可愛らしいキャラクターたちがごはんを食べ、友達と遊び、ときには泣く。『ちいかわ』を「癒やし」と語る人は多く、今夏公開の映画は興行収入160億円を超えて今年公開作の首位に立つ。ところが作中の世界はずいぶん過酷だ。草むしりや討伐で報酬を得、草むしり検定に挑み、突然現れる危険にもさらされる。それでも登場人物たちは、不条理な環境を変えようとはしない。なぜ大人はこの世界に癒やされるのか。海外経済に詳しい投資家のマイキー佐野氏に聞いた。
『ちいかわ』の住人は、なぜ理不尽に怒らないのか
コミックスは累計500万部を超え、今年6月には日本キャラクター大賞で史上初の3連覇を決めて殿堂入りした。佐野氏がまず目を向けたのは、この世界の労働の仕組みだ。
「『ちいかわ』の世界には、草むしりや討伐、そして草むしり検定があります。強い相手と戦える人ほど報酬も上がっていく。今の社会も、新しく求められるスキルを身につけなければ収入が上がりにくいですよね。私にはそこが重なって見えました」
佐野氏がより引っかかったのは、登場人物たちが仕組みそのものに疑問を向けない点だ。
「労働条件が厳しくても、理不尽な検定があっても、それを倒すべき悪として見ていないんです。生きていくための前提条件として、最初から受け入れているように見えます」
その健気さこそが魅力だと感じる読者は多いだろう。だが佐野氏が違和感を覚えたのは、まさにその「救われ方」だった。
「社会の仕組みに不満をぶつけるのではなく、友達とおいしいものを食べたり、お互いを気遣ったりして、疲れた気持ちを回復させています。小さな満足で痛みを和らげながら生きていく世界なんです」
ちいかわ自身が十分に言葉を話せない点にも、佐野氏は意味を見いだす。
「嫌なことを嫌だと言えない。不満はあるけれど、それを言葉にして外へ出せない。そこも、今の日本人と重なって見えました」
『サウスパーク』は笑い飛ばし、『ちいかわ』は耐え忍ぶ
佐野氏が比較に持ち出したのは、1997年に放送が始まった米国アニメ『サウスパーク』である。丸っこい見た目のキャラクターたちが、社会の建前や偽善、権力をブラックユーモアで斬っていく。暴力や死、不条理を描く点は『ちいかわ』と共通する。ところが、作品から伝わる熱量はまるで違う。
「『サウスパーク』は、世界がおかしいなら、そのおかしさを暴いて笑い飛ばそうとします。社会に対して怒ったり、バカにしたりすることで解放される。かなり能動的な作品なんです。『ちいかわ』の場合は、世界は理不尽だけど、自分たちではどうしようもない。だから友達と身を寄せ合って、どう耐えていくかを考える。方向がまったく違います」
佐野氏はこの違いを、前者は「エナジードリンク」、後者は「精神的な鎮痛剤」とたとえる。
「『苦しいのは自分だけじゃないですよ』と共感することで、すり減った神経を和らげてくれる。私には、そういう役割を持っているように見えます」
怒りで世の中を揺さぶる作品と、共感で心の痛みを抑える作品。国も時代も異なる2作だが、同じ不条理を前にしたときの姿勢は正反対だ。では、日本の人気作はどう移り変わってきたのか。
のび太や花道の時代にあった「補えば変われる」という感覚
人気作品の移り変わりをたどるうえで、佐野氏は『ドラえもん』や『スラムダンク』にも触れる。
「昔の作品には、自分に足りないものを補えば、今とは違う自分になれるという感覚があったと思います。『ドラえもん』もそうですし、『スラムダンク』の桜木花道も、自分の強みを見つけながら成長していきますよね。成長は、弱い部分を何かで補完しながら起きていくものだと思うんです。ですが『ちいかわ』では、その〝補完して変わる〟作用がかなり弱いように感じます」
では、『ちいかわ』に努力の描写はないのか。そう問われると、答えは少し違ってくる。「ちいかわも草むしり検定を3度受けて、ようやく5級に合格しました。学びがまったくないわけではありません。あるとすれば、諦めずに続けることですよね」と語る佐野氏。
両者を分けるのは、努力の先に環境を大きく変えられる手応えがあるかどうかだろう。頑張って状況を覆す物語から、動かない現実の中で今日をやり過ごす物語へ。佐野氏はこの移り変わりに、時代の変化を読み取る。
「普通の善意」が英雄になった
その手前にあった作品として、佐野氏が挙げるのが『鬼滅の刃』だ。
「『鬼滅の刃』では、自分にリスクがあったとしても、損得を超えて他人のために動きます。理不尽な状況でも、人間としてどう振る舞うのか。その希望がまだ残っていたんです」
炭治郎がヒーローとして受け止められた背景にも、佐野氏は社会の変化を見ている。
「他人のために動くことは、本来なら普通のことだったはずです。でも損得で行動する人が増えれば、そういう人が英雄のように見えるようになります。そこに多くの人が憧れたのではないでしょうか」
ジャンルも狙いも異なる2作品を同じ物差しで測るのは、いささか乱暴かもしれない。ただ、読者が「どんな主人公に自分を重ねるか」に絞れば、両者のコントラストは際立つ。
「私の中では、『鬼滅の刃』が絶望に対する最後の希望でした。まだ世界に立ち向かっていこうとする人物が支持されていた。でも『ちいかわ』では、世界を変えるよりも、その世界の中でお互いに慰め合いながら生きていく方向へ変わっています」
『ちいかわ』人気が映す、日本人の「心の二極化」
では、『ちいかわ』のヒットは日本社会の何を映しているのか。佐野氏が口にしたのは「二極化」という言葉だった。
「今回、『ちいかわ』を見て、日本は精神状態の面でも、さらに二極化していくのではないかと感じました。日本人の中にも、ものすごく成長する人や優秀な人はいます。一方で、今の状況を受け入れて、その中で生きていこうとする人もいる。どちらが上という話ではありません」
この二極は、『ちいかわ』への反応そのものと重なる。過酷さを前提として受け入れ、仲間との小さな満足に救われる人は、この作品を「癒やし」と呼ぶ。一方、その健気さに引っかかり、仕組みのほうを問いたくなる人は、佐野氏と同じ「違和感」の側にいる。先の見えない時代に心を守る居場所を求めるのも、ひとつの選択だろう。
佐野氏は、作品そのものも高く買っている。
「これだけの社会構造を、ここまでシンプルな作品にしているのはすごいと思いました。私はそこに一番驚きましたね」
『ちいかわ』は、社会にすでに漂っていた感覚を、誰もが手に取れるキャラクターと物語に落とし込んでみせた。大人たちが思わず自分を重ねてしまうのも、その精度の高さゆえだろう。癒やされるか、違和感を覚えるか。その反応には、自分がいまどちらの側で毎日を送っているかが映っている。
【識者プロフィール】
マイキー佐野(佐野義仁)
’82年生まれ。投資家、経営コンサルタント。オレゴン州の高校卒業後、米国ポートランド州立大学へ進学。同大学中退後、帰国子女枠で日本の大学に入学し、卒業。商社のバンコク駐在を経て独立し、カンボジアで投資会社を設立。世界40か国以上でM&Aや企業コンサルを手掛ける。YouTubeチャンネル「マイキーの非道徳な社会学」で海外経済とビジネスの生存戦略を発信し、著書『ずる賢い人のための億万長者入門』(KADOKAWA)は7万部のベストセラー。
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