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【ショート小説】「永遠」も「残業」も変わらない─死者の未練を解消する点検員、3年目の告白

2026.01.28

死んだ人間はエレベーターに乗る。行き先は最上階。何階建てかは誰も知らない。ボタンは「上」だけ。扉は最上階まで開かない。——というのが、基本ルールだ。 だが稀に、エレベーターが途中で止まる。

死者の「未練」がある階だ。止まったエレベーターを動かすのが、僕たち点検員の仕事ということになる。未練を見つけ、解消する。そうしないと死者は永遠に途中階に閉じ込められる。  

永遠。

この言葉を僕は軽々しく使いすぎているかもしれない。でも3年もこの仕事をやっていると、永遠も残業も大して変わらないような気がしてくる。

今日の案件は、42歳女性。死因は心筋梗塞。 エレベーターが止まった階は——公園だった。 僕は止まった箱の外に立って、扉が開くのを待つ。チン、という間の抜けた音がして、扉が開いた。 中には女性が一人、腕を組んで立っていた。

「あの、降りるんですか?」

「いえ、降りません」

僕は手帳を開きながら言った。

「エレベーターが止まったのは、あなたに未練があるからです」

「未練」

「はい。ここに関係する何かが、あなたを引き留めています」  

女性は公園を見回した。遊具のない、小さな公園だ。ベンチが二つ、水飲み場が一つ、あとは砂利道がぐるりと円を描いている。犬の散歩にはちょうどいいサイズ。どこの町にもある、名前も覚えていないような公園。

「……思い当たることは?」  

女性は眉間に皺を寄せて、やがて、ため息をついた。

「犬の名前」 「はい?」 「15年間、この公園で犬の散歩してたの。毎朝」  

僕は手帳にメモをとる。犬。15年間。散歩。

「その犬が、未練と何か関係が?」

「名前」

「名前」

「私、本当はジョンって名付けたかったの」  僕はペンを止めた。

「ジョン」 「そう、ジョン」

「……お気持ちを確認しますが、つまり、犬の名前が未練だと」 「だと思う」  

僕はエレベーターの管理記録を確認した。確かに、反応している。彼女は嘘をついていない。

「ジョンにしなかったんですか」 「夫が、イヤだって」 「それで?」 「ショコラになった」 「ショコラ」 「そう」  

僕は公園のベンチを見た。朝の光の中、誰かがそこに座って犬を見ていたのだろう。15年間、毎朝。

「可愛い名前じゃないですか、ショコラ」 「可愛いわよ」女性は言った。

「可愛いけど、私の名前じゃないの。夫が適当に図鑑見て決めた名前。チョコレート色だからショコラ。安直でしょう?」

「15年間ショコラだったんですか」

「15年間、毎日ショコラって呼んだわ。散歩のとき、ご飯のとき、寝る前。だいたい1日10回として、15年で5万回以上」

「5万回」

「5万回よ。この公園でも何千回呼んだかしら。ショコラ、おいで。ショコラ、待って。ショコラ、帰るよ。——本当はジョンって呼びたかったのに」  

僕は計算が正しいか暗算しようとして、やめた。正しくても正しくなくても、たぶん問題はそこではない。

「なぜジョンだったんですか」

「昔、ビートルズが好きでね」

「ジョン・レノン」

「そう」

「旦那さんには言わなかったんですか。ジョンがいいって」 「

言ったわよ、一応」

「一応」

「やんわりとね。でも夫が『絶対ショコラ』って言うから」

「絶対、って言われたんですか」

「いや、絶対とは言ってないかも。うーん」女性は首を傾げた。

「たぶん、『ショコラでいいじゃん』くらいだったかな」

「それ、全然絶対じゃないですよね」

「そうね」 「押し通せたのでは」 「……そうかもしれない」  

女性は黙った。 エレベーターはまだ動かない。

「つまり」僕は慎重に言った。

「旦那さんがどうこうというより——」

「言い返さなかった自分が悔しいの。わかってる」  僕は頷いた。

「でもね」女性は続けた。「もう関係ないのよ。ショコラは関係ないの。だってショコラ、いい犬だったのよ、本当に。私のこと大好きで、私もショコラのこと大好きで。名前なんて関係なかったの、本当は」

「じゃあ、何が未練なんですか」

「……ジョンって呼びたかった自分が、ずっといたってこと。15年間、心の中にいたの。ショコラ、って声に出すたびに、ジョン、って小さく呟いてる自分がいた」  僕は黙って手帳を閉じた。  

エレベーターが小さく揺れた。 動き出す——かと思ったが、止まった。

「あれ」僕は計器を見た。

「まだ動かない」 「え?」 「おかしいですね。未練は解消されたはずなのに」  

女性は困惑した顔で僕を見た。  僕は管理記録をもう一度確認した。そして、気づいた。

「……もうひとつありますね」 「何が」 「未練が」  女性の顔がわずかに強張り、こう呟いた。「ひとつで上まで行けるほど、軽く生きてないのよ」  

エレベーターが再び動き始めて、また止まった。 チン、と音がして、扉が開いた。 目の前に広がっていたのは、コンビニだった。 僕は息を呑んだ。

レジ、雑誌コーナー、ホットスナックのケース。蛍光灯が白々と店内を照らしている。深夜の静けさ。客は誰もいない。

「ここ……」エレベーターの中で、女性が息を呑んだ。

「覚えがありますか」 「……ある」 彼女の声は小さかった。

「いつの話ですか」 「大学生のとき」 「20年以上前?」 「22年前」 女性はエレベーターの中から店内を見つめていた。視線がレジのあたりで止まる。 「バイト帰りに毎晩寄ってたの。このコンビニ」 僕は手帳を開いた。開いたまま、何も書かなかった。

「店員がいたの」

「はい」

「男の子。たぶん同い年くらいの」

「毎晩来るから顔見知りになって、そのうち『お疲れさまです』とか言い合うようになって」

「はい」

「ちょっと、好きだったの」 女性の視線はまだレジに向いていた。

「告白したんですか」 「してない」女性は首を振った。「でも、連絡先を渡そうとしたことがある」 「どうやって」 「レシート。レシートの裏に電話番号書いて」 「……それを?」 「渡せなかった」

女性はエレベーターの縁に手をかけた。降りたいのか、降りられないのか、わからないような仕草だった。

「お釣りもらうとき、レシートと一緒に渡そうと思ったの。手、震えてた。震えてて、よく覚えてない。でも電話はこなかった。だから渡せなかったんだと思う」

「それで?」 「それで終わり」女性は言った。

「次の週、その男の子、いなくなってた。バイト辞めたのかシフト変わったのか、わからない。二度と会わなかった」

「渡してたら、どうなってたと思います?」

「わからない。付き合ってたかもしれないし、気まずくなって店にも行けなくなってたかも。でもね——」  彼女は僕を見た。 「関係性が動く前に終わったのよ。始まってすらいないの。これが一番キツいってわかる?」

僕は少し考えた。 「仮に、ですけど」

「うん」 「渡してたとして、うまくいったと思いますか? 正直なところ」  

女性は肩をすくめた。 「たぶん、ダメだったと思う」

「なぜ」

「だって私、そういうのヘタだから。好きって言えないタイプ。付き合えてたとしても、言いたいこと言えなくて、そのうち上手くいかなくなってたと思う」

「犬の名前みたいに?」 女性ははっとした顔をした。

「……そうね。犬の名前みたいに」  

僕は手帳を閉じた。

「あなたの未練、二つあるように見えて、たぶん一つですよね」

「……どういうこと」

「言いたいことを言えなかった。ジョンって呼びたかった。電話番号を渡したかった。でも言えなかった」 女性は黙っていた。

「でも」僕は続けた。

「言えなかったことと、言いたくなかったことは、違いますよね」

「……違う?」

「だってあなた、言いたかったんでしょう? ジョンって。電話番号、渡したかったんでしょう?」

「……うん」

「言いたかった自分が、ちゃんといたんですよ。15年間、22年間、ずっと」  

女性の目が少し潤んだ。

「それって、けっこうすごいことだと思うんですよ、僕は。だって、言いたいことがある人間のほうが、何も言いたくない人間より、ずっと——」  

僕は言葉を探した。

「ずっと、生きてたって感じがしません?」  

女性は笑った。泣きながら、笑った。

「……あなた、変なこと言うわね」

「よく言われます」

「でも——」彼女は目元を拭った。

「ありがとう。そうね、私、ずっと言いたかったのよ。ジョンって。電話してって。言えなかったけど、言いたかったのは、本当」

エレベーターが静かに揺れた。  今度こそ、扉が閉まり始めた。

「あ、動きます」僕は一歩下がった。

「お気をつけて。最上階まで、たぶんすぐですから」

「ねえ」女性が言った。

「はい」

「あなたは? 言えてないこと、ないの?」  扉が閉まっていく。  

僕は少し考えて、正直に答えた。

「……たぶん、あります。ひとつかふたつ」 「じゃあ——」

扉が完全に閉まる直前、女性が微笑むのが見えた。

「言ったほうがいいわよ。私みたいになる前に」  

チン、という音がして、エレベーターが上へ消えていった。

僕はしばらくその場に立っていた。

彼女は気づかなかった。

渡せなかったと思う、そう彼女は言った。でも僕は覚えている。

あの夜、震える手で差し出されたレシートを。 電話できなかった自分を。

歩き出しながら、ポケットに手を入れる。

端末が鳴った。次の案件だ。

僕のエレベーターは、まだ動かない。

——ジョン。 悪くない名前だと、僕も思う。

(了)

鈴森太郎(作家・ショートショート) 寓話と現実の接点を探る短編・連作を多数執筆。日常に潜む「ずれ」や「違和感」をすくい上げ、SF的想像力と詩的な余韻を融合させた作品を発表している

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