筆者が自衛隊にいた頃、区隊長のM三尉がこんなことを言った。
「お前たちの大半は海外旅行経験者だが、国内には行ってるのか? 関門海峡は? お遍路は? 那智山は?」
長期休暇を海外で過ごす若者は多い。逆に四国の霊場や那智山へ行こうなどと思う人は、正直、少数派だろう。しかしM三尉は、若いうちに国内の歴史スポットへ足を運ぶべきだと力説した。
自分自身が三十路も半ばに届こうとする歳になると、M三尉の言葉が身に沁みて理解できる。ASEAN諸国のあちこちに行った筆者だが、そのくせ国内の名所にはあまり出向いていないことに気づいてしまったのだ。
今回滋賀県に行って当地で宿泊するのも、琵琶湖を肉眼で見るのも人生初である。滋賀県の天気予報をホテルのテレビで観た時は驚いた。琵琶湖の存在感が恐ろしく大きかったからだ。
「湖東焼の窯は、井伊直弼が生きていた頃に大いに栄えました」
そう語るのは、陶芸家の中川一志郎氏である。現在の滋賀県彦根市の特産品だった湖東焼の再興を手がける人物だ。
井伊直弼が保護した「湖東焼」
井伊直弼といえば、言わずと知れた幕末期の大老である。
直弼は日本史上有数の強権政治家だった。安政の大獄は直弼と対立する派閥の関係者や尊皇攘夷を唱える志士たちを次々に弾圧し、死に追いやった。そのため、直弼に対する現代人のイメージは「冷酷な権力者」というものだ。少なくとも、明るい印象はあまりない。
「ですが直弼は“チャカポン”と呼ばれていたほど、茶と歌と能楽に精通していました。自分で茶道の本も書いてます。直弼が桜田門外の変で殺されなんだら、茶道の一大流派を作ってたのと違いますか」
中川氏の言う通り、井伊直弼という人物は「華やかな顔」を持っていた。
一期一会の思想を第一に考える直弼の茶道は、日本文化史のページにもはっきりと刻まれている。そして茶道には陶器が欠かせない。直弼のお膝元である彦根は、湖東焼という特産品があった。19世紀中頃、この湖東焼は彦根藩主に保護される形で最盛期を迎える。
ところが直弼が尊攘志士に暗殺されると、パトロンを失った湖東焼は断絶の道へと向かう。中川氏と話しながら筆者が眺めていた陶器は、いずれも「再興」湖東焼だ。19世紀からの直接的な系譜はない、ということである。
だがそれゆえに、伝統工芸に対して新しい見方や考え方を加えることもできる。中川氏の運営する『一志郎窯』では、誰でも手軽に米を炊くことができる土鍋『味事飯鍋(みごとめしなべ)』を開発した。
現在、クラウドファンディング『Makuake』で出資を受け付けている最中である。