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5月1日の「メーデー」は何の記念日?意味や由来、歴史、祝日にならない理由を解説

2024.01.26

メーデーという記念日があることを知っていても、その趣旨を正しく理解している人は少ないかもしれません。80カ国以上が祝日と定め、国際的な労働者の祭典となっているメーデーについて、その歴史や日本国内での成り立ち、現在実施されていることを紹介します。

メーデー(May Day)の意味とは

メーデーというと、労働者がストライキやデモを行う日というイメージがあるかもしれません。なぜメーデーには、労働者による権利活動が活発に行われるのでしょうか?どのような記念日なのか、その趣旨を見ていきましょう。

世界的な労働者の祭典日

メーデーは毎年5月1日に制定されている、労働者のための国際的な記念日です。

『労働者の祭典』とも呼ばれ、世界の80カ国以上で祝日として制定されています。国際連合などの国際機関によって定められている記念日のため、多くの国で祝日とされているのです。

労働者がより働きやすい環境を求めて団結し、立ち上がったことをきっかけにメーデーは始まり、現在でも世界各国で労働環境改善のためのデモやストライキが実施されています。

現在でも、労働者の環境改善のための日として機能している、社会的に重要な意味合いを持った記念日です。

元々は夏の訪れを祝う祭りだった

メーデーは最初から労働者の祭典として始まったわけではありません。元々は、ヨーロッパで古くから行われていた、夏の訪れを祝う『五月祭』の日でした。

この伝統的なお祭りは、5月1日に実施されることが多く、広場にポールを立て、その周りで踊ったり、メイ・クイーン(5月の女王)を選んで花冠をかぶせたりしたそうです。

そして、この日だけは「労働者と経営者の常日頃からの争いを休戦しよう」という了解がありました。産業革命後の社会では、労働者の環境は厳しく、常に労働環境の改善を求めた争いが起こっていたといえます。

メーデーの由来

メーデーは労働者が権利を求めて立ち上がった記念すべき日です。ここからは、その由来について解説します。

発祥国はアメリカ

初めてメーデーが実施されたのは、1886年5月1日のアメリカでした。このときのスローガンは『第一の8時間は労働に、第二の8時間は休息に、第三の8時間は自分たちのために』というものだったそうです。

当時の労働者の働く環境は厳しく、1日に12~14時間労働が普通でした。そこで、35万人という大規模のストライキを実施することで、8時間労働制の制定を訴えたのです。

しかし、なかなか8時間労働は実現しません。そのため、それ以降も毎年5月1日にメーデーは実施されるようになり、労働者は声を上げ続けました。

国際的な広まりの流れ

アメリカで始まったメーデーは、同じように厳しい状況で働く労働者が大勢いたヨーロッパでも広まりを見せます。

そのきっかけは、第二インターナショナルの発足大会で、『メーデーは8時間労働実現を世界的に訴えるために行動を起こす日である』と承認されたことです。

それまで8時間労働のみを求めていたメーデーですが、1891年には戦争反対や平和擁護も求められました。

その後、ロシア革命の影響もあり、勢いを増していたメーデーですが、世界恐慌後のファシズムの台頭で状況が転換します。それにより労働組合が解散させられた国もありました。

一時は衰退したメーデーですが、現在では国際的な祭典の日として、80カ国以上が祝日に定めています。

日本のメーデーの歴史

世界的に大きな広まりを見せたメーデーの運動ですが、日本ではどのような歴史をたどったのでしょうか?

1920年 大規模なメーデーが開催された

日本で初めてメーデーが開催されたのは、1920年です。上野公園で開催され、およそ1万人の人々が参加しました。

しかし、欧米諸国で行われていたメーデーとは異なる側面もあります。アメリカやヨーロッパのメーデーが労働者主体だったのに対し、日本のメーデーは政治団体により主導されており、先鋭的な政治団体である平民社によって開かれた集会は、当時の政府に危険視されました。

1935年の16回まで開催された日本のメーデーでしたが、治安維持に支障をきたす恐れがある、という通達によって集会の中止命令が出され、開催できなくなってしまいました。クーデター未遂である二・二六事件が起こったことが、きっかけでした。

終戦後 メーデーが復活

しばらく開催されていなかったメーデーですが、第二次世界大戦後の1946年に再開となりました。このとき、皇居前広場に集まった人数は50万人ほど、全国で100万人にものぼる人々が参加しました。

戦後初のメーデーで訴えられたのは、『働けるだけの食事を』ということでした。このときのメーデーは、別名『食糧メーデー』とも呼ばれています。

戦後の混乱の中、人々は満足に食べることができず、非常に貧しい暮らしをしていました。労働環境や法改正とともに食糧について叫ばれたのは、当時の状況を反映していたのでしょう。

このとき、民主人民政府の即時樹立と、十分な食事ができる賃金を得ることが、決議されました。

1952年 デモ隊との衝突事件が発生

戦後に再開されたメーデーでしたが、1952年には犠牲者が出る大惨事が起きてしまいます。

明治神宮外苑の中央会場から出発したデモ隊の一部約6000人が、日比谷公園を過ぎても解散せずデモを続け、皇居前で警官隊5000人と衝突したのです。

このとき警官隊は、武器を持たないデモ隊に対し、催涙ガスを使用、さらに発砲しました。この衝突によりデモ隊の2人が亡くなるほか、1000人以上が負傷するという事件に発展しました。

その後は政治活動的な色合いが強まり、一般の労働者の参加が減っていくことになりました。

現在の日本のメーデーについて

開催されない期間もあった日本のメーデーですが、さまざまな歴史を経て、現在では毎年開催されています。どのような形態で実施されているのか、現在の状況を見ていきましょう。

各労働組合がメーデーを開催している

かつては全国統一で実施されていたメーデーですが、現在は日本労働組合総連合会(連合)・非連合系の全国労働組合総連合(全労連)・全国労働組合連絡協議会(全労協)といった労働組合ごとに行われています。

全国統一で行われなくなったのは、労働組合が再編されたことが関係しています。また、労働組合への参加率の低下が顕著になり、参加する人数が減ったことも理由の一つです。

中央大会には約4万人が参加する

近年では、東京都内の代々木公園で、『メーデー中央大会』が開催されています。組合員はもちろん、関係団体やNGO法人・NPO法人などから、およそ4万人が集まる、大規模なものです。

メーデー中央大会では、式典だけでなく、メーデーを振り返る写真展などの各種イベントも実施されます。

ほかにも、パラリンピックの種目であるボッチャの体験や、日本プロ野球選手会OBによる子ども向けのキャッチボール教室など、労働運動とは直接的に関係のないイベントも増加している傾向です。労働者が集う場というだけでなく、子どもも楽しめる場を作る工夫がされているといえるでしょう。

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