世界のクリスマスは、家族で過ごすあたたかな行事だ。
ところが日本では、1980〜90年代を中心に、〝恋人がいないと何となく落ち着かない日〟として扱われていた時期がある。
当時は、今のように「ひとりクリスマス」や「友クリ」という言葉もなく、クリスマスはほぼ〝恋人のためのイベント〟。恋人がいるかどうかが、冬のステータスかのように語られていた。
その背景には、JR東海のCMや雑誌の恋愛特集、クリスマス直前のティファニー行列など、広告と消費文化が生み出した強烈なムードがあった。
なぜ日本だけが、このように独特の〝恋人たちのクリスマス〟をつくり上げたのか。その答えを、いくつかの時代の情景から探っていきたい。
クリスマスは〝上書き可能な行事〟だった?
日本のクリスマスは、最初から宗教儀礼としてではなく、〝冬の楽しい行事〟として受け入れられてきた文脈がある。
その象徴が、明治期に行われた日本最初期のクリスマスパーティーで登場した「和製サンタクロース」だ。
当時の記録によれば、そのサンタは裃をつけ、大小(刀)を差し、ちょんまげのかつらをかぶった殿様風の姿。まったく日本独自のサンタだった。この段階で、クリスマスはすでに〝海外文化を自由に上書きする行事〟として扱われていたことがわかる。
第二次世界大戦後(1945年以降)になると、1950年代のクリスマスは会社員の宴会やキャバレーの繁忙日として消費され、1960年代に入ると百貨店がケーキやおもちゃを前面に押し出して「家族行事」へと転換。同時に若い独身者が街へ出て異性を誘う、恋愛の前兆のような夜にもなっていく。
こうして日本のクリスマスは、宗教とはほとんど関係のない、「その時代が求めるかたちへ変化していく特別な日」になっていった。
1980年代、クリスマスが〝恋人イベント〟へと動き始めた!

1980年、松任谷由実の『恋人がサンタクロース』がリリースされる。
〝サンタクロースは、大人になると恋人の姿で現れる〟
そんな物語を描いたこの曲は、クリスマスと恋をそっと結びつける視点を、ポップソングの中でいち早く提示した存在だった。
とはいえ、この時点でクリスマスがすでに「恋人の日」になっていたわけではない。1980年代前半のクリスマスは、家族でケーキを囲む人もいれば、友人と集まる人もいて、楽しみ方はまだ多様だった。
ただ、ユーミンの曲が提示した〝冬=恋の季節〟という空気が、どこかで少しずつ育ち始めていたのは確かだ。
1980年代も後半に近づくと、恋愛を若者の〝常識〟として扱う社会の空気が強まっていく。当時は、クリスマスケーキと若い独身女性を重ねて語ることもあった。
「クリスマスケーキは24日、25日まではよく売れるけれど、26日を過ぎると急に売れ残る」。そんなふうに、26歳以上の独身女性を揶揄して、「25歳までに相手を見つけないと売れ残るよ」などと言う人が少なくなかったのだ。
いま振り返れば明らかにNGな比喩だが、当時の若い女性には、恋人がいないこと自体がどこか〝遅れている〟ように感じられる、そんな圧として働いていた。
こうして12月が近づくと、女性誌は「クリスマスまでに彼氏をつくる」特集を当たり前のように組み、男性誌は〝彼女が喜ぶプレゼント〟をリストアップした。
雑誌に描かれる〝理想の恋人像〟は、若者の自己イメージを静かに形づくり、「クリスマスは恋人と過ごすもの」という前提が、声高に語られないまま広がっていく。
まだこの段階では、街全体が恋人一色に染まっていたわけではない。けれど、ユーミンが描いたロマンチックな世界観と、日常に漂い始めた空気が重なり、クリスマスが本格的な〝恋人イベント〟へと動き出す地ならしは、80年代のうちにすでに始まっていた。
1990年前後、JR東海と映画が〝恋人たちのクリスマス〟を決定づけた
1980年代の後半になると、〝恋人前提〟の空気を一気に可視化したのが、JR東海のテレビCMだった。
新幹線で会いに来てくれる恋人を待つ若い女性、静かに降る雪、遠くから聞こえる足音と、会えない時間が一気にほどける再会の瞬間。山下達郎の『クリスマス・イブ』を背景にした「シンデレラ・エクスプレス」や「クリスマス・エクスプレス」の映像は、 〝クリスマスは、好きな人に会いに行く日〟というイメージが、テレビから全国に広がっていく。
それまで何となくじわじわ育っていた〝恋人たちのクリスマス〟といった空気感は、ここで初めて、映像として具体的な物語のかたちを与えられたと言っていい。

同じ時期に公開された映画『私をスキーに連れてって』(1987年)も、この流れに拍車をかけた。
ゲレンデでの恋、ペアで滑るスキーウエア、帰りの車のなかの甘い空気。冬のレジャーと恋愛がセットになったこの作品は、「冬=スキー=恋人と過ごす時間」というイメージを、一気に若者の憧れにしてしまった。

JR東海のCMと、冬の恋愛映画。
それまで〝何となく恋人と過ごすイメージもある〟程度だったクリスマスは、〝恋人と会うために予定を空ける日〟へと、はっきり輪郭を持ちはじめる。
クリスマスが恋人たちの〝熱気〟にあふれていた時代
1990年代に入ると、恋人と過ごすクリスマスは社会全体の常識として定着し、街の空気はある種の〝熱気〟に包まれるようになっていく。
ホテルは秋の時点でほぼ満室。人気ホテルのクリスマスプランは、電話がつながらないまま半日が終わるほどの競争率だった。レストランも同様で、「聖夜ディナー」は予約さえできれば勝利、という雰囲気すらあった。
プレゼント選びもまた〝熱気〟の一部である。ティファニーの青い箱は圧倒的な人気を誇り、日本橋三越や銀座三越には、クリスマス前の夕方になると男性だけの行列ができた。
雑誌が提案するデートコースには同じ時間帯に人が集中し、湾岸エリアのドライブコースや港の夜景スポットには、カップルがぎゅうぎゅうに詰め込まれていった。
こうした〝外側の熱気〟に加えて、若者の内側にも静かなプレッシャーがあった。
クリスマスイブの夜に会社で残業していると、「恋人がいない人」と思われそうで、無理にでも早く帰ろうとする。そんな空気もあった。
夏が終わると、「クリスマスまでに恋人をつくる」というカウントダウンが始まり、街も雑誌もその気分を後押しする。恋人もいないのに先にホテルを予約する人や、直前に別れる人もいたりして、恋人探しはさらに拍車がかかる。
クリスマスを恋人と迎えることそのものが、ひとつの〝恋愛イベントのゴール〟として扱われ、終わった途端に別れてしまうカップルも少なくなかった。
いま振り返れば、1990年代のクリスマスは、ホテルや百貨店だけでなく、会社や大学、バイト先、そして一人ひとりの心の中まで含めて、社会全体が〝恋人たちの熱気〟で満たされていた時代だったと言えるだろう。
2025年、クリスマスはどこへ向かうのか
パーティー主体のクリスマスから、家族で過ごすクリスマスを経て、1980年代から90年代には〝恋人たちのクリスマス〟へと移り変わっていった。
その変化を押し進めたのは、メディアが描いた物語であり、その物語に自分を重ねたいと願った若者たち自身でもあった。
こうした価値観の変化は、百貨店のクリスマスコピーにも表れている。当時の資料は体系的に整理されているわけではなく、断片的に残っているものが多いが、たまたま見つけた西武百貨店のコピーには、その〝時代の空気〟が確かに刻まれていた。
1986年 「クリスマスは、一年の金曜日である。」(新聞広告)
1991年 「クリスマスを忘れる恋人は、いません。」(新聞広告)
2025年 「my CHRISTMAS 2025 好きにしない? だってクリスマスだし。」(プロモーションテーマ)
わずか数行のコピーであっても、「高揚」から「恋人前提」、「個人の自由」へと向かう流れがくっきりと読み取れる。
クリスマスは再び、一人ひとりの自由な選択にゆだねられる行事へと戻ってきつつある。
文/内山郁恵
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