元プロ野球・屋鋪要さんが現役時代の逸話から多趣味を楽しむ現在までを赤裸々に記した新刊著書『ノーサインで走れ!』が小社より好評発売中だ。そんな本に書かれている内容などについて、著者である屋鋪さんと、横浜DeNAベイスターズの野球実況などで知られる実況アナの吉井祥博さんが特別に対談! 野球の思い出はもちろん、共通の趣味などを全3回の記事で語り尽くしてもらった。Vol.2では、スーパーカートリオとして活躍した当時のことなどについて、屋鋪さんに振り返ってもらった。
Vol.1の記事はこちら
ベイスターズの野球実況・吉井祥博アナが語る!屋鋪要さんの野球解説者としての素顔
元プロ野球・屋鋪要さんが現役時代の逸話から多趣味を楽しむ現在までを赤裸々に記した新刊著書『ノーサインで走れ!』が好評発売中だ。 そんな本に書かれている内容などに…
【新刊書籍『ノーサインで走れ!』出版記念 特別対談 Vol.2】
吉井 私が最初に屋鋪さんを認識したのは、1978年のジュニアオールスターでMVPを獲得した時でした。こんなすごい選手がいるんだなと。
屋鋪 あれは1試合だけのことでしたからね。
吉井 いやいや。なかなかできないことですよ。それに、屋鋪さんは当時おそらく、球界で一番足が速かったですよね。
屋鋪 確かに、スピードは速かったかも。でも、盗塁の上手さでいえば、広島の高橋慶彦さんや巨人の松本匡史さんがいましたけど。
吉井 運動能力が抜群な屋鋪さんがいる横浜大洋ホエールズは、12球団対抗の運動会で大活躍をするイメージがありました。
屋鋪 名古屋で行なわれた球団対抗のマラソン大会で優勝するとかね。全部で5人走るんですよね。
吉井 屋鋪さんは誰にも負けなかったのを覚えていますよ。
屋鋪 そのマラソン大会で監督をしたことがあって、若い選手5人のチームで横浜が優勝したんですよ。監督に賞金100万円が出たんですけど「これ、俺がもらっちゃいけないな」と思って、若い選手5人で分けなさいと。20万円ずつ分けさせたことがありました。その中のひとりは、確か、デニー友利投手だったような。
吉井 デニーさんは確かに頑張りそう! しかしながら屋鋪さんが現役だった頃、あの3人で1、2、3番の打線を組んだのは、やっぱり画期的でしたね。
屋鋪 あれは当時監督だった近藤貞雄さんのアイデア。近藤さんには感謝していますよ。
吉井 その当時、横浜大洋ホエールズって「これが自分たちの野球だ!」というカラーがわかりにくくて。1、2、3番の打順をスーパーカートリオで組んだ時に、初めてカラーが見えたような気がしました。
屋鋪 1985年ですよね。田代富雄さんがホームランを打ち出した頃でした。当時、僕を3番に抜擢したというのは、ある種、博打ですよ。近藤さんは勇気があるなと思いました。
吉井 それは屋鋪さんが一番、体の力があるからだと私は思いましたけどね。スイッチヒッターになったのはいつ頃ですか?
屋鋪 2年目に当たる1979年の夏頃です。左手の手首を痛めてバッティングに力が入らなかったですよ。当時監督の別当薫さんが「お前、スイッチヒッターやってみないか」と。これも一種の賭けですよね。僕は迷いなく「やってみたい」と。この本でも書きましたけど「やってみないか」と言われれば、僕は「やります」というスタンスなので。
吉井 スイッチヒッターといえば、読売ジャイアンツだと柴田勲さんや松本匡史さんという成功例がありましたよね。
屋鋪 広島カープだと、高橋慶彦さんや山崎隆造さん。福岡ダイエーホークスだと松永浩美さん。
吉井 懐かしいなぁ。スイッチヒッターになった時って「人の倍、練習するように」と言われますよね?
屋鋪 2倍といわず、3倍は練習しました。正月から1日500本くらい素振りをしていましたから。
吉井 もともと右打ちだった選手がスイッチヒッターになった際、左打席の膝元のボールを打つのが非常に難しいと聞いたことがありますね。
屋鋪 右ピッチャーの〝食い込んでくるスライダー〟は特に。対応するために、内側からバットを出すのが、なかなか難しいんですよ。
吉井 右ピッチャーが左バッターの膝元にイヤなカットボールを投げることもありますよね。
屋鋪 僕が右打席に立つケースで、広島の左腕・大野豊さんがまさにそうでした。膝元に食い込んでくるスライダーがね。ボールだとわかっていても振っちゃう。
吉井 確かに。ともすれば空振りしたボールが、ヒザに当たりそうですから。今でいえば、横浜DeNAベイスターズの左腕・東克樹投手!
屋鋪 東投手の投げるスライダーやカットボールはすごく有効ですよね。

吉井 ちなみにスーパーカートリオを実際にやっていてどうでしたか?
屋鋪 僕は、高木豊さんが最も1番打者に適していると思っていたんです。バッティング技術は僕よりもずっと上だし、選球眼がよくて僕よりも出塁率は高いから、絶対に適任でした。足の速さでいえば僕が1番を打つのがよかったのかもしれませんけど。2番の加藤博一さんは高木さんをフォローする役目もしっかり果たしていたし、野球をよく知っておられたので、2番は適任だったでしょう。3番の僕はといえば、ちょうどその頃、バッティングのコツがつかめてきた時期。ホームランも多い時で15本打ちましたから。そして何よりも勝利打点が多い時で15点あったんです(1985年)。これは阪神タイガースにいたランディ・バースに次いで2位の記録。今でも自慢できると思っています。
吉井 1番と3番で何が違うのかといえば、1番は相手に嫌がられること、3番は相手に怖がられることがそれぞれ大事って言われますけど、そういう意味では屋鋪さんが3番を打つのは適任だったのかもしれませんね。
屋鋪 僕自身、チャンスではよく打っていたという記憶がありました。
吉井 だから、当時の近藤監督は、あの打順を組んで、おもしろい野球をしてくれたなって思います。
屋鋪 投手の分業制についても近藤監督が、アメリカから取り入れたことだし。1982年には中日ドラゴンズを率いて優勝させていますし。斬新なことに取り組む人でした。
吉井 今でもファンの間ではスーパーカートリオを語り継いでいますから。
屋鋪 それは本当にありがたいこと。近藤監督のおかげですよ。
移籍した当時に屋鋪要さんが感じた
読売ジャイアンツの優勝を目指す強い意識
吉井 毎年岩手に来てくれていた横浜大洋ホエールズが大きく変わっちゃうのかと思ったのが、1993年のオフでした。屋鋪さんが自由契約になって、本当にビックリしましたよね。
屋鋪 解雇されるというのは、僕自身、頭になかったこと。「契約更改で減俸はあるかなぁ」というくらいは思っていたんですけど。1993年のオフ、秋のキャンプで沖縄県の宜野湾市に行っていたんですけど、知り合いの記者さんから電話があって「屋鋪さん、解雇みたいだよ」というふうに言われて「あぁ、そうか」って。
吉井 1993年は苦しみましたけど、1992年はまだ成績が良かったですもんね。
屋鋪 1993年のオフといえば、中日ドラゴンズの落合博満さんがFAして読売ジャイアンツに、読売ジャイアンツの駒田徳広選手はFAして横浜ベイスターズに、それぞれ移籍しました。
吉井 1993年オフには、屋鋪さんだけでなく、高木豊さんも横浜ベイスターズを去ることになりました。そうして生まれ変わった横浜ベイスターズが1998年に優勝することになるわけですが、そのことについて屋鋪さんをはじめとする横浜大洋ホエールズ時代からの選手たちが、どういうふうにご覧になっていたのかが、すごく気になっていたんですよね。
屋鋪 僕は1998年に読売ジャイアンツのコーチをしていたんですよ。僕は今、在籍しているチームに愛情があっても、離れてしまったら何の関係もないというスタンス。ちょっと冷たいように思われるかもしれないけれど。一昨年に横浜DeNAベイスターズが日本一になりましたよね。「おめでとう」「よかったですね」と僕のまわりでは言われる人もいますけど「僕には関係ないですから」って、ハッキリ言うんです。僕が今、思い入れがあるのは、自分が監督をしているソレキア株式会社の成績しか全く興味がありません。
吉井 1993年に、ある種、血の入れ替えをしたから、チームが強くなったという見方が世の中にはあるんですけど、それは結果だから何とも言えないなって。これは結果が出たほうが正しいということになってはしまうんですけど。
屋鋪 僕は、血の入れ替えをしたからチームが強くなったという考えは、一部正しいと思いますね。例えば、星野仙一さん。チームの体質を変えるためにトレードをして選手を積極的に変えることをしていましたよね。それで中日でも阪神でも楽天でも成功している。僕が在籍していた頃の横浜大洋ホエールズって、優勝から遠ざかってしまっていて、8月後半から9月以降なんて毎年消化試合ばっかりですよ。そんなところでは、自分がいい仕事をするしかないじゃないですか。僕が読売ジャイアンツに移籍した時には、選手の誰もが「まずは優勝」という意識が強かったから。これは同じセ・リーグでも大きく違うなと。
吉井 それはtvkでも同じことが言えること。キー局って、日本シリーズまで一生懸命に中継しますよね。一方、tvkは9月で終わってしまうことが多かった。その差の1か月が、毎年重なると大きくなるから、tvkで野球中継が終わってしまっても、クライマックスシリーズや日本シリーズをよく見なさいと言われたことがありました。その1か月を命がけで戦うことを何年も繰り返しているチームと、そうでないチームとでは、大きな差になりますよね。
屋鋪 確かにそう思います。漠然と消化試合をこなすのではなく、ペナントレースを競い合うという刺激は必要だと思います。
吉井 だから、長嶋さんの縁があって、屋鋪さんが移籍した読売ジャイアンツで、その年に日本一を経験したというのは、すごい巡り合わせだと思いました。
屋鋪 ありがたいことですよ。
吉井 長嶋さんとしては「屋鋪の守備は絶対に戦力になる!」という考えだったわけですよね。
屋鋪 そうだったんでしょうね。もちろん、スターティングメンバ―で、試合に出たかったです。でも、開幕当初の横浜スタジアムで、ボールを見失うというミスがあったから、僕としては、まず守備で貢献しようという意識が高かったと思います。
吉井 でも、そこから始まったシーズンで〝10.8決戦〟を経て、屋鋪さんがダイビングキャッチした日本シリーズがあるという。すごい物語だと思いますよ。だから、野球の神様っているんじゃないかと。
屋鋪 日本シリーズの第二戦では、西武ライオンズの鈴木健選手がああいう際どい当たりを打ってくれたっていうのも、僕のダイビングキャッチがみんなの印象に残っているおかげだと思っていますよ。後年に、鈴木健さんにお会いした際に「なんで取っちゃったんですか」というふうに言われました。「取るのが俺の仕事やないか!」と言い返しましたけど(笑)。
吉井 僕もあれは、センター前ヒットだと思いました! そうしたら、そこに屋鋪さんがいたんですよ。
屋鋪 あれはラッキーでしたね。あんな際どい打球が飛んできてくれて。運がいいのかな。
吉井 野球の神様からしてみれば、その前に屋鋪さんが打球をファンブルして、最初のランナーを二塁に行かせてしまったという中で、挽回できるチャンスが巡ってきたという。
屋鋪 僕は野球を教えている子供たちに言うんですよ。「エラーしたんだったら打って返せ」「まだ試合は終わっていない」「野球は挽回できるから」って。
吉井 挽回できるからこそ、切り替える力ってかなり重要ですね。
屋鋪 吉井さん、プロ野球は僕の頃で年間130試合。いい日もあれば悪い日もある。切り替えないとやってられないですよ。
吉井 私の仕事もそう。言い間違えのミスをした時に、くよくよしていると翌日に残るんですよね。もちろん、次はミスしないように反省はするんですけど、切り替えないといけない。
屋鋪 ミスは誰にでもあることですからね。
吉井 それからお聞きしたのは〝10.8決戦〟のこと。僕は早く試合の状況が知りたくて、テレビ中継が始まるのを、首を長くして待っていましたよ。
屋鋪 あの試合はしびれましたね。経験できたのは、僕を獲得してくれた長嶋さんのおかげですもんね。
吉井 やっぱり人生有数のしびれる試合ですか?
屋鋪 タイトルを獲った年よりも、やっぱり1994年の思い出のほうが、いまだに強いです。
吉井 それだけ濃いシーズンを過ごしたということですもんね。
屋鋪 あの時の読売ジャイアンツだと、僕は、落合博満さん、篠塚和典さん、原辰徳さんに次ぐ4番目の年長者でしたけど、若い選手をはじめ、チームの皆さんが本当によくしてくれました。上下関係が厳しくて空気が全然違いましたね。
Vol.3につづく
Vol.1の記事はこちら
ベイスターズの野球実況・吉井祥博アナが語る!屋鋪要さんの野球解説者としての素顔
元プロ野球・屋鋪要さんが現役時代の逸話から多趣味を楽しむ現在までを赤裸々に記した新刊著書『ノーサインで走れ!』が好評発売中だ。 そんな本に書かれている内容などに…
元プロ野球・屋鋪要さん
1959年生まれ。小学校4年生から本格的に野球を始める。三田学園中学校・高等学校卒業後、ドラフト6位指名で入団した大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)ではプロ1年目から1 軍の試合に出場。三井ゴールデン・グラブ賞(1985年まではダイヤモンドグラブ賞)を5回、盗塁王を3回獲得。現役引退以降は野球指導に当たってきたほか、鉄道写真、模型製作、ラベンダー栽培などにも没頭。多才な趣味人としても知られている。
アナウンサー・吉井祥博さん
1964年生まれ。tvkで主にプロ野球をはじめとするスポーツ実況を担当。定年退職後の現在はフリーとして同社を中心に活躍している。https://x.com/tvk_yoshiisan
取材・文・編集/田尻健二郎 撮影/羽田 洋
取材協力/Baseball Hub まるは
神奈川県横浜市中区常盤町2-15 三洋ビル103
https://www.instagram.com/baseballhub08
屋鋪さんと吉井さんが今回の対談を振り返るショート動画もチェック!
前編
後編
プロ野球界のレジェンド屋鋪要さんが激動の人生を綴った話題の書籍「ノーサインで走れ!」発売中
大洋、横浜、巨人でスター選手として活躍し「スーパーカートリオ」の一員として脚光を浴びた元プロ野球選手の屋鋪要さんは現在66歳(2026年1月時点)。プロ野球選手を引退してから、ちょうど30年を迎えたが、「プロ野球選手時代より現在のほうが毎日が充実していて、今が一番楽しいです」と笑顔で話す。そんな屋鋪さんが、現役引退から30年経った今だからこそ語れる人生論を綴った書籍『ノーサインで走れ!』が発売され、話題となっている。
第二の人生を楽しく生きるヒントが満載
現在は、社会人や小学生に野球を指導しながら、鉄道写真家としても活躍。また、ラベンダー栽培などの園芸、模型製作、料理など、多彩な趣味をたしなみながら、現役時代よりフットワークも軽く、毎日元気に走り続けている。なぜ、それほど第二の人生を楽しむことができるのか? 第二の人生を心から楽しんでいる背景には、幼少期から大切にしている学び続ける姿勢と挑戦し続ける姿勢がある。
「まずは動いてみる」
「好きなことはとことん探究する」
「自分の心に素直になる」
「感謝の気持ちを忘れない」
「何事も遅すぎることはない」
屋鋪さんの真っすぐな生き方、激動の野球人生を振り返りながら、第二の人生(セカンドキャリア)を楽しく生きるヒントが満載。ハマのスピードスターの生き様に、心揺さぶられること必至だ。長嶋茂雄、王 貞治、須藤 豊・・・、レジェンドたちへの感謝とともに綴る66年の歩みを屋鋪さんが完全告白。引退して30年経った今だから話せる、後悔しない人生論を選手時代の濃厚なエピソードとともに綴られている。
第二の人生を楽しく生きるヒントが満載!
【構成】
CHAPTER01 長嶋茂雄さんの期待に応えた世紀のダイビングキャッチ
CHAPTER02 〝伝説の試合〟に心酔し本格的な野球人生を始める
CHAPTER03 走攻守で研鑽を積んだ横浜大洋ホエールズ時代
CHAPTER04 読売巨人軍で現役生活を終え引退後も野球界への恩返しに奔走
CHAPTER05 祖父&父の影響を受けて少年時代から趣味に没頭
CHAPTER06 鉄道撮影の意欲が再燃したSLとの運命的な出会い
CHAPTER07 父の足取りをたどって始めた鉄道模型の趣味にも夢中に
CHAPTER08 ラベンダー栽培の趣味でも人との縁の大切さを知る
著者・屋鋪要さんが語る本書に込めた思い
「この書では、僕と同年代の方をはじめ、希望を胸にこれから世に出る若者、子育てに奮闘している保護者の方々まで、幅広い世代にお読みいただくことを期待して言葉を選びました。人生を振り返ると、紹介しきれないほどの失敗をしてきましたが、もう忘れてしまいました。未来はきっと思い通りにならないことのほうが多いはず。それでも、運命に逆らって生きていこうじゃありませんか」(屋鋪さん)
「ノーサインで走れ!」絶賛発売中
『ノーサインで走れ!』
プロ野球界のレジェンド屋鋪要さんが激動の人生を綴った話題の書籍「ノーサインで走れ!」発売中
大洋、横浜、巨人でスター選手として活躍し「スーパーカートリオ」の一員として脚光を浴びた元プロ野球選手の屋鋪要さんは現在66歳(2026年1月時点)。プロ野球選手…







DIME MAGAZINE





















