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消えた店に残る記憶と匂いのアーカイブ「喫茶アラスカ」

2025.09.28

【DIMEストーリー】喫茶アラスカ

氷の匂いは、いつも午後三時に濃くなる。

商店街の奥、路地を曲がったところに喫茶アラスカはあった。扉の上には青いペンキの文字。擦れて「アラスカ」と読める。

初めて入ったのは、小学四年の夏。商店街の祭りで、子ども会がお店を手伝う日、わたしの担当は喫茶アラスカで使う板氷を届けることだった。

「三時の子だね」

カウンターの向こうで、マスターが言う。白いシャツの袖は肘までまくっている。差し出されたコップの中で、削りたての氷がさらさらと沈んでいった。

水を口に含むと、冷たさはいったん舌で留まり、喉へ落ちるところで季節を変える。

「ありがとう、氷を運んでくれて」

マスターは、削りたての氷を使うため、塊のまま保管しておく。

「この店はね、三十年前から毎日午後三時に、時間を重ねている」

「時間を?」

「そう。初代のマスター、わたしの父が始めたんだ。ある日、午後三時に削った氷の音が妙に響いた。それから毎日、同じ時間に氷を削り、溶ける前の一瞬を重ねていった」

マスターは、壁を指で叩いた。コツン、と音がした。その音が、かすかにずれて二度響く。

「この店は “同じ瞬間” を重ねてきた。三十年分の三時が、この空間に堆積している。時間っていうのは層になってるんだよ。氷が溶ける瞬間も、永遠に重なり続ける」

店の時計が三時を指したときに気づいたことがある。音が二重になるのだ。今のスプーンの音に、過去のスプーンの音が和音で響く。今のコーヒーミルに、別の日のミルの低音が重なる。

「なんで音が重なってるの?」

「君にも聞こえるのか」とマスターは驚いた。

「時の層を感知できる子どもは、百人にひとりもいない。氷を運ぶ子だから、氷の記憶が君に宿ったのかもしれない」

「冬も氷を削るの?」

「もちろん」マスターは微笑んだ。

「季節は関係ない。一年中、三時に氷を削る。それが時間を重ねるということなんだよ」

その夏、わたしは毎日のようにアラスカへ通った。宿題を広げ、かき氷を食べながら、マスターが手回しの氷削り器でガリガリと氷を削る音を聞いた。午後三時になれば、幾重もの「同じ瞬間」が一度に感じられた。氷が溶ける音、コーヒーが注がれる音、誰かの笑い声——すべてが層になって存在していた。

やがて中学、高校と進むにつれ、部活や塾でアラスカへ行く回数は減った。それでも夏休みになると必ず立ち寄り、マスターと言葉を交わした。大学で東京へ出て、そのまま就職。年賀状だけのやり取りになり、やがてそれも途絶えた。都会の時間は層にならない。ただ流れていくだけだった。

その後、転職を機に浜松に戻ったとき、喫茶アラスカはなくなっていた。

マスターは三年前に他界し、店は取り壊されたという。そこには商店街の共同駐車場があった。

二時五十八分。わたしは駐車場の端に立った。手には、小さな氷のかけらがある。ここに来る途中、コンビニで買った袋から取り出したものだ。

二時五十九分。手の中で氷が溶け始める。

─── 三時。

氷のかけらを、アスファルトに落とした。

青い光が、一瞬だけ立ち上がる。そして白線が、かすかに震えた。

氷が地面に触れた瞬間、積み重なった「三時の記憶」が呼び覚まされる。喫茶アラスカで積み重ねられた時間の層が、氷を媒介にして現れた。建物は壊されても、時間の堆積は消えていなかった。

足元から、氷の匂いが立ち上る。

音が重なり始める。今はないコーヒーミルの唸り、消えたレジの金属音、そして小学四年生の、わたしの足音。

白線の中央に立つと、世界が二重写しになった。駐車場と喫茶店が、薄い膜を挟んで重なっている。わたしは目を閉じ、深く息を吸った。

「三時の子だね」

マスターの声が時を越えて響く。その声はいつもと変わらない、同じ午後三時の挨拶だった。

わたしは答えた。小さく、でもはっきりと。

「ただいま」

氷のかけらは完全に溶けて、アスファルトに小さな水たまりを作る。その水面に、一瞬だけ喫茶アラスカの天井が映った気がした。

それから数ヶ月、わたしは毎日のように午後三時に駐車場を訪れた。

ある日、「管理人募集」の張り紙を見つけた。前任者が高齢で引退するという。わたしは迷わず応募した。

「ここで働きたい理由は?」

面接で聞かれ、正直に答えた。

「この場所を守りたいんです」

運営会社の担当者は首を傾げたが、わたしの熱意を買ってくれた。

管理人室は駐車場の隅にある小さなプレハブだった。机と椅子、それに小さな冷蔵庫。わたしは自前で氷削り器を持ち込んだ。

「私物を置いてもいいですか」

「管理業務に支障がなければ」

こうして、午後三時の休憩時間になると、わたしは必ず氷を削った。シャリシャリという音が、プレハブの中に響く。

「何してるの?」

母親と小学生の子どもが窓から覗き込んだ。

「氷を削っているんだ。暑いだろう?」

コップに氷を入れ、水を注いで差し出した。

「冷たい!」

子どもは嬉しそうに飲み干した。それから、きょとんとした顔になった。

「なんか、ここ、音が重なってる」

わたしは驚きながら微笑んだ。この子にも聞こえるのだ。

「三時の管理人さん」

いつしかそう呼ばれるようになった。

「昔、ここに喫茶店があったんですってね」

年配の女性が話しかけてきた。

「アラスカっていう店。子どもの頃、かき氷を食べに行きました」

「そうでしたか」

「不思議なんです。ここに車を停めると、あの頃の氷の味を思い出すの」

女性は目を細めた。わたしは黙って氷水を差し出した。

「まあ、懐かしい味」

管理人室は喫茶店ではない。でも、午後三時の間だけ、記憶を分かち合った。

ある日、見覚えのある男性が訪れた。マスターの息子だった。

「父の店があった場所を、見に来ました」

彼は駐車場を見回し、それから管理人室に目を留めた。

「氷の匂いがする」

「どうぞ」

わたしは氷を削り、コップに入れて渡した。彼は一口飲んで、涙を流した。

「父の氷の音だ」

その日、彼は再びやってきて、古い木箱を持ってきた。

「父が使っていた氷削り器です。もしよければ」

それは、喫茶アラスカで使われていたもので、刃は手入れされ、今でも使える状態だった。

「ありがとうございます」

それ以来、この氷削り器を使うようになった。ガリガリという音が、時間の層に懐かしい響きを加える。

管理人になって三年目の夏。

「おじさん、氷ちょうだい」

窓の外に、あの時の子どもが立っていた。もう中学生になっている。

「三時の子だね」

わたしがそう言うと、少年は不思議そうな顔をした。

「どういうこと?」

「君は時間の層を感じられる子だから」

少年は首を傾げたが、差し出した氷水を飲んで、ふっと表情を緩めた。

「ここ、昔から好きなんだ。理由はわからないけど」

「それでいいんだ」

わたしは今日も管理人室にいる。

氷の匂いは、いつも午後三時に濃くなる。

文/鈴森太郎 (作家)

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