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村上春樹初の主人公が女性の小説「夏帆 The Tale of KAHO」は過去作と照らして読むと何倍も楽しめる理由

2026.08.01

長編では初の女性の主人公という村上春樹の新作小説『夏帆 The Tale of KAHO』が7月3日に発売された。

過去作と照らし合わせて読むことで生まれる物語の奥行

2023年出版の『街とその不確かな壁』以来3年ぶり、16作目となる長編小説だ。文芸誌「新潮」に2024年から2026年まで4回に分けて発表され、書籍化にあたって加筆改稿、章のタイトルを改題したという。そんな本作の書き出しは、なかなか挑戦的だ。

「これまでいろんな女性とデートのようなことをしてきたが」とその男は言った。「正直いって、君みたいな醜い相手は初めてだよ」

懇意の編集者から紹介された男性とブラインドデートで会い、こんな言葉を浴びせられたイラストレーター・絵本作家である主人公・夏帆。彼女の身にはこれ以降、奇妙なことが次々と起こるようになる。埼玉県浦和市出身の彼女は実家(父は開業医、母は主婦)を出てから東京都足立区花畑のアパートに住んでいたが、夢の中に「ありくい」が出てきて「あなたは武蔵境へ越さなくてはなりません」と言われ、東京都下の武蔵境へと引っ越すことになり、奇妙な登場人物たちと対峙することになる。

初対面の人から理不尽に詰め寄られる展開は、2020年出版の短編集『一人称単数』の表題作「一人称単数」の世界と似通っている。いつもは着ないスーツを身にまとった主人公「私」(普段はくたくたのスウェットシャツとジャージ・パンツ姿)が初めて入ったバーで、隣に座った50歳前後の女性から唐突に難癖をつけられ、自分は「あなたのお友だちの、お友だち」であり、その友人が3年前にあなたからおぞましいことをされた、恥を知りなさい、と責められるのだ。「身に覚えのない不当な糾弾」に耐えられなくなった主人公が店の外へ出ると、季節は変わり、月が消えていて、街路樹の幹には太い蛇が巻き付き、歩道には灰が積もり、道行く人が顔を持たない奇妙な世界になっていた……というあまりに理不尽な内容だ。

『夏帆』の主人公も普段は動きやすい服装を好み、ドレスアップして行った先であれこれと難癖をつけられ、そこから世界がおかしくなって巻き込まれる展開が共通している。村上はこれまで過去の作品がストレッチして長編小説になるケース(「蛍」→『ノルウェイの森』、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」→『ねじまき鳥クロニクル』)があるが、今回の『夏帆』と「一人称単数」に通じる世界観は、短編集『女のいない男たち』に収められた「木野」で描かれた物語が『騎士団長殺し』と通底するイメージに近い。

ハルキストの心をくすぐる村上作品おなじみの不思議さ

今作には村上作品ではおなじみの不思議な体験があり、誰かがいなくなり、動物が出てきて、性的な描写(今回は非常に控えめである)や「やれやれ」「オーケー」というセリフ、音楽(終盤にクラシック音楽についての話が少しだけある)が出てくる。そして女性主人公ではあるものの「地味だがなぜかモテる」という村上作品の男性主人公の特性がある。このようにこれまでのカラーを踏襲しながら母子関係を描くという新たな試みに挑戦し、性的描写や古い音楽への言及が控えめであることが特徴である。村上は本作についてのインタビューでこんなことを話していた。

「親子のことを書くのは、あまり好きじゃなかったんです。でも僕は小説を書くたびに、何かこれまでやらなかったことをやろうというのはいつもある。今回は親子のことがそれだったかもしれない。父と息子じゃなく、母と娘だから書きやすかったということもあるかもしれないですね」(朝日新聞のインタビューより)

本作は過去作に比べ読みやすく、近作の長編『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』などと比べると非常に小さな世界=ある家族の物語だ。それは2020年に出版した父のことと自らのルーツを書いたエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』、誰もが孤独を感じたコロナの時代、そして村上自身の大きな病気での入院(17キロも痩せ、一生書けないのかなと思ったこともあったそうだ)を経て書かれた作品であることが影響しているのだろう。

本書で描かれる年代を考察してみる

また本作の舞台がいつの年代の話なのか、作中では直接的に言及されていないので、小説内の描写から推測してみたところ、「文明の果つるところ」と描写された引っ越し先の武蔵境駅が新駅舎になっていること(鉄道連続立体交差事業が完了したのは2014年)、夏帆の父が長年乗ったMT車のカローラ(カーステレオはカセットテープで、ナビゲーションシステムも搭載されていない)から、マダーレッドの小型レクサス(『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』と同様、レクサスは今作でも悪しざまな言われようだ)のハイブリッド車へと乗り換えたこと(ハイブリット専用車のレクサスCTに新色マダーレッドが追加されたのは2014年)、26歳の夏帆がさいたま市の名に馴染めず浦和市にこだわること(浦和市、大宮市、与野市が合併してさいたま市になったのは2001年なので、それ以前に生まれて浦和市という地名に親しんでいたことになる)から、2010年代中頃の話であろうと思われる。

また、引っ越し先は最寄りの武蔵境駅からバスで15分ほどの距離にあるとのことなので、家はおそらく駅南口からバスに乗った先の三鷹市か調布市に立地しているのだろう(駅北口からバスで15分行くと西東京市に入り、その場合は西武新宿線が最寄り駅になる)。

77歳となった作家の新たな挑戦、過去作との共通点を深読みしながらぜひご一読を。

文/成田全(ナリタタモツ)

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