「美術館は静かに鑑賞する場所である」
このルールは、私たちに当たり前に刷り込まれた常識だ。足音に気を遣い、友人との会話も自然と囁き声になる。大勢の人が壁に掛かった作品を黙って鑑賞する。これが一般的なアート鑑賞のイメージだろう。しかし、瀬戸内海に浮かぶアートの聖地・直島にある「ベネッセハウス ミュージアム」を訪れると、その静寂を真っ向からぶち壊してくる者たちがいる。こちらの集中力などお構いなしに、延々と、そして虚無な独り言を垂れ流し続ける作品だ。ジョナサン・ボロフスキーによる作品《3人のおしゃべりする人(Three Chattering Men)》(1986年)である。
現代を生きる私たちにとって日々のコミュニケーションはもはや戦いに近い。SNSでの発信、会議でのプレゼン、マッチングアプリでのメッセージ。常に「言葉」が溢れている現代において、この40年前に作られた「おしゃべりなアート」は、驚くほど鋭く私たちの実像を映し出している。
誰もいない空間でも響き続ける、目的のない「声」の正体
ベネッセハウス ミュージアムの展示室に足を踏み入れると、どこからかブツブツと低い話し声が聞こえてくる。音声ガイドの音漏れか、あるいはマナーの悪い客がいるのかと周囲を見渡すが、そこにいるのは人間ではない。《3人のおしゃべりする人》は、3体の人型オブジェで構成された作品群である。彼らの造形は非常にシンプルだ。しかし、最大の特徴はその「口」にある。電動で上下にカタカタと動き続け、内蔵されたスピーカーからは絶え間なく人の声が流れているのだ。
ここで重要なのは、彼らが話している内容だ。彼らは論理的な議論をしているわけではない。物語を語っているわけでもない。ただ、意味をなさない言葉の断片が重なり合っているだけだ。面白いのは、この作品の「聞き手の不在」に対する徹底したドライさである。閉館間際、他に鑑賞者が誰もいないガラ空きの展示室であっても、彼らは一切手を抜かずに喋り続けている。誰かに聞いてもらうためではなく、ただ「発信すること」そのものが目的化してしまっているかのようだ。
「会話」の形をした「独り言」-3人いても成立しない関係性-
この作品をしばらく観察していると、ある奇妙な事実に気づく。3体の作品は、お互いに向き合っているわけではなく、一直線上に並んで配置されている。ただお互いの距離は会話するには十分な近さであり、その配置だけを見れば、彼らは親密な、あるいは熱烈な議論を交わしているグループに見える。しかし、実際に耳を澄ませてみると、そこには1ミリの会話も成立していないのである。そもそも、彼らの発話はお互いの発話に関係なくなされており、相手の言葉に対するレスポンスらしきものは存在しない。一人が喋っている間に、もう一人も自分のタイミングで喋り出し、さらに3人目も全く無関係なフレーズを被せてくるのである。
「聞くという行為の欠如「同調や反論という相互作用の不在」。これは、現代の私たちが直面しているコミュニケーションのバグを、極端なまでに擬人化した姿のように思える。例えば、飲み会や会議で誰かが発言している最中に「自分は…」と話を奪う人。SNSで相手の投稿の意図を理解せずに自分の言いたいことだけをリプライする人。人数は揃っているし、言葉も飛び交っている。しかし、そこには対話はなく、単なる独り言の同時並行が行われているだけだ。ボロフスキーの《3人のおしゃべりする人》は、1986年の作品でありながら、それからぴったり40年後の現代の縮図を見せつけてくるようだ。
情報過多な時代に、なぜ私たちは「伝わらない」と感じるのか
現代は、間違いなく歴史上もっとも声を上げやすい時代だろう。スマートフォンのボタン一つで、自分の意見を世界中に発信できる。かつて、自分の声を社会に届けるには、政治家になるか、メディアの人間になるか、あるいは広場に立って演説するしかなかった。しかし今、僕たちは全員がボロフスキーの彫刻のように、24時間365日「おしゃべり」を続ける権利を持っている。しかし、発信する手段が増えたことで、僕たちが「通じ合っている」という実感は強まったかというと疑問が残る。
データによれば、現代人が1日に触れる情報量は、江戸時代の1年分、平安時代の一生分とも言われている。だが、情報が増えれば増えるほど、一つひとつの言葉の重みは分散される。《3人のおしゃべりする人》が示唆しているのは、発話の過剰が招く意味の崩壊だ。三つの声が重なり合い、空間が音で埋め尽くされるとき、一つひとつの言葉はただの「ノイズ」へと変質する。誰もが自分の意見を最大音量で発信する世界では、結局、誰も何も言っていないのと同じ状態—つまり、本質的な沈黙と同じ状況に陥ってしまう。私たちがSNSでバズることを狙ったり、会議でマウントを取ろうとしたりする時、この作品の人物たちと同じように、相手の存在を「自分の声を響かせるための背景」としてしか見ていないのではないか。
「おしゃべりなアート」が教えてくれる、沈黙という名の贅沢
ここまで聞くと《3人のおしゃべりする人》を単なる「皮肉な作品」だと思ってしまうかもしれない。しかし、この作品の真価は、鑑賞者がその不快さの先にあるものに気づいた時に現れる。しばらく彼らのおしゃべりを聞いていると不意にその場を離れたくなる瞬間が来る。そして、彼らの声が聞こえない場所に出た途端、私たちは沈黙という心地よさを実感することになる。皮肉なことに、延々と続く無意味なおしゃべりを聞かされることで、私たちは初めて沈黙の価値を再発見するのだ。
《3人のおしゃべりする人》は、会話を表現したアートではない。むしろ会話が成り立っていないことをあえて提示することで、私たちの中に真の対話を取り戻そうとする反語的な装置なのである。アートに興味がない人であっても、この作品のやかましさには何かしらの感情を抱くはずだ。その「うるさいな」という直感こそが、現代のノイズまみれの生活から抜け出すための第一歩になる。次に直島を訪れる機会があれば、ぜひこの空気を読まない3人組の前に立ってみてほしい。彼らのおしゃべりを聞いて感じる何かこそ、今あなたが他者とどう向き合っているかを示す鏡のような答えになるはずだ。
<プロフィール>
Wataru KOUCHI
東京在住の美術ライター。2025年にアートナビゲーター(美術検定1級)の資格取得。中学生の時に美術の資料集で目にしたルネ・マグリットの作品を見て美術の世界に興味を持つ。それ以来、国内外の美術館、国際芸術祭を訪問するようになる。好きな作家はルネ・マグリットのほか、レアンドロ・エルリッヒなど。このコラムでは開催中・開催予定の芸術祭、企画展、常設展の紹介の他、社会人として押さえておきたい使える美術の基礎知識を紹介。







DIME MAGAZINE











