天下の名湯・草津温泉に、星野リゾートの温泉旅館ブランド「界」として最大規模となる「界 草津(かい くさつ)」が2026年6月に開業した。しかし、この華々しい誕生の裏には、20年という気の遠くなるような歳月と、プロジェクトの根本を揺るがす危機、そしてそれを執念と冷徹なロジックで打ち破ったマーケティング&プロジェクトマネジメントの劇的なドラマが存在していた。
通常、同ブランドにおける連泊率は約1割とされるが、「界 草津」では実に約4割という異例の連泊(長期滞在)率を記録している。「1泊して湯畑を観光して終わり」が定番だった草津温泉において、なぜこれほどのブレイクスルーが可能だったのか。その背景には、80mのトンネルがもたらした体験設計と、「脱・抱え込み」の地域共生モデルがあった。
「界」ブランド最大級の施設が登場
星野リゾートが全国に25箇所展開する温泉旅館ブランド「界」は、「王道なのに、あたらしい。」をテーマに、地域の伝統文化や工芸を体験する「ご当地楽(ごとうちがく)」や、地域の文化に触れる客室「ご当地部屋」などを通じて、その地ならではの温泉文化を提案している。2026年6月に開業した「界 草津」は、敷地面積11万m²超、客室数94室というブランド最大スケールを誇る施設だ。草津白根山の麓に広がる静謐な高台に位置しながら、宿泊者専用のトンネルを通じて活気あふれる温泉街とシームレスに繋がるという、まったく新しい滞在スタイルを提示している。
草津の情景と「錆(サビ)」の美を写す
客室および館内を彩るのは、群馬の絹産業の歴史に想いを馳せるシルクアート。世界的に活躍するテキスタイルデザイナー・須藤玲子氏が手掛けた。 壁面に掲げられた一枚の美しい織物アートは、桐生織物の伝統技術を用い、雄大な山並みと、揺らぎ立ち上る「草津の湯けむり」を立体的に表現している。
客室番号の背景プレートなど館内の随所には、布に実際の鉄の錆(サビ)を転写させた独自のテキスタイルが採用された。強酸性の温泉ゆえに岩や鉄が酸化する草津独特の現象を、単なる劣化ではなく「自然のパワフルさであり、一回性の美しさ(錆を愛でる文化)」としてアートに昇華させている。客室に一歩足を踏み入れれば、空間全体が知的インスピレーションを刺激するギャラリーへと変貌する。
大浴場には、自然湧出量日本一を誇る草津温泉から、性質の異なる2つの酸性泉を引き込んでいる。一つは、随一の湧出量・高温・強酸性が特徴の「万代鉱(ばんだいこう)源泉」。もう一つは、引湯施設が限られる希少でやや穏やかな酸性が特徴の「西の河原(さいのかわら)源泉」だ。
湯上がりには、薪のパチパチという音が心地よい「暖炉ラウンジ」で身体を休めることができる。さらに館内には、静かにこもって思考を整理したり、滞在中のワークスペースとしても機能する「書斎スペース」を完備。
提供される「上州豊伝会席」は、湯畑と湯もみをイメージした器で供される先付けから始まり、視覚的にも知的好奇心を刺激する。宝楽盛りの器の蓋に上毛かるたがプリントされているあたりも、土地へのリスペクトを感じる。メインの「上州常夜鍋」は、丸ごと柔らかく煮込んだ鶏もも肉と群馬名産のほうれん草を、極上の出汁とともに味わう。
地域文化を体験できる「ご当地楽」専用棟では、「シルクを紡ぐ上州座繰り(ざぐり)」のプログラムを実施している。機械化された製糸ではなく、木製の「座繰り機」を使って手作業で繭(まゆ)から糸を挽き出す、江戸時代から続く伝統技法だ。現在、この手作業の座繰りを継承する職人はごく僅かしか存在せず、非常に希少な文化体験となっている。
ゲストは実際に自らの手で繭から糸を挽き、その挽きたての絹糸と色糸を組み合わせて、オリジナルの「タッセル(キーホルダー)」を作り上げて持ち帰ることができる。デジタル時代だからこそ、手仕事の繊細さと糸の力強さに触れる時間は、凝り固まった思考を解きほぐす極上のマインドフルネスとなる。
絶望の淵から「隣地購入」へ。トップの妥協案に「NO」を突きつけた突破劇
実は、星野リゾートが「界 草津」の構想を開始したのは約20年前のこと。当時から草津温泉の魅力を最大限に生かした新しい宿づくりが模索されていたが、このプロジェクトは幾重もの巨大な壁にぶつかり続けた。最大の難所となったのは、高台にある施設と温泉街をどう接続するか、という問題。最初は「スロープカー」の設置が検討されたが、崖の地質が脆く、支柱となる杭が打てないため断念。続いて「トンネル掘削」に舵を切ったものの、ボウリング調査で水が噴き出し、崩落の危険から現場には絶望感が漂った。
万事休すの事態に、代表の星野佳路氏からも「途中に素敵なお茶屋さんでも作って、休み休み歩いて登ってもらう形にすれば、それも一つの体験になるのでは?」という代替案が持ち上がった。経営判断としては極めて合理的かつ現実的な着地点である。しかし、その提案に信念の「NO」を突きつけたのが、プロジェクトマネージャーを担当した石井芳明氏だ。
「それでは、界 草津は完成しないんです」
草津温泉の魅力は、湯畑周辺の賑やかさとまち歩きにある。宿がどれほど上質でも、アクセスでストレスを与えては非日常の顧客体験が途切れてしまう。「一気に別世界へワープするような非日常の体験が不可欠だ」と確信していた石井氏は諦めなかった。建設会社とともに現場調査を重ねた結果、唯一崩落リスクなく掘り進められるルートを発見する。ただし、そこを通すには「隣地の追加取得」が必要不可欠だった。
すでに予算も工期も決まっている中での隣地買収は、プロジェクト管理上、極めて異例の決断である。しかし背水の陣で交渉を重ね、ついに長さ80メートルにおよぶ「宿泊者専用トンネル」を作ることに成功したのである。
「宿に抱え込まない」連泊率4割を生み出すマーケティング戦略
完成した80メートルのトンネルは、単なる地下通路ではない。木立と静寂の世界から暗がりを抜けると、湯畑周辺の賑やかな日常が広がる。石井氏が「結界」と呼ぶこのトンネルは、ゲストの心を整え、世界観を切り替える強力な心理的スイッチへと昇華したのだ。そして、この「80mの結界」は、界のビジネスモデルの面でも劇的な成果をもたらした。それが「連泊率4割」という数字である。
最近では、オールインクルーシブの導入や館内サービスを充実させることで、チェックインからチェックアウトまで宿泊施設内で完結させるスタイルが人気になっているしかし、「界 草津」の支配人である石島俊大氏は「宿でお客さまを抱え込む気は一切ない」と断言する。「界 草津」では、80メートルのトンネルを通ることで、ゲストがいつでも気軽に温泉街へ繰り出せる環境をハード面から整えた。館内では外湯巡りが楽しめる「界 草津まちめぐりセット」を用意し、スタッフが地元のおすすめ飲食店やカフェを積極的に案内する。
その結果、ゲストは1泊目には「湯畑観光や湯もみ体験といった王道の草津」を楽しみ、2泊目には「裏草津のカフェ巡りや、宿の木立の中で深呼吸する現代湯治」を味わうという、ゆとりある滞在スタイルを確立させた。
「1泊では『王道』しか体験できないが、2泊あれば、その土地の真の魅力や自分だけの過ごし方に出会える」(石島支配人)
顧客を解放し、地域全体をリゾートのコンテンツとして捉え直したことで、連泊利用者が増えたことだけでなく、地域経済への回流という双方のメリットを生み出したのだ。仄暗い80メートルのトンネルを抜け、風に木々がそよぐ高台に立ったとき、そこには街の喧騒から離れた静寂が待っている。
湯畑の賑やかさを楽しむ時間と、宿の木立のなかで深呼吸する時間。その2つの世界を自由に行き来しながら過ごす時間は、日々の忙しさで凝り固まった心と身体を、驚くほど軽やかに解きほぐしてくれるはずだ。
【取材協力】「界 草津」
取材・文 / 岡のぞみ




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