2026年2月11日から東京・国立新美術館で開催される『テート美術館 ― YBA & BEYOND 世界を変えた90s英国アート』展は、90年代英国アートの熱狂を約100点の作品で紹介する大規模企画である。
ダミアン・ハーストやトレイシー・エミンと並び、ジュリアン・オピーの作品も展示される本展は、当時の英国美術が社会とどのような関係を結んでいたのかを、あらためて捉え直す機会となる。
90年代の英国アートは、挑発的であると同時に、極端に明快なものも多くあった。
中には過剰な装飾や技巧を削ぎ落とし、「何を残せば作品は成立するのか」という問いを、むき出しのかたちで提示したアーティストもいた。オピーは1958年生まれ、現在も現役で活躍するイギリスの現代アーティストである、彼は、アートを特別な空間から引き出し、街に溢れる視覚言語――看板やサイン、ピクトグラム――と同じ地平へと引き寄せたような作品を多く手掛けている。彼の作品を初めて目にしたとき、多くの人は一瞬戸惑う。
これは本当にアートなのか、それともデザインなのか。その判断がつかないまま、作品の強い印象だけが記憶に残り続ける。
《Walking in Melbourne》が示す「削ぎ落としの精度」
《Walking in Melbourne》(2001)は、オピーを代表する歩行者シリーズの一つである。均質な背景の上に、極端に単純化された人物が描かれたこの作品は、遠目には公共サインや案内図の人物像のようだ。しかし、注意深く見ると、その人物は決して「誰でもいい存在」ではない。腕の振り方、足の運び、身体の重心のかかり方には微妙な癖があり、モデルとなった人物の身体的特徴が確かに残されている。
オピーは人物を記号に変換しているのではない。むしろ、徹底した観察によって不要な情報を削ぎ落とし、それでもなお個人が成立する最小単位を探り当てている。彼の人物像は意味を放棄していないし、無内容でもない。ただ、意味を過剰に説明しないだけである。見る側が読み取る余地を残したまま、作品はすでに成立している。
ピクトグラムと似て非なるもの
ピクトグラムは、誤解なく情報を伝えるために作られる。誰が見ても同じ意味に到達できることが理想であり、個性や曖昧さはむしろノイズとして排除される。駅構内や公共施設において、そこに作者の感情や解釈が入り込む余地はない。一方、オピーの作品は、ピクトグラムとほぼ同じ単純さを持ちながら、その目的が決定的に異なる。
彼の人物像は「何をすべきか」を指示しないし、「どう理解すべきか」も固定しない。ただ、そこに人がいるという状態だけを提示する。そのため鑑賞者は、意味を受け取るのではなく、意味を立ち上げる側に立たされる。たとえば《Ruth Walking in Jeans》(2005)では、ジーンズのシルエットや立ち姿のバランスから、その人物の年齢や性格、さらにはその日の気分まで想像できてしまうのが面白い。案内でも指示でもない代わりに「ここに、こういう人がいる」という存在を提示している。
ピクトグラムが「理解のゴール」を用意しているとすれば、オピーの作品は「理解の入口」だけを置いている。「分かる」代わりに「考える」。単純であるにもかかわらず、視線が止まり、想像が始まってしまう。このわずかな引っかかりこそが、オピーの人物像が持つ雄弁さであり、記号に限りなく近づきながらも、決して記号に回収されない理由なのである。
子どもはオピーの作品もピクトグラムも区別しない
ところで、興味深いのは、小さな子どもがオピーの作品とピクトグラムをほとんど区別しない点である。これは、両者の違いが分からないからではない。むしろ子どもは、どちらに対してもごく自然に、自分なりの意味や物語を見出しているからだ。
オピーの作品を見て「この人はどこへ行く途中なんだろう」「ちょっと急いでいるみたいだ」と想像を広げるのと同じように、ピクトグラムを見ても子どもは自由に想像を膨らませる。私たちは、ボタンの脇に車椅子のマークを見つければ、それが車椅子を利用する人のためのボタンだと即座に理解する。しかし小さな子どもは、その車椅子のマークの人物を「この人はどんなところに行くのだろう」「誰と一緒にいるのだろう」と、ごく自然に物語の登場人物として捉える。
大人になるにつれて、私たちはより社会的な生き物になり、誰かと共有された意味や約束事を数多く身につけていく。それは、1日に3万回以上行っているとも言われる判断の負担を軽減するための、一種の防衛機能とも言えるだろう。その一方で、私たちは世界を「正しく」「効率よく」理解することに慣れすぎるあまり、解釈の幅を自ら狭めてしまっている。
オピーの作品は、個性をかたちづくっている最小単位とは何かを私たちに問いかけると同時に、いかに私たちの視線が、知らず知らずのうちに同じ見方へと揃えられてしまっているかに気づかせる機会になる。
【企画展情報】テート美術館 - YBA&BEYOND 世界を変えた90s 英国アート
<プロフィール>
Wataru KOUCHI
東京在住の美術ライター。2025年にアートナビゲーター(美術検定1級)の資格取得。中学生の時に美術の資料集で目にしたルネ・マグリットの作品を見て美術の世界に興味を持つ。それ以来、国内外の美術館、国際芸術祭を訪問するようになる。好きな作家はルネ・マグリットのほか、レアンドロ・エルリッヒなど。このコラムでは開催中・開催予定の芸術祭、企画展、常設展の紹介の他、社会人として押さえておきたい使える美術の基礎知識を紹介。







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