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世界一クールな街・神保町は中華の街だった!中国人留学生が腹を満たした「漢陽楼」の日中友好秘話

2026.02.08

グローバルメディアの「タイムアウト」は昨年、「世界で最もクールな街」の一位を神保町に選定した。古書店やカレーのイメージが強い神保町だが、実は中華料理の街でもあった。

日清戦争後に起こった中国人青年の東京留学ブーム

日清戦争(1894~95年)後、中国人青年による東京留学ブームが巻き起こった。「東遊」と呼ばれる留学ブームは、日露戦争(1904~1905年)の混乱で科挙が廃止されたことにより急増し、大学の多かった神保町へと、中国人青年が殺到した。

辛亥革命の指導者である孫文(1866~1925年)や文学者の魯迅(1881~1936年)、また、のちの中国首相となった周恩来(1898~1976年)、中華人民共和国の義勇軍進行曲を作曲した聶耳(ニエアル:1912~1935年)など、中国を動かした指導者や知識人が日本で学び、知識や革命思想を中国へと持ち帰った。

明治、中央、日大など大学が多かった神保町には中国人青年のための下宿街が作られ、多くの中国人青年が住む「留学生の街」となっていた。中国人専門の印刷所や質屋まであり、「神田のタバコ屋の娘ならば、片言の中国語を喋れなければ、務まらなかった」(「周恩来、十九歳の東京日記」小学館刊から、注1)ほど、中国人留学生が多かった。

神保町愛全公園(千代田区神田神保町2-20-3)内には東亜高等予備学校の碑が残されているが、多くの中国人留学生たちはこの予備校で日本語と日本の大学入試問題を学んでいた。

1911年(明治44年)創業の「中国名菜 漢陽楼」は、創業者顧雲生さんが中国人青年のための賄いを出す下宿として開業した。現在4代目店主で総料理長の和田康一さんによると、店名は「陽が燦々と当たる漢民族の館」の意で、孫文率いる「中国同盟会」の人達が名付けてくれたという。

和田さんによると、東遊の学生向けに、神保町には多くの中華料理店がオープンした。漢陽楼だけでなく、揚子江菜館、移転した維新號も一号店は神保町で営業していた。今は全国にある街中華のスタイルは、神保町から始まったのである。

奇跡的に空襲を免れた結果、現在でも神保町には歴史ある中華料理の名店が多く、昭和21年開店の新世界菜館や、昭和31年開店の三幸園、少し離れた神田小川町にも明治45年開店の萬楽飯店などがあり、今でも神保町は美味しい中華料理を楽しむことができる街となっている。

周恩来の安らぎの場だった漢陽楼

その中でも漢陽楼は特に寧波(にんぽう)料理と呼ばれる中国浙江省生まれの料理を学生に提供し、多くの中国人留学生でにぎわった。創業者の顧雲生さんは孫文と親しかったようで、激務で胃を弱らせていた孫文に自ら粥を作り、当時は秘密だった公演先まで届けていた。この粥は現在も「孫文粥」としてメニューに掲載されている。

また、創業者の顧雲生さんは店の二階と三階を中国人学生のために開放した。そうして集まってきた留学生の一人が周恩来で、彼が好んだ「清燉獅子頭」(チンドゥンシーズートウ)は今でも店の看板料理となっている。

「清燉獅子頭」(チンドゥンシーズートウ)は中を柔らかくするために、時間をかけて手ごねする手間と時間と力の要る料理のひとつ

慣れない異国の地で猛勉強していた周恩来にとって、故郷の味はお腹と心を満たしてくれた忘れがたい味となったのだろう。著書「十九歳の東京日記」でも、漢陽楼で仲間と食事を楽しんだエピソードが書き残されている。

周恩来は帰国後、日本への再訪は果たせなかったが、1972年、田中角栄が中国を訪問した際、周恩来はその別れ際に「神田の古本屋街は今でもちゃんとのこっていますか」と尋ねたと言う。

その後、周恩来の甥と姪にあたる親族が漢陽楼を訪れ、獅子頭を楽しんだ。和田さんは「代々、伝えられてきた料理ですが、本場の中国の方々の口に合うのかと思ったのですが、実際に周さんご家族に召し上がっていただき『確かにこれだ、この味だ』と、たいへん喜んでいただきました」と当時を振り返る。

周恩来の親族らが来日した際に作成した寄せ書き

獅子頭は肉に様々な具材を入れて、こぶし大の大きさに丸めて調理した料理で、家庭によって、煮る、蒸す、焼く、揚げるなど、いろいろな調理方法がある。具材も地域色があり、漢陽楼の獅子頭には蓮根(れんこん)、慈姑(くわい)、椎茸などを入れているが、本場中国では他の野菜を入れることもあると言う。

和田さんによると、「基本的には大きさがこぶし大であることと、肉の中身がフワッと柔らかく仕上げるのが基本で、あとは家庭ごとにアレンジするようです」と教えてくれた。

「この獅子頭については、セゾングループの創業者の堤清二さんが来店された時、家庭ごとにいろいろなアレンジがあることを教えていただきました。堤さんの父親が衆議院議長の堤康次郎さんで、中国との国交回復に尽力されていた関係から、清二さんも周恩来と直接会っており、中国料理にも詳しかったようです」

漢陽楼には他にも周恩来ゆかりの顧客が多く、松山バレエ団のメンバーもたびたび訪れている。松山バレエ団は1958年、周恩来の招待で初の訪中公演を行った。中国の物語「白毛女」を演目として取り上げた結果、中国国内で熱烈な歓迎を受けた。周恩来は白毛女のかつらが古くなっているのを見て、サプライズでかつらをプレゼントしてくれた。

「松山バレエ団が“文化交流貢献賞”を受賞された際、森下洋子さん、清水哲太郎さんはじめ団員の方々が集まって、当店でお祝いの会が開かれました。我々スタッフにも声をかけていただいて、和室で“川の流れのように”を歌いながら団員皆さんが即興のバレエを踊って下さいました。そのあと我々もかりだされ、森下洋子さんとフォークダンスを踊ったのが忘れられません」(和田さん)。

店内には周恩来の七言絶句も

周恩来ら中国人青年たちは神保町で日本の富国強兵策を学び、自国の改革を目指していた。当時の日本は欧米の先進文化を輸入して、急速に近代化を実現させていた時代で、中国人が日本から西洋の文化を取り入れるのは、ゼロから英語を学ぶよりも容易だった。

周恩来は日本へ赴く前、詩を残している。七言絶句は漢陽楼の店内にも飾られている。

“長江(揚子江)に歌うのをやめ、意を決して東の日本に向かい
科学をしっかり学び、貧しい祖国を救おう
達磨のように10年間壁と向き合い
その壁を破ろうとし それが果たせず、海を渡るのも、また英雄だ“

1917年9月、出発前夜に救国の想いを込めた七言絶句である。

意欲に燃え、中国では優秀な学生だった周恩来だが、日本語が壁になって、東京高等師範学校と一高の入試に失敗してしまう。官費留学生として経済的に補償される道が断たれ、私費で明治大学の聴講生になるなど、苦学は続いたが、結局、1919年5月には帰国を決意する。

2年に満たない留学生活だったが、神保町で過ごした記憶は、きっと生涯、忘れることができないものだったはず。その後の日中友好に果たした役割は大きかった。漢陽楼の獅子頭が無ければ、周恩来の日本に対する印象は、大きく変わっていたかもしれない。

注1
1999年に発刊された周恩来 十九歳の東京日記、小学館文庫は現在、絶版。これに補足情報やコラムなどを追加した改訂新版が株式会社デコから発刊されている。

文/柿川鮎子

Author
明治大学政経学部卒業後、経済系新聞社で自動車、ISOなどの担当記者に。退社後5年間、動物病院に勤務した経験から、飼い主さんの気持ちに寄り添ったペット記事を執筆中。 得意なテーマは 1)生産性向上などのマネジメント関連と、 2)犬猫やエキゾチックを含 めた飼育動物全般、の2つ。 作家として小説「犬にまたたび猫に骨」(講談社刊)、「極楽お不妊物語」(河出書房新社)を発刊。ノンフィクションでは小学館刊「全国から飼い 主が駆けつける!犬の名医さん100人データブック」、文春新書「動物病院119番」、ほか多数。趣味は野鳥観察、現在、2羽のオカメインコを溺愛中。

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