“スロー”が見直されている時代
ネット通販では今や翌日配送が普通のことになっているが、考えてみればすごい時代になったものである。
誰もがアクセスできる情報が爆発的に増えている中、単なる知識だけではアドバンテージを得られず、スピートがますます重要視されているとも言える。特にAI(人工知能)の普及が進むにつれて多くの分野で効率性とスピードが自ずと高まっているのだ。
かつてないスピード感で動いている今日の社会だが、そうであるからこそプライベートでは時間に追われる生活から脱却し“スロー”であることが見直されているのかもしれない。
効率やスピードを最優先する現代社会に対するアンチテーゼとして、暮らしや体験の質を重視するライフスタイルとしてのスローカルチャーが少なくない支持を集めている。
スローライフやスローフードなどと並んで、スローな旅としてのスローツーリズム(スロートラベル)も注目されている。スローツーリズムはその地域の特色をゆっくりと深く味わうことを志向する旅のスタイルだ。
旅行といえば次から次へと観光名所を駆け巡るイメージが強い現代において、スローツーリズムは新鮮な選択肢となる。旅先でじっくりと時間を過ごすことで、地域文化のより深い理解、マインドフルネス、そして精神的な癒しが促される。
たとえば静岡県の天竜浜名湖鉄道で運行されている「マリメッコ列車」は、車内のカーテンやヘッドカバーに北欧の人気ブランド「マリメッコ」のファブリックが使用された特別なインテリアの1両編成の列車で、のどかな風景の中をのんびり走る鉄道の旅が北欧文化が好きな人々に特に人気である。
スローツーリズム需要が26%の成長見込み
夏の旅行シーズンを迎えているが、世界的なインフレ基調と燃料費高騰によって旅行費用も上昇し、夏のバケーションの内容を見直す動きもある中、スローツーリズムはこれまで以上に脚光を浴びているようだ。欧州旅行委員会(ETC)は、スローツーリズムが2025年の観光旅行市場の22%から2026年には26%に成長すると報告している。
スローツーリズムとは、移動距離や訪問箇所の多さよりも、一つの場所に長く滞在し、その土地の文化や暮らし、人々とのつながりを深く体験することを重視し、日常を離れて心身をリフレッシュさせる旅の形態として新たな価値を獲得しているようだ。
韓国・永山大学、世宗大学と米・ネバダ大学、ハワイ大学の研究チームが昨年に「Journal of Hospitality and Tourism Insights」で発表した研究では、スローツーリズムは(過ごし方の)スローダウン、没入、自己反省という3つの次元で構成されており、ポジティブな感情に大きな影響を与え、観光客のコミットメントと主観的幸福感を媒介していることを報告している、
男女別の分析では、男性観光客においてスローツーリズムは主観的幸福感に直接的なプラスの影響を与えていたが、女性観光客においてはスローツーリズムは観光地へのコミットメントを介して主観的幸福感にプラスの影響を与えていた。
たとえば温泉などでゆっくり過ごす場合、男性はゆっくりすること自体を楽しむ一方、女性は好みの温泉宿や施設でゆっくり過ごしたいと望む傾向があると言えそうだ。
退屈は創造性の母
スローツーリズムにはさまざまな効能がありそうだが、退屈してしまうのではないかという懸念があるかもしれない。自宅にいる時と同じようにスマホばかり見て過ごすことになってしまっては旅をする意味もなくなる。
しかし退屈を10年以上研究してきたセントラル・ランカシャー大学の心理学者、サンディ・マン氏によれば、退屈は創造性の母であるという。
マン氏の研究チームが2014年に「Creativity Research Journal」で発表した研究では、実験を通してさまざまな課題における退屈と創造的潜在能力の関係を検証している。
研究チームは2つの実験を実施した。最初の実験では80名の参加者が退屈な文章作成活動を行うグループと行わないグループ(対照群)に分かれ、その後創造的な課題に取り組んだ。
2番目の実験では90名の参加者が、退屈な活動の種類(退屈な文章作成活動、退屈な読書活動)と、それに続く創造的な課題に取り組んだ。
結果は、退屈な活動が創造性の向上につながり、退屈な読書活動は状況によっては退屈な文章作成活動よりも創造性を高めることが示唆された。
研究者たちは、退屈が新たな刺激や興味深いものを求める意欲を刺激し、それがひいては創造性を高める可能性があると考えている。この研究は精神的に刺激的な活動から一時的に離れて退屈な時間を過ごすことが、実際には創造性にとって有益であることを示唆している。
スローツーリズムは「何もしない時間」を積極的に味わう好機とも言える。
脳を“フリー”にする
研究ではまた退屈と創造性を結びつける因子としての空想が重要な役割を果たしていることも示唆されている。
ボーッとしている時や空想にふけっている時に活発になる脳の神経回路は「デフォルトモードネットワーク(DMN)」と呼ばれ、脳に何も課せられていない“フリー”な状態の時に最も活発になる。
スケジュールに縛られないスローツーリズムでは、脳は自由に思考を巡らせ、じっくりと考える余裕が生まれる。実際に多くの旅行者は、ゆったりとした旅を体験した後、より創造的になり、インスピレーションが湧き、精神的にリフレッシュしたと報告している。
自宅を離れて日常から抜け出し、異なる快適な環境に身を置くことでストレスが大幅に軽減されて気分が向上し、さらには認知の柔軟性も高まることが一貫して示されているのだ。
スマホを手にすることなく、ゆっくりと退屈を楽しむスローツーリズムをこの夏に試してみてもよいのだろう。
※研究論文(Journal of Hospitality and Tourism Insights)
https://www.emerald.com/jhti/article-abstract/8/3/1150/1244161/Slow-tourism-experience-impact-on-emotions
※研究論文(Creativity Research Journal )
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/10400419.2014.901073
文/仲田しんじ
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