R氏は画家だ。ただし、少し変わった画家である。
「私の肖像画は、見た人を変えてしまうんです」
R氏は静かに語った。美術評論家のケイ氏は鼻で笑った。
「芸術家にありがちな誇大妄想ですな」
「では、お見せしましょう」
R画伯の肖像
R氏が取り出したのは、真っ白なキャンバスだった。

「……何も描いてないじゃないですか」
「いえ、描いてあります」
「どこに?」
「ここに」R氏はキャンバスの中央を指差した。「白い絵の具で、白い人を描きました」
「白い人?」
「ええ。背景も白、服も白、肌も白、髪も白。全てが白い人です」
ケイ氏は呆れた。
「それは描いてないのと同じでしょう」
「いいえ、違います。描いてないのと、白で白を描くのは、全く違います」
「どう違うんです?」
「描いてない場合、そこには0があります。白で白を描いた場合、そこには1があります」
「1?」
「白が1枚重なっているんです」
R氏はキャンバスに顔を近づけた。
「ほら、よく見てください。白の上に白が乗っているのが分かるでしょう?」
ケイ氏も仕方なく顔を近づけた。確かに、よく見ると、微妙な凹凸がある。筆のタッチが、かすかに見える。
「これが……肖像画?」
「そうです。白い人の肖像画です」
「で、これを見ると、どう変わるというんです?」
「白くなります」
「白く?」
「ええ。少しずつ、白くなっていきます」
ケイ氏が半信半疑で白いキャンバスを見つめていると、R氏が解説を始めた。
「まず、白目が白くなります」
「白目は元々白いでしょう」
「いえ、厳密には白ではありません。少し黄色味がかっています。それが純白になります」
ケイ氏は自分の目を鏡で確認した。確かに、白目は完全な白ではない。
「次に、歯が白くなります」
「歯も元々白い」
「これも厳密には白ではありません。象牙色です。それが純白になります」
「それから?」
「髪の白髪が増えます」
「私はまだ白髪は……」
「いえ、あります。3本」
「3本?」
「左側頭部に2本、後頭部に1本。今は黒髪に紛れていますが、それが純白になると目立ち始めます」
ケイ氏は不安になって髪を触った。
「その次は、肌が白くなります。日焼けが消え、メラニンが減少し、最終的には白い紙のようになります」
「紙?」
「そして服も白くなります。どんな色の服を着ていても、繊維が脱色されて白くなります」
ケイ氏は自分の紺色のスーツを見下ろした。
「最後に、影が白くなります」
「影が白く?それは影じゃないでしょう」
「いえ、白い影というものが存在するんです。光の当たらない部分が白く発光する。それが白い影です」
「ちょっと待ってください」ケイ氏は頭を整理しようとした。「つまり、この白いキャンバスを見続けると、私は全身真っ白になると?」
「そうです。白くなると、見えなくなります」
「見えない?」
「白い部屋で、白い服を着た白い人は、見えません」
「でも、ここは白い部屋じゃない」
R氏は周りを見回した。確かに、アトリエの壁は薄いベージュ色だった。
「失礼しました。では、こうしましょう」
R氏は別のキャンバスを取り出した。これも真っ白だった。
「これは?」
「白い部屋の絵です」
「……白いキャンバスにしか見えませんが」
「白い部屋を白で描いたんです。壁も床も天井も白い」
「つまり、また白いキャンバス」
「いえ、今度は白が6枚重なっています。壁4面と床と天井で6枚」
R氏は二枚の白いキャンバスを並べた。
「この二つを同時に見ると、白い部屋の中の白い人になります」
「それで?」
「消えます」
「消える?」
「正確には、消えたように見えます。白い背景と同化して」
ケイ氏は考えた。
「でも、私が消えたように見えても、私自身は存在しているんでしょう?」
「それが問題なんです」
「問題?」
「誰も見えないものは、存在していると言えるでしょうか?」
哲学的な問答が始まった。
「存在していますよ」ケイ氏は断言した。「見えなくても、触れば分かる」
「白い手で白い物を触っても、触っているかどうか分かりません」
「いや、感触があるでしょう」
「白い感触です」
「白い感触って何です?」
「無です」
「無?」
「白は全ての色を反射します。同様に、白い感触は全ての感覚を反射します。つまり、何も感じません」
ケイ氏は混乱してきた。
「じゃあ、声は?白くなっても声は出せるでしょう」
「白い声になります」
「白い声?」
「全ての周波数が均等に混ざった音。つまり、ホワイトノイズです」
「ザーッという音?」
「そうです。意味のある言葉は話せません」
R氏は三枚目のキャンバスを取り出した。これも白い。
「これは何です?」
「白い音の絵です」
「音を絵に?」
「白い絵の具で、ザーッと描きました」
「ザーッと?」
「筆をザーッと動かして」
R氏は筆を持ち、空中でザーッと動かして見せた。
「これで三位一体です。白い人、白い部屋、白い音。完全な白の世界」
ケイ氏は三枚の白いキャンバスを見比べた。どれも同じに見える。
「ところで」ケイ氏は気づいた。「これらは本当に違う絵なんですか?」
「もちろんです」
「でも、全部同じ白いキャンバスに見えます」
「それは、あなたがまだ白くないからです」
「白くなると違いが分かる?」
「いえ、白くなると違いが分からなくなります」
「え?」
「白い目で白を見ると、全てが同じに見えます。つまり、違うものが同じになる」
「それは、分かるとは言わないでしょう」
「いえ、究極の理解です。全てが同じだと分かることが」
R氏は四枚目のキャンバスを取り出した。
「これは?」
「白い理解の絵です」
「もう何でもありですね」
「白い絵の具で、『分かった』を描きました」
「『分かった』をどう描くんです?」
「こう」
R氏は筆を持ち、キャンバスの上で頷くような動作をした。
「頷いただけじゃないですか」
「いえ、描きました。白い頷きを」
ケイ氏は疲れてきた。
「Rさん、結局あなたは何がしたいんです?」
「白くしたいんです」
「何を?」
「全てを」
「全て?」
「この世界の全てを白くしたい」
R氏は窓の外を見た。
「空も、海も、山も、建物も、人も、全てを白く。そうすれば、争いがなくなります」
「なぜ?」
「区別がつかないからです。白い人と白い人は区別できません。敵も味方もない」
「でも、それでは何もできないでしょう」
「する必要がないんです。白い世界では、全てが完了しています」
「完了?」
「白は完成の色です。これ以上何も加える必要がない」
R氏は五枚目のキャンバスを取り出した。
「これは白い完成の絵です」
「また白いキャンバス」
「いえ、これは他とは違います」
「どう違うんです?」
「これは最初から白いキャンバスです。何も描いていません」
「じゃあ、ただのキャンバスじゃないですか!」
二人は黙った。白い沈黙が、アトリエに満ちた。
「そう、それが完成なんです」
ケイ氏は立ち上がった。
「もう帰ります」
「待ってください」R氏が呼び止めた。「あなたの手を見てください」
ケイ氏が自分の手を見ると、爪が真っ白になっていた。
「これは……」
「始まっています。白化が」
「嘘だ!」
ケイ氏は鏡を取り出した。確かに、白目が以前より白い。歯も白い。髪に白いものが混じっている。
「どうすれば止められるんです?」
「簡単です」R氏は言った。「黒い絵を見てください」
「黒い絵?」
R氏は棚から真っ黒なキャンバスを取り出した。
「これは黒い人の肖像画です」
「また同じパターンですか」
「黒い絵の具で、黒い人を描きました」
「で、これを見ると黒くなる?」
「そうです」
ケイ氏は黒いキャンバスを見つめた。しばらくすると、白くなりかけていた爪が元の色に戻り始めた。
「本当だ……」
「でも、気をつけてください」R氏が警告した。「見すぎると、今度は黒くなりすぎます」
「黒くなりすぎる?」
「影が黒く、瞳が黒く、歯まで黒くなります」
ケイ氏は慌てて黒いキャンバスから目を逸らした。
「結局」ケイ氏は二つのキャンバスを交互に見ながら言った。「白と黒のバランスが大切ということですか?」
「いえ」R氏は首を振った。「そうではありません」
「では?」
R氏は新しいキャンバスを取り出した。今度は灰色だった。
「これは?」
「灰色の人の肖像画です」
「灰色……白と黒の中間」
「これを見ると、どうなると思いますか?」
ケイ氏は考えた。
「灰色になる?」
「いえ、透明になります」
「透明?なぜ?」
「灰色は存在感が最も薄い色だからです。白でも黒でもない。主張がない。だから、透明になる」
「それは論理が飛躍しすぎでは……」
「灰色は光を鈍らせます」R氏はつぶやいた。「でも、すべての色が通る透明とは、また違う透明なのです」
「違う透明?」
「消えかかる透明です。存在が薄れる透明」
「実は」R氏は声を潜めた。「私も今、半分透明なんです」
ケイ氏はR氏をよく見た。言われてみれば、少し向こうが透けているような……いや、気のせいか。
「長年、これらの絵を見続けた結果です」R氏は続けた。「白い絵、黒い絵、灰色の絵。全てを見続けて、私は曖昧な存在になりました」
「曖昧な存在?」
「いるような、いないような。画家のような、画家でないような」
その時、アトリエのドアが開いた。
入ってきたのは、もう一人のR氏だった。
「え?」ケイ氏は二人のR氏を見比べた。「双子ですか?」
「いえ」最初のR氏が答えた。「彼は黒いR氏です」
「黒い?」
よく見ると、後から来たR氏は、影が濃い。瞳も真っ黒だ。
「私は白いR氏です」最初のR氏が言った。確かに、肌が白く、影が薄い。
「じゃあ、灰色のR氏もいるんですか?」
「います」
三人目のR氏が入ってきた。この人は、印象が薄い。いるのかいないのか、はっきりしない。
「これは……」
「私たちは元々一人でした」白いR氏が説明した。「でも、絵を見続けて分裂したんです」
「分裂?」
「白い自分、黒い自分、灰色の自分に」
黒いR氏が続けた。
「でも、困ったことがあります」
「何です?」
「誰が本物のR氏か、分からなくなりました」
三人のR氏は、ケイ氏を囲んで議論を始めた。
「私が本物です」白いR氏が主張した。「白は始まりの色。最初にいたのは私です」
「いや、私だ」黒いR氏が反論した。「黒は終わりの色。最後に残るのは私です」
「どちらでもありません」灰色のR氏がぼんやりと言った。「私は中間。つまり、ずっといます」
ケイ氏は混乱した。
「待ってください。そもそも、なぜ肖像画を見ると変化するんです?」
三人のR氏は同時に答えた。
「見ることは、なることだからです」
「は?」
白いR氏が説明した。
「人は見たものに影響されます。美しい絵を見れば心が美しくなる」
黒いR氏が続けた。
「醜い絵を見れば心が醜くなる」
灰色のR氏が締めくくった。
「何も見なければ、何にもならない」
「でも」ケイ氏は反論した。「普通、絵を見ても肉体は変化しないでしょう」
「普通の絵はね」白いR氏が微笑んだ。
「私の絵は特別なんです」黒いR氏も微笑んだ。
「特別でも普通でもないけど」灰色のR氏はつぶやいた。
「ところで」ケイ氏は急に気づいた。
「私の服が……」 見ると、紺色のスーツが微妙な色になっていた。白でも黒でも灰色でもない。
「ああ」白いR氏が言った。
「それは混ざり始めています」
「混ざる?」
「白と黒と灰色を同時に見たからです。あなたの中で三つの色が混ざっている」
その時、ケイ氏は自分の左手が少し白く、右手が少し黒く、胴体が灰色がかっているのに気づいた。
「私も……分裂するんですか?」
「いえ」灰色のR氏が答えた。
「あなたは増殖します」
「増殖?」
ドアが開いて、ケイ氏が入ってきた。いや、少し違う。白っぽいケイ氏だ。 続いて黒っぽいケイ氏が入ってきた。 そして灰色っぽいケイ氏が。
「これは……」
「あなたもいくつかに分かれました」白いR氏が説明した。
「でも、元のあなたも残っています」
「じゃあ、私は……四人?」
「今のところは」
白いケイ氏が白いR氏に近づいた。 黒いケイ氏が黒いR氏に近づいた。 灰色のケイ氏が灰色のR氏の方へ……いや、どこにいるのか分からなくなった。
「これから」黒いR氏が宣言した。「色別に分かれて生活します」
「分かれて?」元のケイ氏が尋ねた。
「白い人たちは白い世界へ。黒い人たちは黒い世界へ。灰色の人たちは……まあ、どこかへ」
「でも、私は元の世界に帰りたい」
「元の世界?」白いR氏が首を傾げた。「ここが元の世界ですよ」
「違います。ここはアトリエです」
「いいえ」三人のR氏が同時に言った。「ここはもう絵の中です」
ケイ氏が振り返ると、確かに、アトリエの壁が平面的に見えた。ドアも窓も、描かれたように見える。
「私たちは」白いR氏が静かに言った。「最初からキャンバスの中にいたんです」 「R氏の肖像画の中に」黒いR氏が続けた。 「見ている人が、実は見られている人だった」灰色のR氏がつぶやいた。
その時、外から声がした。 「あれ、誰もいない」 巨大な顔がアトリエの天井に現れた。いや、天井ではない。キャンバスの外から覗き込んでいる顔だ。
「R画伯の新作か。『美術評論家の肖像』って書いてある」
「違う!」ケイ氏は叫んだ。「私は評論家じゃない。私は本物の人間だ!」
しかし、その声は外には届かない。白い声になっていた。ザーッという音だけが聞こえる。
「変な絵だな。白っぽい人と黒っぽい人と、灰色っぽい人が何人も描いてある」 「いや」その絵を見た次の訪問者は言った。
「この絵、何も描いてないじゃないか」
訪問者はさらに顔を近づけた。
よく見ると、微妙な凹凸がある。 筆のタッチが、かすかに見える。 白の上に白が、黒の上に黒が、灰色の上に灰色が重なっている。
そして――
「これが……肖像画?」
訪問者は気づいていない。 自分の手が、もう白くなり始めていることに。
(了)
鈴森太郎 (作家・ショートショート)
寓話と現実の接点を探る短編・連作を多数執筆。日常に潜む「ずれ」や「違和感」をすくい上げ、SF的想像力と詩的な余韻を融合させた作品を発表している。
未来の友達へ。緑は、まだ残っていますか?過去から届いた「2094年の紙ヒコーキ」
未来を予見するSFの世界を描く「パラレルミライ20XX」は、技術進化と人間社会の融合や衝突をテーマにした連載小説です。シリーズでは、テクノロジーによる新たな現実…







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