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稲本潤一や中澤佑二も衝撃を受けた元U-19日本代表の天才・小松原学のアグレッシブなセカンドキャリア

2020.01.21

 2019年夏に18歳の久保建英(マジョルカ)がレアル・マドリードに買われ、19歳の菅原由勢(AZ)と中村敬斗(トゥエンテ)もオランダへ渡るなど、日本人10代選手の市場価値は急騰している。

 日本が98年フランスワールドカップ出場を果たし、世界への扉を開けた約20年前にも、彼らのように大器の予感を漂わせるティーンエイジャーが何人かいた。だが、当時は日本人の海外移籍の実績が乏しく、ほとんど実現に至らなかった。

「中田英寿の次に海外へ行くのではないか」と噂された元U-19日本代表FW小松原学氏もその1人だった。

17歳でJリーグデビュー、圧倒的な存在感

ベルマーレ平塚(現湘南)に所属していた98年4月のセレッソ大阪戦に17歳9日でデビューし、当時の史上最年少出場記録を樹立。昨年8月に出演したテレビ番組「消えた天才」の中で、U-19日本代表時代にプレーした稲本潤一(相模原)や飛び級でともにプレーした中澤佑二に「衝撃を受けた選手」と言わしめるほどの圧倒的な存在感を示していた。

「Jリーガーになりたての頃は月収100万円以上もらってましたね。平塚学園という高校に通いながらプロになったんですが、練習に向かうためのタクシーが校門の前に止まっている状況でした。18歳になってすぐアメ車のデカいやつを買ったけど、その値段は400万円。ホント、生意気だったと思います」と今は38歳になる彼は苦笑いしていた。

 それだけの逸材が輝かしいキャリアを描けなかった最大の要因はケガ。19歳だった2000年、試合中に左足第5中足骨骨折(ジョーンズ骨折)の重傷を負ったものの、的確な処置が行われず、痛みを抱えたままプレーを続行したところ、体のバランスが崩れてパフォーマンスが急降下していったのだ。2001年末には湘南からゼロ円提示を受け、翌年にヴァンフォーレ甲府に新天地を求めたが、そこで初めて事実が露見した。すでに負傷箇所は手の施しようのない状態で、複数のケガを抱えた状態で、さらに疲労骨折で長期離脱を強いられた。2002年夏前には手術に踏み切り、長期リハビリに入ったが、クラブからは契約満了を突きつけられてしまった。

「その頃はカネもなく、唯一の財産だったベンツを売ってしばらく生活しようと思っていたら、まさかの詐欺に遭ってしまった。どうにもならなくて、ギャンブルで生計を立てていた時期があったほどです」と小松原氏は天国から地獄に突き落とされた日々を明かす。

 それでも不完全燃焼のままサッカーをやめられないと約1年がかりで復帰。2003年末にはトライアウトでJFL(当時3部に相当)の群馬FCホリコシ(2011年に消滅)に新天地を求めた。群馬は彼の故郷。地元に戻ってキャリアを立て直そうと燃えていた。実際、2004年の開幕戦ではオーバーヘッドでゴールを決め、2戦目にはハットトリックを達成。最高のスタートを切ったと思われた。が、またもケガに見舞われてしまう。

「古巣の湘南から『戻ってこないか』という打診もあった時で本当に痛かったですね。『プロとしてこのままでいいのか』と自問自答を繰り返した結果、ズルズルやっていても仕方ないと思った。その年のラスト7試合になったところで『あと5試合本当にプロとしてやってやめよう』と決意したんです。結局、3試合目で一発レッドを食らい、ラスト2試合は出られなかったけど、純粋にサッカーを楽しんでいた頃の気持ちが蘇ってきた。それでスッキリ止められたんです」と小松原氏は23歳の自分を振り返った。

引退後は鍼灸整骨院、サッカークラブなどを幅広く手掛ける

 引退すると決めてからの動きは早かった。ケガでキャリアを断念せざるを得なくなった悔しさと反省から、柔道整復師・鍼灸あんまマッサージ師の専門学校に入学。約1000万円を投じて6年がかりで学校に通い、2012年に邑楽郡邑楽町に「Pass鍼灸整骨院」を開業するに至った。現役時代は貯金がほとんどなく、教育ローンを借りて地味に勉強した成果だという。

「学校へ行きながら深夜バイトもしましたね。平塚の恩師だった植木(繁晴=現上武大学監督)さんがザスパ草津(現ザスパクサツ群馬)の監督になった時には館林のスクールで指導もさせてもらいましたね。そこが途中で頓挫したんで、子供たちを引き取って自分で2010年に『Jeoサッカークリニック』というスクールを立ち上げたんです」

 意気揚々と指導を始めた小松原氏だったが、当初は他クラブの圧力があってなかなかグランドを貸してもらえなかった。そこで『グランドを作ってやる』と決意。のちに整骨院を作った同じ邑楽町で空いている土地を見つけて、地主のおばあさんに頼み込んで承諾を得るところから始めた。

「1400坪もある雑木林でしたから、木を伐根して土をならす作業は本当に大変だった。木や雑草を鎌で切るなんていうのは無謀以外の何物でもなかったけど、僕はコツコツとやっていた。そんな姿を見た地元の人が重機を貸してくれて、作業がスピードアップし、2011年には使えるようになりました」

 鍼灸整骨院を開業後も指導は続け、2014年にNPO法人の「ラファーガFC」を設立。2016年には群馬県サッカー協会への加盟も許され、現在は小中学生70~80人が活動するまでになった。自身もJFA公認B級ライセンスを取得。スポンサー探しにも奔走している。それと同時に、アスレチックトレーナー(AT)の資格も必要だと考え、そちらの学校にも通い始めた。ある関係者に「お前はATの資格がないでしょ」と言われたことで一念発起し、「だったら取ってやる」と行動を起こしたのだ。

 小松原氏というのは逆境に直面すればするほどエネルギーが湧いてくるタイプ。それをこなしてしまうだけのアグレッシブさと貪欲さ、多彩な能力を備えているのだ。

 現在、手掛けているのはサッカー回りの仕事だけではない。鍼灸整骨院の開業年に出演したイベントで知り合った人に俳優・梅沢冨美男を紹介され、その流れからケツメイシの河野健太に「ツアーに帯同してください」と打診を受けるに至った。現在はライブツアーがあるたび、鍼灸・マッサージ師としてほぼ毎週末、同行しているのだ。

「ケツメイシさんに付くようになったら、ナオトインティライミさんやさまざまなアイドルグループからも声がかかるようになりました。最近では歌舞伎にも行くことがあります。そのために超音波や酸素カプセルなどの治療器具をさらに購入したので、だいぶ負担は大きかったですけど、ホントにいい経験をさせてもらっています。

 ただ、悩みはツアーやラファーガFCの活動が入ると整骨院を閉めなければいけなくなること。地元のおじいちゃん、おばあちゃんや子供たちなどいろんな人が来てくれていたので、申し訳ないですし、収入的にも減ることになってしまう。今年3月までは不在が多くなりますけど、4月以降はもう少し地に足を着けて整骨院の診療をしたいと思っています。僕は人とのつながりでここまでやってきた。それはこれからも一番大切にしたいところですね」

 柔道整復師に鍼灸あん摩マッサージ師に柔道2段、B級コーチングライセンス、マイクロバスにバイクの大型免許とさまざまな資格を持つマルチプレーヤーの小松原氏の八面六臂の活躍を、かつてのJリーガー仲間も興味津々で見守っている。昨年スタートした「アテネ会」にも参加しているというが、FC東京クラブコミュニケーターを務める石川直宏氏も「小松原のアグレッシブさはすごい」と羨望のまなざしで見つめるほど、セカンドキャリアを充実させている小松原氏。まだまだ借金もあり、いつどうなるか分からないという不安も抱えるが、「やっぱり大事なのはお金より人。多くの人のためにこれからも働いていきたいです」と意欲をのぞかせた。

 稲本・中澤をうならせた「未完の大器」はこの先も引退後の人生をより一層、輝かせていくだろう。

取材・文/元川悦子

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