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【ショートショート】亡くなった人とも話せる? 糸電話が支える“正直すぎる社会”

2026.01.08

『糸電話は嘘をつかない』

糸電話局の窓口で、僕は三十分も待たされていた。

待合室の壁には、歴代の「糸電話技師」の肖像画がずらりと並ぶ。彼らは皆、耳を澄ませるような表情で、手には愛用の紙コップを持っている。初代技師、山田糸之助の下には「声は距離を超えても、心は糸で繋がれる」という格言が刻まれていた。

隣の椅子で、老婆が編み物をしながら糸電話をしている。編み糸と通話糸が絡まっているが、会話は続いていく。 「そうそう、猫がね」 老婆の編み物から、セーターの袖のような形が生まれつつある。でも片袖しかない。もう片方の袖が編めないのは、編み糸が糸電話の糸として使われているからだ。

向かいの席では、スーツ姿の男が糸電話を三本同時に耳に当てていた。会議通話らしい。でも三本の糸は全て同じ場所から来ている。男は一人三役で会議をしているのかもしれない。 「はい、賛成です」「私も賛成です」「全会一致ですね」 男は満足そうにうなずく。

受付の横には「本日の糸相場」の掲示板。絹糸が前日比3%上昇、ナイロン糸が横ばい、麻糸は取引停止。理由は書かれていない。

「A-21番の方」

呼ばれた女性が立ち上がる。彼女は大きなスーツケースを引きずっていた。中身は全部糸だという。引っ越し先まで自分で糸を張るつもりらしい。

女性の後ろ姿を見ていたら、胸の奥が少しだけ重くなった。理由は考えないことにした。

待合室のテレビでは、糸ニュースが流れ始めた。

「本日午後3時頃、環七通りで大規模な糸もつれ事故が発生しました。約3000世帯の通話が混線し、現在も復旧作業が続いています」 画面には、空中で複雑に絡まった糸の映像。まるで巨大な蜘蛛の巣のようだ。

「B-47番の方」 ようやく僕の番号が呼ばれる。窓口の女性は、糸電話局の制服である紺色のベストに、糸をモチーフにした社章を付けていた。名札には「糸電話技師3級 佐藤」とある。

「糸の太さはいかがなさいますか」 「普通ので」 「普通は昨年廃止になりました」 「じゃあ、標準で」 「標準の糸をご希望の場合は、標準申請書を標準課に提出していただく必要があります」 「どこですか」 「ここです」 「ここは窓口では?」 「木曜日は標準課です」 「今日は火曜日ですよ」 「お客様にとってはそうかもしれません」

佐藤さんは、サンプルケースを差し出す。絹糸0.2mm、木綿糸0.5mm、ナイロン糸0.8mm、そして最高級のカーボンナノチューブ糸0.01mm。

「実家に電話したいだけなんですが」 「ご実家までの直線距離は?」 「たぶん50キロくらい」

佐藤さんはそろばんを弾き始めた。パチパチという音が、どこか麺をすする音に似ている。

「お客様、50キロですと、糸のたるみを考慮して実際には糸の重さが40キロになります。途中の建物を迂回する場合は、屋上使用許可証をお持ちですか」 「持ってません」 「では、一般糸道を使用することになりますね。合計75,460円になります」

僕は椅子から転げ落ちそうになる。

「分割払いも承っております。糸電話は嘘をつきませんから」

この決め台詞は、糸電話局のキャッチコピーだった。糸電話局のキャッチコピーだった、と僕は二回思った。

「もっと安いプランは」 「共同糸はいかがでしょう」

佐藤さんは緑のパンフレットを取り出す。

「共同糸?」 「複数の契約者で一本の糸を共有するプランです。ただし、同時通話はできません」 「順番待ちですか」 「現在、東京-千葉間の共同糸には、約300人の契約者がいらっしゃいます。平均待ち時間は3時間です」 「3時間……」 「深夜割引もございます。午前2時から5時は待ち時間が30分程度です」

僕は実家の両親が、午前2時に起きている姿を想像できなかった。

「臨時糸はどうでしょう」

今度は赤いパンフレットが出てくる。

「24時間限定の使い捨て糸です。ビニール製なので音質はかなり劣りますが、1本3,000円でレンタルできます」 「それで」

佐藤さんは伝票を書き始めた。

「お客様のお名前は?」 「えーと」

名前を思い出すのに数秒かかる。最近、自分の名前を言う機会がない。

「シンドウです」 「下のお名前は?」 「……タクヤ」 「シンドウタクヤ様ですね。糸の接続時間帯はいつになさいますか」 「今すぐでも」 「申し訳ございません。糸張り職人が本日は出払っておりまして。数日はかかります」

糸張り職人。彼らは都市の空を縦横無尽に駆け回り、糸を張る専門家だった。彼らの多くは元サーカス団員か、電線工事の職人だという。

手続きを終えて糸電話局を出ると、街は夕方の糸ラッシュを迎えていた。

空には無数の糸が交差している。赤い糸は緊急回線、青い糸は一般回線、黄色い糸は商用回線。糸の色で用途が分かれているのだ。時々、黒い糸も見える。葬儀の連絡に使われる糸だ。

歩道橋の下を、糸回収車がサイレンを鳴らして走り抜ける。切れた糸は回収しないと罰金だ。でも糸を切るのは違法ではない。

糸回収車の後ろには、「本日の回収量:3.2トン」と電光掲示板があった。3.2トンの会話が今日も終わったということだ。

「糸電話食堂」の前を通る。ここでは注文も糸電話でする。厨房まで5メートルしかないのに「味噌ラーメン」と紙コップに向かって叫ぶサラリーマン。 「聞こえません」と糸電話で返す店員。 客は同じことを何度も繰り返している。

よく見ると、店内の糸は全て切れていた。でも客も店員も気づいていない。あるいは気づかないふりをしているのかもしれない。

このやり取り、たぶん毎日繰り返されているのだろう。

公園の入口に差し掛かる。 「糸公園」という看板の下で、鳩が糸を巣の材料にしている。鳩の巣から誰かの会話が聞こえるが、誰も気にしない。「今日も残業?」という声が、鳩の鳴き声に混じっていた。

池のほとりでは、釣り人が糸電話の糸で釣りをしている。 「もしもし」と呼びかけると、魚が答えるらしい。でも魚は糸電話を使えない。釣り人は、ただ糸を垂らしているだけだった。

公園のベンチに座ると、隣の老人が公衆糸電話で話していた。 「ああ、聞こえるとも。今日も君の声が聞けて嬉しい」

老人の手が震える。でも相手側の紙コップは、ベンチの隣に置かれたまま。誰もいない。

「誰と話してるんですか」 思わず聞いてしまった。 「妻とだよ、3年前に死んだ。でも糸は繋がったままなんだ」

老人は空の紙コップを愛おしそうに見つめる。

街灯が灯り始めた。

夜間糸管理人が、長い棒を持って現れる。たるんだ糸を引っ張り上げ、テンションを調整していく。糸がたるむと音が伝わりにくくなる。でも張りすぎると切れてしまう。微妙な調整が必要なのだ。

「お客さん、糸占いはいかが?」

露店のおばあさんが声をかけてきた。彼女のエプロンには、かすかに豚骨の匂いが染み付いている。

「糸を一本選んでごらん」

赤、黄、白、緑。色とりどりの糸が並ぶ中、僕は青い絹糸を選んだ。

「青を選ぶ人は久しぶりだね」

おばあさんは糸の端に紙コップを付け、もう一方を自分の耳に当てる。そして、糸を指で弾いた。

「この糸、切れたことがあるね」
「今選んだばかりですけど」
「あんたの糸の話さ」

おばあさんは目を閉じたまま、糸を指先で撫でている。

「切れた糸はね、結び直せるよ」
「それは良いことですか?」 「さあ、糸に聞いてごらん」

糸を弾く合間に、「チャーシュー追加」という声が微かに聞こえた。

おばあさんは糸占い師ではなく、糸電話で注文を取るラーメン屋だった。占いは客寄せらしい。

「ラーメンはいかが?」
「今日はいいです」
「糸一本サービスするよ」

おばあさんは青い絹糸を僕に押し付けた。

「持っていきな。もうすぐ要るから」
「糸を?」
「スープに入れると、コシが出るんだ」

おばあさんは真顔で言う。本当かもしれない。

商店街を歩く。 「糸電話銀行」の前には長い列ができていた。口座開設には、音声認証が必要なのだ。糸電話での音声認証。機械ではなく、人間が聞いて判断する。

「糸電話保険」の看板も見える。糸が切れた時の保険、糸もつれ保険、糸盗難保険。あらゆるリスクに対応している。

ふと、ユキのことを思い出した。

3ヶ月前、彼女と別れたのも糸電話でだった。 「もう疲れた」と彼女は言った。 「何に?」 「糸に」 それ以上、何も言わなかった。糸を切る音だけが聞こえた。

アパートに向かう道すがら、コンビニに寄る。 「糸電話イヤホン」「糸電話延長コード」「糸電話消音器」 糸電話グッズが並んでいる。僕は紙コップを一つ買った。予備だ。

レジの店員は、糸電話で本部と在庫確認をしていた。 「紙コップ、あと3個です」 返事はない。でも店員は頷いている。

アパートの前に着く。 古い木造アパート。壁から無数の糸が飛び出している。住人たちの生活線だ。

階段を上ると、ドアノブに糸が結ばれていた。紙コップ付きで。

恐る恐る耳に当てると、聞き覚えのある声が聞こえる。 「もしもし……いる?」

元恋人のユキだった。心臓が跳ねた。

「3ヶ月ぶりだね」 「うん」

糸を通じて、お互いの息遣いだけが聞こえる時間が流れた。この沈黙も、僕たちの会話だった。

「元気だった?」と彼女。 「まあまあ」 「まあまあか」

ユキが小さく笑う。その振動が糸を伝わってくる。

「実は、引っ越すことになったの」 「どこに?」 「ニューヨーク」 「糸は届かないね」 「大丈夫、飛行機で運ぶの」 「糸を?」 「ううん、声を。瓶に詰めて」 「それ糸電話じゃない」 「でも糸を一度通した声だから、税関では糸電話扱いなの」 「そんな規則あるの?」 「糸電話局の人がそう言ってた。糸の振動が声に残るんだって」 「信じてるの?」 「信じたい」

ユキらしい理屈だった。彼女はいつも、おかしな理屈を真顔で話す。

「いつ発つの?」 「明日」 「急だね」 「3ヶ月前から決まってた」 「じゃあ、別れた時にはもう」 「うん」

沈黙。

「ねえ、タクヤ」

名前を呼ばれて、ああ、僕には名前があったんだと思い出す。

「覚えてる? 初めて糸電話で話した日のこと」 「公園だっけ」 「違う。図書館」 「ああ」

「『この本、面白いですか』って糸電話で聞いてきたんだよね、タクヤが」 「『聞こえません』って答えたのはユキだ」 「聞こえてた」 「知ってた」

また笑い声が糸を震わせる。

「この糸、明日の朝には回収されるのよ」 「うん」 「回収車の人は、私たちの会話の振動が残った糸を巻き取るのかな」 「たぶん」 「じゃあ、この会話も回収されるんだ」 「リサイクルされて、誰かの糸になる」 「ねえ、タクヤ。糸電話は嘘をつかないって、本当だと思う?」 「嘘をつかないんじゃなくて、つけないんだと思う」 「どういうこと?」 「糸で繋がってると、全部伝わっちゃうから」「じゃあ、私がずっと待ってたことも伝わってた?」

沈黙。今度は長い沈黙。

「じゃあ、正直に言うね」 「うん」 「まだ好きよ」

糸がピンと張る。でも僕たちの間の距離は変わらない。

糸が月明かりに照らされて、銀色に輝いていた。

「ねえ、タクヤ」「なに?」「今の、嘘」「どっちが?」「さあ」

糸電話は嘘をつかない。

文/鈴森タロウ(作家・ショートショート)  寓話と現実の接点を探る短編・連作を多数執筆。日常に潜む「ずれ」や「違和感」をすくい上げ、SF的想像力と詩的な余韻を融合させた作品を発表している

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