新型コロナウイルスの感染拡大によって全国に出された緊急事態宣言が39県で解除された。5月13日現在で感染者数60人の大分県もその1つ。地元の飲食店や観光業は大きなダメージを受けていただけに、日常生活に一歩近づくことは朗報だろう。
「大分市議会議員である僕のところにも『どうしたらいいか』という相談が数多く寄せられています。大分市は3~5月の売上高が前年同月比50%減になった小規模事業者に対し、最大8万円の家賃補助をすることを独自で決めましたが、それでも困っている人は沢山いる。市民に寄り添って、少しでも元通りの生活を取り戻せるように努力するのが自分の仕事。何とかみなさんの役に立ちたいという気持ちでいっぱいです」
アテネ五輪でも活躍した「ミスター・トリニータ」
こう語るのは、2017年から市議会議員を務める高松大樹氏だ。大分トリニータで16年間プレーし、2008年のヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)制覇の原動力となった元エースストライカーだ。決勝・清水エスパルス戦で金崎夢生(名古屋)の右クロスを打点の高いヘディングで叩き込んだ先制弾は、今も多くの人々の脳裏に焼き付いて離れない。2011年に1年だけFC東京にレンタル移籍したものの、キャリアのほとんどを大分で過ごした彼を「ミスター・トリニータ」と呼ぶ人は今も少なくない。
代表の方でも実績を残しており、特に印象深いのが2004年アテネ五輪アジア最終予選。UAEラウンド最終戦のUAE戦(アブダビ)で日本は原因不明の集団下痢事件に見舞われ、多くの選手が体調を崩す中、後半から出場した点取屋が値千金の先制弾をゲット。この1点がなければ日本のアテネ行きもなかっただろう。本大会には大久保嘉人(東京V)や松井大輔(横浜FC)らとともに参戦。1次リーグ突破は叶わなかったものの、彼自身はイタリア戦(ヴォロス)でゴールを挙げるなど奮闘した。そしてイビチャ・オシム監督が率いていた2006年11月のサウジアラビア戦(札幌)で日本代表デビューも飾った。A代表は2試合出場のとどまったものの、アグレッシブにゴールを狙う貪欲さとここ一番の決定力は高い評価を受けていた。
「山口出身の僕は多々良学園(現・高川学園)を卒業した2000年に大分トリニータに入り、サッカー選手としても人としても大きく成長させてもらいました。若い頃は取材もファンサービスも熱心な方ではなく、褒められるような対応もしてませんでしたけど(苦笑)、2008年にキャプテンになってから意識が変わりましたね。
トリニータはナビスコ制覇の後、経営難が表面化し、2度のJ2降格を経て、2016年にはJ3まで落ちる苦しみを味わいました。その年が僕の現役最後のシーズンだったんですが、J3優勝で終われてホッとした。原動力になったのが、支えてくれた市民・県民の方々でした。いろんな人との出会いがなければ、大分での16年間はなかった。その恩を何としても返したいと思ったのが、市議会議員になろうと考えたきっかけです」と高松氏は2016年末の引退当時の心境を述懐する。
地道な選挙運動からスタート
出馬表明したのは2017年1月10日。大分市役所で「スポーツを活かした街づくり」というスローガンを掲げ、大分のために働く熱意を前面に押し出した。それから彼は厳寒の中、大分駅前に立ち、行き交う人たちに挨拶するところから選挙運動をスタートさせた。黙っていても人が集まってくるJリーガーとは全く異なる行動から新たな人生の第一歩を踏み出したのだ。
「朝7時半くらいから駅に行って『おはようございます』と声をかける活動を2週間くらいやったんですが、最初は見向きもしてくれなかった人が『頑張れよ』『応援してるかなら』と言ってくれるようになり、温かいコーヒーを差し入れしてくれる人まで現れました。大分の人は本当に親切で、自分のことより他人のことを考えている人が多い。僕を支持してくれたボランティアの方々含めて『みんな温かいな』としみじみ感じましたね」
迎えた2月19日の投票日。高松氏は無所属ながら1万3653票を獲得し、トップで初当選を果たした。それだけ市民から大きな期待を寄せられたということ。本人も身の引き締まる思いだったに違いない。
「市議会議員になってからは全てがゼロからの勉強でした。『スポーツを通してよりよい暮らしと環境を目指す』というのが僕の政策なので、施設の現状を調べたり、話を聞いたりして、議会で発言したりするようになりました。
1つの成果と言えるのが、西部スポーツ交流ひろばの整備に予算がついたこと。大分ICの近くにあって場所もいいですし、新たな施設を作るよりも既存施設を有効活用した方がいいと訴えて、一歩前身にこぎつけました。今は学校プールの民間委託も提言しています。学校のプールは年間2カ月くらいしか使わないのに管理の手間もお金もかかります。先生方の負担も大きい。その現状を踏まえると、民間と提携して学校側の負担軽減を図り、子供たちはしっかりした指導を受けながら水泳の授業に取り組めるようにした方がいいと思うんです。そうやって少しでも市民の生活に貢献できるように日々、考えているところです」と高松氏は熱っぽく語る。市議生活3年が経過した今、彼は元Jリーガーではなく、すっかり政治家の顔になっている。
とはいえ、サッカーに関する特別な思いは変わらない。2019年にJ1再昇格した大分トリニータの奮闘をOB兼解説者という立場で後押ししているし、最近はユーチューブチャンネル「高松大樹のMr.channel13」を開設して仲間たちの素顔などをざっくばらんに紹介している。
そんな高松氏にとっては、2018年11月の日本代表対ベネズエラ代表の親善試合の際、昭和電工ドームへ向かう道が大渋滞し、選手が遅刻寸前になるというアクシデントは黙って見ていられない残念な出来事だった。
「金曜日の夜で雨が降り、事故も起きるという想定外の事態が重なって、ああいうことになってしまいました。昭和電工ドームは県営施設なんですけど、市議会の場でも『きちんとした対策を講じなければいけなかった』と発言しましたし、問題提起もさせてもらいました。あの時は一般向けに駐車券を販売したことも問題の1つだったんですが、何年かに1度しかない日本代表戦を楽しみにしていた子供たちには申し訳ない気持ちでいっぱいでしたね。
その経験を踏まえて運営した去年のラグビーワールドカップの時は5試合全て滞りなく行われ、スポーツの力が素晴らしさを世界に発信できたのかなと思います。コロナ禍の今はスポーツがある日常を早く取り戻したいと痛感させられる毎日。そのために自分ができることをやっていきたいと思います」
Jリーガーのセカンドキャリアは指導者やフロントだけじゃない
冒頭の通り、市民や支持者の相談に乗ったり、支援策の案内をするなど、目の前の活動を懸命にやっている高松氏。38歳というのは大分市議の中ではかなり若手の部類に入るため、自分が足を動かして、行動力で存在価値を示さなければいけないという思いも強いという。2021年には任期満了となるが、今後の方向性も真剣に模索していく考えだ。
「市議というのは市民と一番近いところにいるし、人との出会いも多い。本当に有意義な時間を過ごさせてもらっています。でもステップアップを考えないといけないという気持ちもあります。コロナ感染拡大で手腕を発揮されている大阪府の吉村洋文知事や北海道の鈴木直道知事のように若い政治家が頑張っているのを見ると、僕自身も何かしら人々のためになることを打ち出さないといけないという気持ちにさせられます。
スポーツ選手出身の政治家が増えていけば、地域や競技の垣根を超えた連携も増えていきますし、スポーツという観点から日本を動かす機会が増えるかもしれない。元Jリーガーでは、さいたま市議を務めておられる都築(龍太)さん、町田市議の星(大輔)さんなど何人かいますが、もっと多くていいのではないかと思います。僕自身も指導者やフロントに入るといった以外のセカンドキャリアがJリーガーにあることを示したかった。それが価値あるものだと実証できるように、これからも努力していきます」
コロナを乗り越えた先に大分の輝ける未来が待っている……。そんな希望を持って、高松氏は今日も明日も前向きに走り続けていく。
文/元川悦子