日本各地で新たな観光列車が次々と誕生している中、静岡県でも新たな観光列車が誕生した。
それは「南アルプスあぷとライン」の愛称で知られる大井川鐵道の井川線を走る観光列車。井川線は秘境ローカル線として鉄道ファンにはおなじみで、ダム建設の資材を運ぶために作られた。その全列車が今年7月1日から観光列車として運行されている。
以前から観光に人気の井川線だが、観光列車への転換は簡単ではなかった。井川線の運行区間は山深い地域で沿線に民家は少なく、利用客は1日あたり100人前後と厳しい状況が続いていた。
大幅な値上げには賛否両論
そこで2024年から大井川鐵道のトップに立つ鳥塚亮社長は、井川線の全列車を観光列車にして付加価値を出し、運賃を片道1340円から3500円に上げて経営状況を改善しようとした。存続が危ぶまれる井川線を残すため、思い切った大ナタを振るおうとしたのである。
しかし、この構想は沿線から反発を受ける。井川線が走る川根本町議会の議員7人が、値上げの再考を求める要望書を国土交通省中部運輸局に提出。これを受けて鳥塚社長はブログに、
「『別に井川線が廃止になったとしても、世の中大勢に影響はないし、地域の人たちの観光産業は困るかもしれないけど、自分たちで反対してこの話をつぶすんだったら、それは自己責任だから私が責任を感じることもないし。』とか思う自分もいるわけですよ」
と投稿(現在は削除)。町議会や沿線住民との溝が深まり、観光列車化は延期された。その後、鳥塚社長は沿線住民に向けた説明会でブログの投稿を謝罪。本来の予定から1カ月遅れでなんとか観光列車化にこぎつけた。
大井川鐵道とはどんな路線?
難産の末に観光列車化した井川線はどんな路線なのか。観光列車に乗る価値はあるのか。まずはどんな路線か振り返ってみよう。
井川線は、大井川のダム建設に使われる資材を運ぶために作られた。千頭駅と井川駅を結ぶ25.5kmの路線で、そのほとんどが山間部を走り、トンネルは61カ所、橋梁は55カ所にもなる。
アプトいちしろ駅と長島ダム駅の間は90‰(1000m進むと高低差が90m変わる)もの急勾配があり、通常の機関車では登ることができないので、「アプト式」と呼ばれる方式を採用した。アプト式の列車に乗ることができるのは、日本ではここだけ。それほど貴重な路線だ。アプト式については、後ほど写真で詳しく説明したい。
旅行代金は片道3500円(6歳以上12歳未満は1750円)。事前に専用サイトで予約が必要で、空きがあれば当日でもオンラインや駅窓口(一部)で購入できるが、事前予約しておくほうが無難。これが基本的な観光列車のプランで、他にもお得なセットプランが用意されている。
2人1組で千頭駅から接岨峡温泉駅までの任意の駅で往復するプランは1万2000円。通常よりも1人あたり1000円安く乗車できる。他にも千頭駅近辺の飲食店が手掛けるお弁当がつくプランや、接岨峡温泉の入浴チケットがセットになったプランもあり、季節によって変わるため、大井川鐵道のサイトを確認して自分に合ったものを選ぶといいだろう。
10月と11月に行われる新たなプランは、接岨峡温泉駅の森林露天風呂とわさび丼がセットになったプラン。千頭駅と接岨峡温泉駅の往復切符も込で7700円とお得なプランになっている。
ちなみに、接岨峡温泉駅を10時45分に発車する上り列車と、千頭駅14時35分発の下り列車には一般車両が連結され、片道830円(千頭駅-接岨峡温泉駅)で乗車できる。料金を聞くと利用したくなるが、運行時間帯から観光に使うのは現実的とはいいづらいものになっている。
実際に乗車してみた
それではさっそく井川線に乗車してみよう。乗車する千頭駅へは、大井川本線を利用するといい。大井川に沿って走り、雄大な流れを楽しめる。
千頭駅のホームに止まる車両を見れば、誰もが声を上げるはず。一般的な車両よりもかなり小さいのだ。井川線の線路幅は1067mmの狭軌なので、客車もディーゼル機関車も横幅が狭く、高さも低くなっている。そのせいでとても愛らしいルックスだ。車内も狭いが、かえって非日常感を醸し出してくれ観光気分を盛り上げてくれるのだ。
千頭駅を出発すると、線路はすぐに山へと入っていく。大井川に沿って走るのは本線と同じだが、車窓からの風景はより渓谷らしさを増してくる。
走り出して約45分、アプトいちしろ駅で最初の見せ場が待っている。アプトいちしろ駅と次の長島ダム駅の間はアプト式になっているため、ここで専用の電気機関車を列車の後ろに取り付ける作業が行われる。後方からゆっくりと近づいてきた電気機関車「ED90形」が連結される場面をすぐ近くで見ることができ、大迫力のシーンが繰り広げられる。鉄道好きでなくとも楽しめるはずだ。
改めてアプト式について説明しよう。この区間には90‰の急勾配があり、通常のレールと車輪では空転して登っていくことができない。
そこでレールの間に歯のついた3本のレールを敷き、電気機関車の下部に取り付けられた歯車を噛み合わせて登っていく。鉄道としてはありえない急勾配を力強く駆け上がっている様子は興奮ものだ。もちろん、ここでしか味わうことができない。
アプトいちしろ駅を出てまもなく、進行方向右手に長島ダムが見えてくる。これも井川線の見どころの1つ。長島ダムは大井川水系では唯一の多目的ダムであり、水力発電は行っていない。堤の高さは109mあり、堂々たる姿。堤体の表面には、石など天然の素材が多様され、他のダムとは違った美しさだ。
長島ダム駅では電気機関車の切り離しが行われる。アプトいちしろ駅でさっそうと現れて列車を後押しし、次の駅で去っていく電気機関車にはヒーローのようなかっこよさを感じてしまう。ぜひムービーに収めたいシーンだ。上り列車の場合はこの逆、長島ダム駅でED90形をつなぎ、アプトいちしろ駅で切り離しが行われる。
次に停車する奥大井湖上駅は井川線のクライマックス。長島ダムによって生まれた接岨湖に突き出した半島の先端にホームがあり、両端は鉄橋に挟まれている。
見渡す限り人家はなく、文明から切り離されたような気分を味わえるのだ。駅から接岨峡温泉駅方面の橋を渡り、山道を20分ほど登った所にある展望所からは接岨湖と橋、駅を一望できる。
この眺望は井川線の絶景として有名で、SNSには多くの写真が上がっているが、なるべくなら見ることなく現地に足を運び、自身の目で確かめてほしい。山道はなかなか険しいので、動きやすい靴で行くことをおすすめする。
絶景と並んで井川線の名物になっているのが「秘境駅」だ。閑蔵駅や尾盛駅、川根小山駅は駅周辺に何もない秘境駅として知られている。残念ながら観光列車はこれらの駅に停車しないので、車窓から雰囲気を楽しみたい。
井川線の沿線には、よく知られる大きな観光地はない。しかし、路線そのものに他の観光列車では味わえない魅力がたっぷりと詰まっている。片道3500円の価値は十分あるのではないだろうか。
取材・文/金子長武
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