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カズ、中田英寿、中村俊輔、本田圭佑…平成のサッカースーパースター列伝

2019.04.29

Photo:Hiroki Watanabe /Getty Images

 平成の31年間で劇的な飛躍を遂げた日本サッカー界。そのけん引役となった看板スターがそれぞれの時代にいた。日本人の既成概念を打ち破り、日本代表強化と海外移籍推進に一役買った男たちの歴史を改めて紐解いてみることにする。

最年長出場記録を更新し続けるレジェンド、三浦知良

 平成初期のスターと言えば、もちろんカズ(三浦知良=横浜FC)だ。52歳になった今も現役を続け、ピッチに立つたびに最年長出場記録を更新し続ける姿は多くの人々の感動を呼んでいる。そのレジェンドが最も輝いていたのが、Jリーグ発足当初だろう。ヴェルディ川崎(当時V川崎、現東京V)に在籍していた93年のリーグ20点を手始めに、94年は半年間で16点。同年夏にはイタリア・セリエAのジェノアへと移籍した。この海外挑戦は必ずしも成功したとは言えなかったが、Jに復帰した95年は23点、96年が23点とゴールを量産。この4年間の固め打ちは圧巻だった。

 日本代表でもブラジルから帰国した90年のデビュー以来、エースに君臨し続け、55ゴールを叩き出している。これは釜本邦茂の80点に次ぐ歴代2位の記録。50点を奪った岡崎慎司(レスター)もカズ超えは難しそうだ。その数字自体も傑出しているが、彼の偉大さは92年アジアカップ(広島)・イラン戦の決勝ゴール、あるいは94年アメリカワールドカップ(W杯)アジア最終予選・韓国戦での決勝弾など「ここ一番」という場面で結果を出し続けてきたこと。だからこそ、98年フランスW杯直前に落選したことは「まさか」の事態だった。後にフットサル日本代表として2012年W杯に出場。違った形でW杯行きの夢を果たしたが、彼がフランスのピッチに立つところは一取材者として見てみたかった。

世界から認められた才能、29歳の若さで現役を引退した中田英寿

 そのカズと入れ替わるようにスターダムにのし上がったのが中田英寿だ。最近は日本酒を世界に知らしめるイベント開催などで多忙のようだが、97年5月21日の日韓戦(東京・国立)で代表デビューを飾った時の衝撃は凄まじいものがあった。加茂周監督(解説者)率いる日本代表はフランスW杯アジア予選を間近に控え、戦力的なテコ入れが求められていた。強心臓の20歳の若武者はいきなり中盤を掌握し、強気のキラーパスで攻撃陣を活性化する。名波浩(磐田監督)への依存度が高かったゲームメークにも積極的に関与し、チームの流れが大きく変わった。

 最終予選ではその中田と城彰二(解説者)、川口能活(U-17日本代表GKコーチ)らアトランタ五輪世代が台頭し、アジアの壁をこじ開ける原動力になった。中田はそのままエースとなり、98年フランスW杯直後にはイタリア・セリエAのペルージャへ移籍。デビュー戦のユベントス戦で2得点という目覚ましい活躍を見せる。2000年には強豪ローマへ移籍。フランチェスコ・トッティの控えという立場に甘んじたものの、00-01シーズンスクデット獲得に貢献する。この時点で中田は世界から認められるスターに成長していたと言っていい。

 ただ、そこから先はやや停滞状態に陥る。パルマに在籍した02-03シーズンは31試合に出場したが、ボローニャ、フィオレンティーナ、ボルトン時代はケガも多く、フル稼働できない時期が多かった。代表も2002年日韓、2006年ドイツW杯には出場したが、ジーコジャパン時代は負傷でチームを長期離脱した。その間、中村俊輔(磐田)と小野伸二(札幌)が中盤をコントロールしていたが、その方がバランスがよかったため、「中田不要論」も浮上したほどだ。

 中田自身がメディア嫌いで、年下のチームメートとほとんどコミュニケーションを取らず、「孤高の人」というスタンスを取り続いたことも、彼自身や代表チームにマイナスに作用した。結局、ドイツW杯を最後に29歳の若さで現役を引退。ラストマッチ・ブラジル戦(ドルトムント)の終了後、ピッチ上に大の字で寝転がった中田のところにキャプテン・宮本恒靖(G大阪監督)が歩み寄ったものの起き上がらず、代表の一員としてファンへの挨拶もしないままユニフォームを脱ぐことになった。引退会見も開かず、その後もサッカー界と一線を画す人生を選ぶなど、中田流のスタイルはどこか違和感を覚える。「あれだけのスターだからこそ、サッカー界に何らかの還元をしてくれればよかった」と残念に感じている関係者も少なくない。

圧倒的存在感を放った希代のレフティ、中村俊輔

 中田の2つ年下で同じ時代を生き、2010年南アフリカW杯まで代表キャリアを続けた中村俊輔も平成を代表するスターの1人と言っていい。希代のレフティは19歳だった98年頭に早くも日本代表に呼ばれ、98年フランスW杯行きのチャンスをつかみかけたが、1つ年下の小野との競争に敗れて1度目の挑戦は挫折した。2度目のチャレンジとなった2002年日韓W杯は10番をつけてピッチに立つと思われた。実際、2000年JリーグでMVPを獲得し、誰もが認める存在にもなっていた。が、同世代に中田と小野がいたことで、フィリップ・トルシエ監督からは低評価されがちだった。2002年本番は中田がトップ下、小野が長い間中村が務めていた左サイドに入る形となり、彼自身が押し出されてしまった。

 直後にイタリア・セリエAのレッジーナへ移籍。2005年夏に赴いたスコットランド・セルティックでの経験も強みにして、8年越しでつかんだ2006年ドイツW杯ではエースナンバー10をつけて日本をけん引するはずだった。ジーコ監督からの信頼も絶大だった。けれども原因不明の発熱と体調不良に見舞われ、思い描いたようなパフォーマンスを出せなくなる。初戦・オーストラリア戦(カイザースラウテルン)は自身のラッキーゴールで1点をリードしたが、終盤の3失点で屈辱的な逆転負け。これが響いて、日本は1勝もできずにドイツを去ることになる。「魔物に取りつかれた」という言葉を残した中村自身もW杯の怖さを痛感することになった。

 その後のイビチャ・オシム時代は「中村と高原直泰(沖縄SV)を軸」と言っても過言ではなかった。セルティックでは06-07シーズンUEFAチャンピオンズリーグ(CL)でマンチェスター・ユナイテッド相手に直接FK弾を決めるなど大活躍していて、俊輔なしの日本代表は考えられないほどの圧倒的存在感を誇った。2008年に岡田武史監督が代表指揮官に復帰してからも「俊輔依存症」は続いたが、2009年夏に念願だったスペイン・エスパニョールへ移籍したあたりから雲行きが怪しくなる。クラブで出番を失い、2010年春に国内復帰したが、集大成と位置付けていた南アで先発落ち。98試合出場24得点という偉大な代表キャリアを誇りながら、大舞台で輝けないという悔しい結末を余儀なくされた。

 それでも南アから9年が経過した今も彼は現役を続け、ストイックに高みを目指し続けている。2013年には2度目のJリーグMVPを受賞。精度の高い左足のキックはいまだ健在だ。傑出した武器を持つ選手というのは長生きできる。それを彼は実証しているのだ。

大舞台で必ず結果を出す平成最大のスター選手、本田圭佑

 中村からエースの座を奪ったのが、南ア、2014年ブラジル、2018年ロシアと3度のW杯に出場して4点を叩き出した本田圭佑(メルボルン)である。本田の世代には、インテルでプレーした長友佑都(ガラタサライ)、マンチェスターUにステップアップした香川真司(ベシクタシュ)、イングランド・プレミアリーグ優勝を経験した岡崎慎司(レスター)、シャルケでCLベスト4を経験した内田篤人(鹿島)と傑出した個人が揃っていた。加えて言うと、上の世代にも国際Aマッチ152試合出場という歴代最多キャップ数を誇る遠藤保仁(G大阪)や今季ドイツ・ブンデスリーガで皇帝と称賛される長谷部誠(フランクフルト)らがいた。このタレント軍団の中にあって、大舞台で必ず結果を出す本田という男はやはり頭抜けた存在感を誇った。

「自分の夢は代表の攻撃陣を仕切ることでも何でもない」「日本をW杯で優勝させる」といった数々の大胆発言も多くの人々を大いに惹きつけた。本田は2005年に名古屋グランパスに入った頃から「俺はビッグになりますよ」と堂々と言うような若者だったが、2005年U-20W杯(オランダ)で先発から外されたり、2008年北京五輪で3戦全敗した頃はまだ精神的な弱さを垣間見せることもあった。それが南ア前後から別人のようにメンタル的に強くなった。メディアの前でほとんど喋らず、自分の中で集中力を高めるというアプローチがよかったのかもしれないが、2010~2014年までの急激な成長曲線は絶対的自信を身に着けたことが大きいのだろう。

 ソルティーロ・サッカースクールを立ち上げ、オーストリアのSVホルンやカンボジアのシェムリアップ・アンコールFCの経営に参画するなど、ピッチ外の活動も手掛け始めたのもこの頃。今では実業家としての顔も持っている。ここまでマルチな活躍を見せるスターというのは日本サッカー界には皆無に近かった。そういった部分を含めても、本田圭佑のスケールの大きさはスター中のスターと言ってもいいだろう。「平成最大のスター選手を1人挙げよ」と言われれば、この人を推すしかないというのが筆者の意見である。

 実際、本田を見続けてきたこの14年間は非常に楽しかった。ロシアW杯セネガル戦でゴールを挙げた時、「なぜ本田君はここまで大舞台で結果を出せるのか」と改めて質問し、「僕のことを全然分かってないですね」とお叱りを受けてしまったが、そうやってストレートにぶつかってきてくれるところも有難かった。昨今の若手は本音を表に出さない傾向が強いため、彼と向き合ったような経験はもうできないのかもしれないが、令和時代にも我々の度肝を抜くスターにぜひとも出会いたいものだ。

取材・文/元川悦子

長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。

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