死んだ人間はエレベーターに乗る。行き先は最上階。何階建てかは誰も知らない。ボタンは「上」だけ。扉は最上階まで開かない。——というのが、基本ルールだ。 だが稀に、エレベーターが途中で止まる。

死者の「未練」がある階だ。止まったエレベーターを動かすのが、僕たち点検員の仕事ということになる。未練を見つけ、解消する。そうしないと死者は永遠に途中階に閉じ込められる。
永遠。
この言葉を僕は軽々しく使いすぎているかもしれない。でも3年もこの仕事をやっていると、永遠も残業も大して変わらないような気がしてくる。
今日の案件は、42歳女性。死因は心筋梗塞。 エレベーターが止まった階は——公園だった。 僕は止まった箱の外に立って、扉が開くのを待つ。チン、という間の抜けた音がして、扉が開いた。 中には女性が一人、腕を組んで立っていた。
「あの、降りるんですか?」
「いえ、降りません」
僕は手帳を開きながら言った。
「エレベーターが止まったのは、あなたに未練があるからです」
「未練」
「はい。ここに関係する何かが、あなたを引き留めています」
女性は公園を見回した。遊具のない、小さな公園だ。ベンチが二つ、水飲み場が一つ、あとは砂利道がぐるりと円を描いている。犬の散歩にはちょうどいいサイズ。どこの町にもある、名前も覚えていないような公園。

「……思い当たることは?」
女性は眉間に皺を寄せて、やがて、ため息をついた。
「犬の名前」 「はい?」 「15年間、この公園で犬の散歩してたの。毎朝」
僕は手帳にメモをとる。犬。15年間。散歩。
「その犬が、未練と何か関係が?」
「名前」
「名前」
「私、本当はジョンって名付けたかったの」 僕はペンを止めた。
「ジョン」 「そう、ジョン」
「……お気持ちを確認しますが、つまり、犬の名前が未練だと」 「だと思う」
僕はエレベーターの管理記録を確認した。確かに、反応している。彼女は嘘をついていない。
「ジョンにしなかったんですか」 「夫が、イヤだって」 「それで?」 「ショコラになった」 「ショコラ」 「そう」
僕は公園のベンチを見た。朝の光の中、誰かがそこに座って犬を見ていたのだろう。15年間、毎朝。
「可愛い名前じゃないですか、ショコラ」 「可愛いわよ」女性は言った。
「可愛いけど、私の名前じゃないの。夫が適当に図鑑見て決めた名前。チョコレート色だからショコラ。安直でしょう?」
「15年間ショコラだったんですか」
「15年間、毎日ショコラって呼んだわ。散歩のとき、ご飯のとき、寝る前。だいたい1日10回として、15年で5万回以上」
「5万回」
「5万回よ。この公園でも何千回呼んだかしら。ショコラ、おいで。ショコラ、待って。ショコラ、帰るよ。——本当はジョンって呼びたかったのに」
僕は計算が正しいか暗算しようとして、やめた。正しくても正しくなくても、たぶん問題はそこではない。
「なぜジョンだったんですか」
「昔、ビートルズが好きでね」
「ジョン・レノン」
「そう」
「旦那さんには言わなかったんですか。ジョンがいいって」 「
言ったわよ、一応」
「一応」
「やんわりとね。でも夫が『絶対ショコラ』って言うから」
「絶対、って言われたんですか」
「いや、絶対とは言ってないかも。うーん」女性は首を傾げた。
「たぶん、『ショコラでいいじゃん』くらいだったかな」
「それ、全然絶対じゃないですよね」
「そうね」 「押し通せたのでは」 「……そうかもしれない」
女性は黙った。 エレベーターはまだ動かない。
「つまり」僕は慎重に言った。
「旦那さんがどうこうというより——」
「言い返さなかった自分が悔しいの。わかってる」 僕は頷いた。
「でもね」女性は続けた。「もう関係ないのよ。ショコラは関係ないの。だってショコラ、いい犬だったのよ、本当に。私のこと大好きで、私もショコラのこと大好きで。名前なんて関係なかったの、本当は」
「じゃあ、何が未練なんですか」
「……ジョンって呼びたかった自分が、ずっといたってこと。15年間、心の中にいたの。ショコラ、って声に出すたびに、ジョン、って小さく呟いてる自分がいた」 僕は黙って手帳を閉じた。
エレベーターが小さく揺れた。 動き出す——かと思ったが、止まった。
「あれ」僕は計器を見た。
「まだ動かない」 「え?」 「おかしいですね。未練は解消されたはずなのに」
女性は困惑した顔で僕を見た。 僕は管理記録をもう一度確認した。そして、気づいた。
「……もうひとつありますね」 「何が」 「未練が」 女性の顔がわずかに強張り、こう呟いた。「ひとつで上まで行けるほど、軽く生きてないのよ」
エレベーターが再び動き始めて、また止まった。 チン、と音がして、扉が開いた。 目の前に広がっていたのは、コンビニだった。 僕は息を呑んだ。
レジ、雑誌コーナー、ホットスナックのケース。蛍光灯が白々と店内を照らしている。深夜の静けさ。客は誰もいない。

「ここ……」エレベーターの中で、女性が息を呑んだ。
「覚えがありますか」 「……ある」 彼女の声は小さかった。
「いつの話ですか」 「大学生のとき」 「20年以上前?」 「22年前」 女性はエレベーターの中から店内を見つめていた。視線がレジのあたりで止まる。 「バイト帰りに毎晩寄ってたの。このコンビニ」 僕は手帳を開いた。開いたまま、何も書かなかった。
「店員がいたの」
「はい」
「男の子。たぶん同い年くらいの」
「毎晩来るから顔見知りになって、そのうち『お疲れさまです』とか言い合うようになって」
「はい」
「ちょっと、好きだったの」 女性の視線はまだレジに向いていた。
「告白したんですか」 「してない」女性は首を振った。「でも、連絡先を渡そうとしたことがある」 「どうやって」 「レシート。レシートの裏に電話番号書いて」 「……それを?」 「渡せなかった」
女性はエレベーターの縁に手をかけた。降りたいのか、降りられないのか、わからないような仕草だった。
「お釣りもらうとき、レシートと一緒に渡そうと思ったの。手、震えてた。震えてて、よく覚えてない。でも電話はこなかった。だから渡せなかったんだと思う」
「それで?」 「それで終わり」女性は言った。
「次の週、その男の子、いなくなってた。バイト辞めたのかシフト変わったのか、わからない。二度と会わなかった」
「渡してたら、どうなってたと思います?」
「わからない。付き合ってたかもしれないし、気まずくなって店にも行けなくなってたかも。でもね——」 彼女は僕を見た。 「関係性が動く前に終わったのよ。始まってすらいないの。これが一番キツいってわかる?」
僕は少し考えた。 「仮に、ですけど」
「うん」 「渡してたとして、うまくいったと思いますか? 正直なところ」
女性は肩をすくめた。 「たぶん、ダメだったと思う」
「なぜ」
「だって私、そういうのヘタだから。好きって言えないタイプ。付き合えてたとしても、言いたいこと言えなくて、そのうち上手くいかなくなってたと思う」
「犬の名前みたいに?」 女性ははっとした顔をした。
「……そうね。犬の名前みたいに」
僕は手帳を閉じた。
「あなたの未練、二つあるように見えて、たぶん一つですよね」
「……どういうこと」
「言いたいことを言えなかった。ジョンって呼びたかった。電話番号を渡したかった。でも言えなかった」 女性は黙っていた。
「でも」僕は続けた。
「言えなかったことと、言いたくなかったことは、違いますよね」
「……違う?」
「だってあなた、言いたかったんでしょう? ジョンって。電話番号、渡したかったんでしょう?」
「……うん」
「言いたかった自分が、ちゃんといたんですよ。15年間、22年間、ずっと」
女性の目が少し潤んだ。
「それって、けっこうすごいことだと思うんですよ、僕は。だって、言いたいことがある人間のほうが、何も言いたくない人間より、ずっと——」
僕は言葉を探した。
「ずっと、生きてたって感じがしません?」
女性は笑った。泣きながら、笑った。
「……あなた、変なこと言うわね」
「よく言われます」
「でも——」彼女は目元を拭った。
「ありがとう。そうね、私、ずっと言いたかったのよ。ジョンって。電話してって。言えなかったけど、言いたかったのは、本当」
エレベーターが静かに揺れた。 今度こそ、扉が閉まり始めた。
「あ、動きます」僕は一歩下がった。
「お気をつけて。最上階まで、たぶんすぐですから」
「ねえ」女性が言った。
「はい」
「あなたは? 言えてないこと、ないの?」 扉が閉まっていく。
僕は少し考えて、正直に答えた。
「……たぶん、あります。ひとつかふたつ」 「じゃあ——」
扉が完全に閉まる直前、女性が微笑むのが見えた。
「言ったほうがいいわよ。私みたいになる前に」
チン、という音がして、エレベーターが上へ消えていった。
僕はしばらくその場に立っていた。
彼女は気づかなかった。
渡せなかったと思う、そう彼女は言った。でも僕は覚えている。
あの夜、震える手で差し出されたレシートを。 電話できなかった自分を。
歩き出しながら、ポケットに手を入れる。
端末が鳴った。次の案件だ。
僕のエレベーターは、まだ動かない。
——ジョン。 悪くない名前だと、僕も思う。
(了)
鈴森太郎(作家・ショートショート) 寓話と現実の接点を探る短編・連作を多数執筆。日常に潜む「ずれ」や「違和感」をすくい上げ、SF的想像力と詩的な余韻を融合させた作品を発表している







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