っていた時期もあった。今はシェフがメインで厨房に入り、那智さんがマネージメントを担当。加地さんは主に雑務や接客、皿洗いをするのが常だ。
「昼の営業に合わせて9時には出勤して掃除やテーブルのセッティングなどの雑用から始めます。小鉢の盛り付けも僕の担当。昼の営業中はひたすら洗い物をしますが、その大変さもやってみなければ分からない。簡単な作業に見えるけど、効率よく洗って、拭いて、棚に戻す作業にもノウハウがいる。サッカーと同じで日々の積み重ねが肝心なんです。山のように積み上がる皿を見るだけでアドレナリンが出てくるようになりました(笑)。昼の営業の後、子供たちの世話をしてから、再び夕方の営業の準備をして、夜遅くまで働く形になるので、サッカー選手に比べて労働時間は格段に長くなりましたね」
今回のコロナ禍ではテイクアウト中心の営業体制にして、「本日のカジ弁当(1000円)」など何種類かを展開。ガンバの仲間や近所の人々が買いに来てくれた。
「コロナみたいな突発的な事態が起きると、通常営業ができなくなり、どうやって店を維持していくかを真剣に考えなければいけなくなりますよね。飲食業は本当に一筋縄ではいかないと痛感しています。それでもテイクアウト営業に乗り出したり、メニューに変化をつけたりといろんなトライができましたし、学んだことは多かった。働いてくれるスタッフと協力しながら、みんなで支え合って、これからもお店を続けて、お客さんに喜んでもらえるように頑張ります」
これまで通りの労を惜しまないメンタリティと豊富な運動量を活かし、加地さんはカジカフェと仲間、お客さんを守り続けていく。
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。