サブスクで無限に音楽を聴ける時代に、なぜ「MDプレーヤー」が再評価されているのか。
再生時間は80分、録音にはリアルタイムが必要、ネットにもつながらない。それでも人々がMDを“エモい”と感じるのは、そこに“自分で選び、編集する喜び”があったからだろう。
今年2月、ソニーがついにMDメディアの生産を終了した。約30年の歴史を刻んだフォーマットが、静かに幕を下ろしたのだ。
しかし、平成カルチャーの象徴ともいえる「MD文化」が、いま改めて注目を集めている。そこから見えるのは、サブスク時代に失われた〝音楽との距離感〟だった。
「録音する」行為が生んだ、個人のサウンドトラック
1992年(平成4年)、ソニーが開発したMD(ミニディスク)は、CDからの録音が可能な〝録音メディア〟として登場し、1990年代後半から2000年代にかけて一世を風靡した。
当時、CDウォークマンが「聴くための機械」だったのに対し、MDウォークマンは「自分の音楽を作るための機械」だった。
CDから録音し、曲順を並べ、手書きでタイトルを書く。
「放課後に聴くアップテンポ特集」「恋人に貸すバラードMD」「受験勉強で聴く応援ソング」など、それぞれのMDには、その人だけの物語が詰まっていた。
SNSもプレイリスト共有もなかった時代に誰かのMDを借りることは、その人の心を少し覗くような行為だった。「この曲の次にこれを入れるの、なんか分かる」——そんな共感が、音楽を通じたコミュニケーションを生んでいた。
MDには〝録音する〟という手間の中に、自分だけの価値があった。
無限に聴けるサブスクと違い、容量80分という制約の中で〝何を残すか〟を考える。その選択の連続が、まさに“編集としての表現”だったのだ。
ソニーの名機が刻んだ「デザインの美学」
2000年前後、ソニーは数々の名機を送り出した。

中でも象徴的なのが、軽量化を極めた「MZ-E10」(2002年発売)だ。厚さ9.9mmという当時世界最薄のデザインは、〝手のひらのCD〟と称され、発売と同時に話題になった。

さらに録音派から圧倒的な支持を集めたのが、液晶リモコンを備えた「MZ-N910」と、MDの到達点ともいわれる「MZ-RH1」だ。
とくに後者はHi-MD規格に対応し、PCとのUSB接続やデジタル編集まで可能にした、〝究極の一台〟として語り継がれている。

それ以外にも、ポップなカラーバリエーションが人気を博した「MZ-E620」や「MZ-E720」など、女子高生を中心に〝ファッションとしてのMDプレーヤー〟を楽しむ層も現れた。
アルミ削り出しボディ、メタリックカラー、再生時に響くわずかなディスク音。それらすべてが〝モノとしての愛着〟を生み、所有欲を満たしてくれた。 MDディスク自体も、当時のカルチャーを象徴している。

特にソニー「Color Collection」シリーズは、透明ケースにパステルカラーのディスクを組み合わせたデザインで人気を集め、人気アーティストのCMも購買欲を掻き立てた。
友人に貸す時にステッカーを貼ったり、ラベルに手書きのタイトルを書いたり——。MDディスクの〝パーソナライズされた物質性〟は、MD文化の美学を形成していた。
この「音楽を聴く道具を愛でる」感覚こそ、MD文化の隠れた本質だろう。スマホ一台で何でも完結する時代に、あえて〝音楽専用機〟を持つ贅沢は、いまZ世代の一部が再び感じ始めている感覚でもあるように思う。
iPodが変えた「聴く」文化、MDが象徴した「作る」文化

2001年には、AppleのiPodが登場し、音楽の主役は一気にデジタルへと移行し、数千曲を〝持ち歩く〟時代へと突入する。それは革命的に便利でスマートだったが、同時に「音楽を編集する楽しさ」が薄れていった瞬間でもある。
MDは、アナログとデジタルのちょうど中間に位置する存在だった。録音こそデジタルだが、編集はひとつひとつボタンを押して進める手作業。その〝デジタルだけど完全自動ではない〟感覚こそ、MD特有の魅力だった。
録音こそデジタルだが、編集はひとつひとつボタンを押して進める手作業。その〝デジタルだけど完全自動ではない〟感覚こそ、MD特有の魅力だった。トラックの頭出しを微調整し、タイトルを数文字ずつ入力していく――そんな作業中は、思わず「話しかけないで!」という空気が漂った。
iPodが〝スマートな消費〟の象徴だったとすれば、MDはまさに〝手間をかける快感〟を体現する存在だった。そこには、音楽を「作る側」として関わるような能動性があり、その違いは心理的にも大きい。アナログ的な操作や制約を伴う行為ほど、記憶に深く刻み込まれると言われているのもそのためだ。
だからこそ、MD時代に聴いた曲は、イントロの数秒で当時の光景が鮮やかによみがえる。MDが単なる記録メディアではなく、〝心のタイムカプセル〟と語られる理由は、まさにそこにある。
サブスク時代に失われた〝共通の熱〟と、不便さの中の自由
2020年代、SpotifyやApple Musicなどのサブスクが主流となり、音楽は〝いつでも、どこでも〟聴けるようになった。だが同時に、「誰もが同じ曲を聴く」時代は終わったとも言われている。
90年代のヒット曲には、誰もが共有していた体験がある。カラオケで歌い、テレビで耳にし、レンタルしてMDに録音する——その一連の流れが、当時の〝音楽のブーム〟そのものを形づくっていたのだ。
しかし現在では、アルゴリズムが個々に最適化したプレイリストを流し、共有される体験が希薄になっている。
サブスクは〝音楽の民主化〟を進めたが、同時に〝共通の記憶〟を失わせた。
「みんなが知っている曲」よりも、「自分だけが聴く曲」が増えた結果、社会的な〝音楽のブーム〟が生まれにくくなっているのだ。
だからこそ今、Z世代がMDを〝再発見〟しているのも納得できる。そこにあるのは、情報過多な時代への反動であり、“選ぶことの自由”を取り戻そうとする動きでもあるだろう。
SNSを覗けば、「#MDプレーヤー」「#平成の音楽」といったハッシュタグが再び賑わいを見せている。中古ショップでMDを探す若者や、当時の機器を修理・レストアして楽しむファンも少なくない。
彼らにとってMDは、ただのノスタルジーではない。むしろ“自分で選び、自分で作る”行為を許してくれた、ひとつの〝自由〟の象徴なのだ。
録音にはリアルタイムの待ち時間があり、容量は限られ、曲名の入力も一文字ずつ。けれど、その不便さこそが「自分で選び、作る」という感覚を呼び覚ます。便利すぎる時代にあって、MDの小さな透明ケースの中には、手触りのある“音楽体験”が詰まっていた。
MD文化が再評価されているのは、まさにその点に理由がある。MDは平成の音楽シーンを象徴するだけでなく、音楽と人との関係をあらためて問い直させてくれる存在でもあるのだ。
「編集することが、表現になる」——。そんな感覚を教えてくれたのが、MDだった。MDの終焉は一つの時代の終わりであると同時に、“手を動かす音楽”の記憶を呼び覚ます出来事でもある。
小さな透明ケースに収められていたのは、音だけではなく、当時の心の風景そのものだった。さまざまなメディアから音があふれる今の時代だからこそ、立ち止まって〝ゆっくり聴く〟という行為を思い出したい。
今年の締めくくりに、そんな静かな時間を自分に贈ってみるのも、悪くないだろう。
取材・文/Tajimax
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