今年の7月3日、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われた世界的スター、テイラー・スウィフトの結婚式が、アートの世界でも話題となったのをご存じだろうか?アーティストのジャスティン・ジニャックが、結婚式後に路上に落ちていたペットボトルのキャップや吸い殻、AirPodsの片耳 といったゴミを拾い集め透明なキューブに封じ込め、1点25ドルの限定作品として販売したところ、世紀のカップルを巡る熱狂の記憶を封じ込めたこのゴミの塊がたちまち完売したという出来事があったからである。
誰かに捨てられたゴミを箱に入れただけでなぜ価値あるアートになるのか。ゴミがアートになるのであれば、アートもゴミになるのか。そもそも、ゴミとアートを分かつ境界線はどこにあるのか。実はこの問いは今に始まったことではない。今回は、アートの歴史を振り返りながら、そんなゴミとアートのビミョウな境界について考えていきたい。
ゴミがアートになる瞬間:アルチンボルドがゴミで描いた権威の虚飾
ゴミがアートになりうるというかという命題に対する回答の一つは、16世紀後半に宮廷画家として活躍したイタリアの奇才ジュゼッペ・アルチンボルド(1526–1593)に見られる。彼は、野菜や動物、不用品などを緻密に寄せ集めて肖像画を描いたことで有名な画家である。
1566年の代表作《法律家》の顔を構成しているのは、市場の片隅に打ち捨てられた鳥の残骸や魚の身、衣服は積み上げられた訴訟書類の束である。当時の人々にとって、これらは食卓の残りカスや用済みの紙屑にすぎなかった。しかし、アルチンボルドはこれらをコラージュすることで、当時の法律家に対する強烈な風刺を宿したアートへと昇華させた。民衆の血を吸い、書類ばかりを見て血の通っていない人間の醜悪さを暴くため、あえて生肉や古文書の山というゴミ同然の素材を用いたのだ。不用品がアーティストの卓越した構成力と批評精神を通ることで、社会に訴える芸術へと変貌を遂げたのである。
アートがゴミになる瞬間:フェルメールの名画が辿った数奇な運命
一方で、本来は最高峰の芸術として生み出されたはずのアートが、時代の変化や忘却によってゴミ同然の扱いを受けてしまうという、逆の現象も歴史上しばしば起きている。その一例が、今年大阪の美術館にも別の作品が来日し話題になっている17世紀オランダの天才画家ヨハネス・フェルメール(1632–1675)である。
彼が画家としての魂を注ぎ込み、生涯手放さなかった最高傑作に、アトリエを描いた《絵画の芸術》という作品がある。しかし、フェルメールの死後、彼の評価は失墜し、名前すら美術史から抹消されてしまった。19世紀初頭には、この傑作も古物市で、どこの誰とも分からない古い板切れとして、現在の価値からは想像もつかないような二束三文の価格で売買されてしまった。当時の人々にとって、この崇高な芸術は場所を取る汚れたガラクタ、すなわちゴミにしか映らなかったのである。
ちなみにこの作品、19世紀後半にフェルメールが再発見されると状況は一変する。第二次世界大戦中、ドイツのアドルフ・ヒトラーはこの絵に固執し、国家予算レベルの巨費で持ち主から半ば強引に買い上げ、コレクションに加えた。戦後、回収されたこの絵はオーストリアに返還され、現在はウィーン美術史美術館の門外不出の至宝として扱われている。もし現在、これが市場に出回れば約450億から900億円以上の価値を認められるという。かつてゴミとして扱われた作品が人類の至宝へと化した歴史は、アートの価値がいかに脆弱な評価の上に成り立っているかを物語っている。
アートとゴミのビミョウな境界線を露呈した、イタリアの現代美術館ムゼイオンで起きたハプニング
現代においては、アートとゴミを隔てる見えない境界線がいかに脆い基盤の上になり立っているかを示すハプニングが2015年、イタリアの現代美術館ムゼイオンで起きている。
ある現代美術家グループが、享楽的な消費社会を風刺するため、シャンパンの空き瓶やタバコの吸い殻、散らかった紙吹雪などを床一面に散らばせたインスタレーションを展示していた。ところが週末の閉館後、清掃に入ったスタッフがその散らかり具合を、パーティーの後のひどい散らかりようと判断し、その作品をすべて黒いゴミ袋に詰め込み、本物のゴミとして廃棄してしまったのである。幸いにもその“ゴミ”は分別回収され、数日後に無事復元されたが、このハプニングは現代アートの本質をえぐり出すことになった。どれほど精緻なコンセプトが込められていようとも、展示されている場所が美術館であり、これはアートであるという社会的な文脈が剥がれ落ちた瞬間、名作も一瞬にしてただのゴミへと還るのである。アートとゴミを隔てているのは物理的な実体ではなく、お互いの共通認識という極めて薄い壁にすぎないことを、この事件は証明したのである。
おわりに
結局のところ、ゴミがアートになるのか、アートがゴミになるのかという問いは、対象物への問いかけではなく、私たち人間の眼差しそのものへの問いかけなのかもしれない。私たちは何に価値を見出し、何を不要として切り捨てるのか。ゴミとアートの境界線という終わりのない問いを考えることは、私たちの価値判断の枠組みそのものに疑問を投げかけ見つめなおすきっかけになるだろう。
文/コウチワタル
東京在住の美術ライター。2025年にアートナビゲーター(美術検定1級)の資格取得。中学生の時に美術の資料集で目にしたルネ・マグリットの作品に衝撃を受け、以来、世界の美術館や芸術祭を巡る。現在は、多忙な日々を送る現代人に向けて、日常をクリアに変える「視点の変換」としてのアートの楽しみ方を多角的に発信している。




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