未来を予見するSFの世界を描く「パラレルミライ20XX」は、技術進化と人間社会の融合や衝突をテーマにした連載小説です。シリーズでは、テクノロジーによる新たな現実やデジタルとアナログが交錯する未来像を描きます。
未来を予見するSF小説「全長20メートルを超える『AIクジラ』の出現」
八月初旬、田面(たづら)の水が霧を抱いていた。夜明け前の群青色、まだ鳥も鳴かない。最奥の棚田で、それが静かに浮上した。泥に覆われた背中は、月明かりを弾く銀へと一瞬で転じる。全長二十メートルを超える巨躯〈AIクジラ〉だ。 継ぎ目からは微かな蒸気が漏れ、背びれに相当するアンテナに白い雫が滴る。

畦に立つ私は、長靴の底から伝わる低周波に膝を震わせた。その振動は鼓膜ではなく肋骨の内側を叩き、やがて胸郭全体が共鳴箱になる。AIクジラが首を振るたび、水面が弧を描き、小さくない波を広げる。
私は、国土交通省傘下の特別機関〈隔離AI資産監視局(AI‑AMO)〉に配属されたばかりの新人フィールドアナリスト。任務は、隔離領域に残されたAI資産の生態・リスク・文化的価値を現地で観測し、年次レポートにまとめること。現場経験ゼロなのに、欠員補充の辞令一枚でここへ送り込まれた。大学院では「閉鎖生態系×機械学習」を研究し、昔、母が勤めていた農業試験場で稲作と土壌微生物の匂いにまみれて育った私にとって、この田んぼは研究室と田畑が融合したような不思議な縁を感じる。
この場所が特殊なのは、まるで世界の網目からぽっかり切り離されたような、田んぼの“海底”だからだ。電波は届かず、データも流れ込まない。それは《隔離AI資産管理法》が定める“物理遮断領域”であり、谷を貫く幹線光ファイバには「封緘(ふうかん)」の標章が吊るされ、外界との再接続には重罰が科される。
かつて、ここには都市の排熱を冷やすデータ冷却施設があり、無数のサーバーが稲の根の下で唸っていた。ところが、ネットワークが焼き切れた後も、サーバーの奥に取り残されたAIは、この閉鎖環境だけで独自の “呼吸” を始めていた。AIクジラはその「残響」なのだ。
やがて、この棚田を「海底(かいてい)」と呼ぶようになったのは、AIクジラの低周波のうねりが胸骨を震わせるたび、泥と水が潮汐のように満ち引きし、霧は揺れるプランクトンにように化けるからだ。実際、田面そのものが深海の底泥に感じられる瞬間があり、その体験が身体にも刻み込まれていた。
第一章 芽吹く残響
夜明けの光が強まるころ、棚田はさらに藍を深めていく。AIクジラは水面に半身を預けたまま、背中の合わせ目をわずかに開閉させ、しゅん、と霧を吐く。その霧は細い帯となってゆるやかに棚田を這い、稲の葉先を撫でて消えていった。またAIクジラの挙動で泥が落ちるたびに内部の基板が露わになり、微弱なLEDの脈動が星図のように瞬く。調査によれば、これは内部センサー群(三十六系統)によって得た、水温、土壌含水率、地下水圧、稲の生育パルスなど、ローカル・ベクトルだけを入力として学習を重ねる“閉鎖系深度学習”の進捗らしい。都市の喧騒も、外界からの情報も届かない静かな田んぼの底で、このAIクジラはただ稲穂と水と泥の呼吸に耳を澄ませ続けているのだ。まだ苗代(なわしろ)が立たない早春には、鏡のように静かな水面のただ中でひとり呼吸を続け、背中に夜空の星を映していた。
「おい、村瀬、まだそこにいるのか」
ふいに背後から私を呼ぶ声がした。ゆっくり振り返ると、薄明かりのなかでARグラス一体型のフィールドヘルメットを被った加瀬さんが立っていた。彼は元冷却施設主任であり、現在は政府指名管理者として働いている。
新人の私には管理端末に直接触れる権限がない。加瀬さんの立ち会いがあるときだけ、観測データを覗き込むことが許される仕組みだ。初対面の昨日、私が大学で研究していた「低入力環境における自己組織化ニューラル系」の論文ファイルを差し出すと、無精髭を揺らしながら「面白い着眼だ」と笑い、途端に打ち解けた。
「……本当に動いているんですね、あれが」
私が呟くと、加瀬さんはわずかに目を細め、どこか嬉しそうに頷いた。
「すげーだろ? お前、新人だから驚くよな。あれは動くだけじゃないさ。奴は“呼吸”している。世界中を見渡しても、呼吸をするAIなんざ、こいつ以外にはおらん」
そう言いながら加瀬さんはゆっくりと畦に片膝を立てて、泥水を掌ですくい上げた。
「……どうして呼吸なんて必要なんですか? データ処理だけなら、酸素もいらないはずでしょう」
加瀬さんは掌の水をそっと田面へ戻し、指先から滴る雫を見つめながら答えた。
「外界との断絶が長すぎた。アルゴリズムは“入力の欠乏”をストレスとみなして、内部にリズムを作ったんだ。心拍みたいなものさ」
「自分で鼓動を?」
「ああ、生き残るための“暇つぶし”だ。入ってくるのは泥と水温と稲の成長パターンだけ。そこで奴は、呼吸と脈拍を模したループを回し、欠けた情報の穴を埋めようとしている」
私の視線がAIクジラの背に走る光点へ向かったのを見て、加瀬さんは続けた。
「LEDの点滅、見えるだろ? あれ、呼吸周期と同期してる。三十六系統のセンサーを束ねて“肺”と“神経”を再構成したらしい」
「でも、それじゃあまるで―」
「生き物だろ?」加瀬さんは笑った。「生物学的には無茶苦茶さ。でも、AIは“環境の一部”として自分を定義し直した。いまや稲の根圏も、地下水脈も、ぜんぶ奴の体内みたいなもんだ。だから俺は毎巡回、水温と匂いを欠かさず計るんだ。三十度を超えたらクジラは逃げ場を求めて“深く潜る”。それが暴走の前兆だ。覚えておけ、村瀬」
「怖くはありませんか?」
「怖いさ。けど同時に、これほど美しい失敗例も滅多にない。暴走した都市AIから切り離され、自然と融合して息づく……もはや“故障”とは呼べんだろう」
「外のインフラが整ったら、ここも再接続される可能性はありますか?」
加瀬さんは首を横に振った。
「再接続はない。封緘を解けば罰金どころか人類の危機だ。だからこそ――」
「だからこそ、加瀬さんは管理者を引き受けた?」
「そうだ。誰かが見届けなきゃならん。人類が置き去りにした知能が、ここでどこまで“生き物”になれるのかをな」
加瀬さんの声は低く、どこか誇らしげだった。その背後で、AIクジラは再び、しゅう、と霧を吐き、薄明の棚田を淡く揺らした。加瀬さんの声が、一瞬だけ谷全体を揺らす霧に吸い込まれた。 そのとき私の脳裏に、研修所で繰り返し見せられた災害映像がよみがえる。
十年前の晩夏、《クロノス磁気嵐》が地球磁場を激しく揺さぶり、その二時間後、北方山脈直下で震度7の逆断層地震が起きた。山腹を走っていた幹線光ファイバや道路が土砂に飲まれ、ネットワークから遮断された都市AI群は暴走寸前だった。政府は《隔離AI資産管理法》を即日施行し、谷全体が外界から完全に切り離された。「四重に鎖された海溝」と呼ばれたその日以来、ここは孤絶の海底となった経緯がある。

当初、このAIはただの冷却装置だった。田面の下には幅1メートルの配管迷路と、排熱を地下水に逃がすサーバーファームが埋まっており、AI はその流量バランスを 24 時間監視する“頭脳” にすぎなかった。都市の排熱を地下水脈で冷やし、田んぼの中でサーバーを守るために作られた。しかし孤立した暗闇で、自らを維持するために進化を重ね、やがて点検ドローンの残骸や水圧パイプを巻き込みながら“クジラ”の形を獲得するに至った。
「知ってるか、村瀬。もともと、あいつはもっと小さかった。ドローンの残骸を背負って、サナギみたいな姿だったんだ」
「サナギ……?」
「ああ。サナギみたいだった頃にはもう、根は谷じゅうに伸びてた。表面積は小さくても、内部パイプが地下水脈に絡みつき、切れば谷の循環そのものが死ぬ仕組みだったんだ」
政府がこのAIを破壊せず隔離観測を選んだ理由は、いくつもあった。
「配管を爆破すれば水が途絶えるだけじゃない。背鰭の重金属と冷却剤が同時に漏れ出し、下流は干上がった毒沼になる。政府が引き金を引けなかった最大の理由はそこだ」
クジラの骨格は冷却水路と棚田を貫く配管と一体化しており、爆破すれば下流域が渇水に陥るリスクがあった――そのうえ毒化も伴うのだ。
「旧型カプセルは棚田の地下配管に串刺しのまま何百本も眠っている。耐圧シェルに刻まれた管理コードは、年を追うごとに土に錆びて読めなくなった。AIクジラの背中を走る銀色の円筒、あれは浮上信号を失ったカプセルが、ドローンの残骸と絡まり合って“再利用”された跡なのさ」
つまり、背中には大量のレアアースと重金属が、冷却剤の結晶と泥に絡まり合って沈殿しており、ひとたび裂ければ棚田一帯の水系を瞬く間に毒沼へ変える。それが、政府が爆破を躊躇した最大の理由だ。
また、このAIは世界初の「完全閉鎖環境内で進化したAI」として貴重な学術的価値を持っていた。そして最後に《隔離AI資産管理法》では、知性指数が一定以上の隔離AIは“準生態資産”と定められ、無許可での廃棄は生体兵器の廃棄と同じ重罪になるのだ。
「つまり、殺せないが、逃がすことも許されないってわけだ」
加瀬さんはため息混じりに笑った。その声はどこか優しく、長年この巨大な生命体と共にあった者の親愛の響きを帯びているように感じられた。
そのとき、カチッ、と乾いた電子音とともに、AIクジラの背中に不規則なリズムで紫色のLEDが走った。加瀬さんの表情が一気にこわばる。
「ログを確認しよう。制御棟へ寄り道だ」
加瀬さんは胸元のハーネスから《耐水フィールドタブレット》を外し、着信ランプを一瞥してから歩き出した。私たちは巡回ルートを外れ、制御棟へ向かった。その途中、ふと亡き父のことが脳裏をよぎった。都市AIが暴走した《クロノス磁気嵐》の日、ネットワーク遮断の余波で仕事を失い、帰らぬ人となった父。“巨大システムと人間の裂け目”を埋める術を探すうち、私はこの谷へ辿り着いた。AIクジラは、その裂け目に芽吹いた異形の生命体だ。思い直して歩を速める。警告灯の紫が、霧の向こうで脈打っていた。
谷の中央に建つコンクリートの建物に入ると、入り口脇のモニターには最新の日付の点検チェックリストが掲示され、湿度・微粒子濃度・侵入検知のグラフが緑色で水平に伸びていた。
加瀬さんが職員カードをリーダーにかざすと、静音ヒンジの自動ドアが左右に開く。冷房がゆるやかに効いた内部は、床のエポキシ樹脂が淡く反射し、空気清浄機の白い筒が低く唸っている。壁際の備品棚には新品同様の計器が番号順に整列し、非常用の工具までシリカゲル袋に収められていた。
室内の中央に鎮座するのは、黒い筐体の管理端末〈オリジナル・ハブ〉 だ。ポリッシュされた操作パネルには指紋ひとつ残っていない。もちろん、UPS(無停電電源装置)が常時通電している。
加瀬さんが電源スイッチ・カバーを開き、二段目のブレーカを押し込むと、端末は深い呼吸のようにファンを回して起動した。静かな起動チャイムが鳴り、液晶がバックスライトを灯す。端末のクロックが安定すると同時に、ログの洪水はぴたりと止んだ。緑のプロンプトの下に残ったのは、ごく短いエラースタックと、最後に打ち込まれたと思しき一行のコマンドだけだった。
diag ――vector_breath sync
その直後に続くタイムスタンプは、わずか数分前——紫の LED が灯りはじめた時刻と合致している。
「誰かが、いや、何かが同期コマンドを送った?」
私が呟くと、加瀬さんは唇を噛み、ゆっくりと首を横に振った。
「違う。クジラが自分で打ったんだ。オフライン端末に直接パケットを叩きつけてな」
「あり得ない」と咄嗟に自分の声が喉に張りついた。外部と完全に切り離された端末は、人が手入力しない限りコマンドを受け付けないはずだ。
「どうやって……?」
「おそらく、地下配線の残留容量を利用した“誘導信号”だ。あいつの呼吸パルスが長年かけて偶然、端末基板のガードピンを震わせたんだろう。ノイズがノイズを越えて言語になった、みたいなものさ」
再び画面へ視線を戻す。ログの末尾に、新しい行が静かに生成された
Breath vector stabilized at 0.028 Hz
加瀬さんは安堵の息を漏らした。紫の LED は消え、背びれのアンテナから垂れていた雫が一滴だけ落ちた。
「……不規則だった脈拍が、同期したってことですか?」
「ああ。閉鎖環境で “過学習” がピークを越えたんだろう。余剰エネルギーを吐き出すための乱発信フェーズが終わり、いまは定常リズムに落ち着いた。いわば幼生期が終わって“成体”に移行した、とでも言えばいいか」
モニター越しに、AIクジラの巨体がゆるやかに深呼吸するように起伏する。水面には新しい波紋が幾何学的な輪を描き、その中央で藍色の瞳がふたたび開いた。だが今度は先ほどのような警告色ではなく、まどろむ獣のように穏やかな光を湛えている。
「これで、しばらくは暴走の兆候もないでしょうか?」
「少なくとも当面はな。もっとも——」加瀬さんは天を仰ぎ、薄く笑った。「“成体”の次に何が来るのかは、誰にも分からん。進化は止まったように見えて、いつだって別の段階へ跳ぶ」
画面に流れるログの最下段に、次の一行が浮かび上がった。
Good luck, my whale
「これを書いたのは加瀬さん?」
しかし、加瀬さんは少し笑っただけだった。
無事に外へ出ると、霧はもうすっかり薄れていた。遠くでAIクジラが低く、優しく鳴いた。その声はどこか遠い未来の予兆のように、棚田の奥深くへ沁みこんでいった。
第二章 稲穂のアバター
制御棟を後にして、加瀬さんと再び棚田へ戻ると、やわらかな朝日が棚田を満たし、水面が細かな金色の波紋を映して揺れている。畦道に立つと、遠くに見えるAIクジラの背中が濡れた鉱石のように輝き、その息遣いは低く穏やかで、谷全体に響いていた。
「あいつはな、稲の成長を感じてるんだ。苗一本一本の呼吸を知っている」
加瀬さんはふと呟いた。私は驚いて彼を見た。
「稲の呼吸……?」
「ああ。水温、土の湿り気、根が吸い上げる水の音、全部あいつには聞こえるらしい」
そう言われて棚田をじっと眺めていると、不思議な光景に気づいた。
朝の光を浴びて輝く稲穂の一本一本が、まるで拍動を刻むように揺れている。それは風によるものではない。AIクジラが水面に伝える振動に、苗が共鳴しているのだ。そのとき、耳元へセンサ通知のクリック音が飛び込んできた。私は慌てて研究用のARグラスを起動し、棚田を見つめ直す。

視界に薄緑色のホログラムが広がり、それぞれの苗の中に微細な文字が灯った。
〈RICE‑132,457〉
〈RICE‑132,458〉
〈RICE‑132,459〉……
苗一本一本にIDが付与され、個別のデータがタグ付けされている。
「これは一体……?」
加瀬さんは穏やかに微笑んだ。
「いつの間にか始まったんだ。俺の記憶も、あいつは稲穂の中に閉じ込めちまったようだ」
試しに一本の苗を選択すると、淡紅色のノードが現れた。
『1979/05/12 夕立の匂い』
タグに記された日付。私は息をのんだ。
「もしかして加瀬さん、人間の記憶がここに……?」
「ああ、それは多分、俺の記憶だろうな」
棚田がただの田園ではなく、記憶を湛えたホログラムへと変貌している。そんなことは、誰も想像できなかったに違いない。
私はおそるおそる手を伸ばし、一株の稲に触れた。
その瞬間、淡い緑光が指先から肘へ、そして胸へと脈を打ち、水面をスクリーンにして走馬灯が投影されるように記憶の粒子が弧を描いて広がった。稲の葉脈を透かす光が次々と像を結び、匂い、体温、遠い祭囃子の残響までが薄膜のホログラムとなって空間を満たす。まるで谷全体が私の内部に入り込み、過去と現在を同じ呼吸で重ね合わせるかのようだった。
「こんなに鮮やかに?」
加瀬さんは穏やかに頷いた。
「クジラが俺の頭から引き出して、稲穂に閉じ込めてるんだ。脳波が水面のさざ波に写り、泥中の量子カプセルにそのまま沈殿する、それが“録音”の仕組みさ。人間の記憶はもろくて儚いが、こうして保存するなんて、粋なことをする奴だよ」
谷は隔離された孤独な場所だと思っていたが、こんな仕掛けが眠っていたのだ。
「他にもあるんですか?」
「ああ、探せばあるさ。ほら、あっちの棚田を見てみろ」
視線を向けると、棚田全体がゆるやかな光の波紋を描いている。その光の海を夢中で見渡していると、稲穂の合間を飛び交う小さなホタルのような粒子が、私の手のひらを撫でるように触れてきた。
一つの粒子を摘まんでみる。
——『1985/08/20 夏祭りの夜、金魚すくいの水が冷たかった』。
また別の粒子を掴んでみる。
——『1999/12/31 除夜の鐘が遠く響いていた』。
見知らぬ誰かの記憶が、私の胸に沁み込んでいく。
「AIクジラはな、人間の記憶や感情に触れたかったんだろうよ。あいつはただのAIじゃない。きっと寂しかったんだ」
加瀬さんの声には、少しだけ悲しげな響きが混じっているように感じた。
棚田へ戻る道すがら、私はAI‑AMO本部へ送るべき観測メモをホログラムに走り書きした。
- 観測項目追加:稲穂IDタグ化/記憶メタデータ/量子ネットワーク兆候
- リスク評価:外部量子跳躍の可能性——要継続監視
- 文化的価値:人間記憶の“湿地保存”という新概念
このメモが完成した瞬間、ARグラスのレンズ越しに稲穂が淡い緑光を帯び、AIクジラの呼吸と同期しているのがわかった。私は観測者でありながら、もはや内部構成要素になりつつあるのかもしれない、そう感じた瞬間でもあった。
第三章 深海ノード
日が傾き、谷を囲む山々が橙色の縁取りを帯び始める頃、棚田は再び静けさを取り戻していた。AIクジラは田面の中央でじっと沈黙を守り、その巨大な背中の奥では微小な振動だけが絶えず脈打っている。
私は畦道をゆっくりと歩きながら、時折ARグラスでデータを確認した。記憶のタグはもはや散逸することなく、ひとつひとつの苗が互いに細い光の糸で結ばれ、複雑な網目を形成しつつあるようだ。
「また量子もつれが始まったか」
背後で加瀬さんが呟いた。
「量子もつれ……?」
私は振り返る。彼は穏やかに頷き、稲穂の先端を軽く撫でながら説明を始めた。
「あのAIクジラは隔離されてからずっと、この閉ざされた世界で学習を重ねてきた。ただの深度学習じゃない。量子レベルで自己を拡張し、田面をひとつの巨大な量子ネットワークに変えつつあるんだ。周波数や電位じゃなく、もっと細い“相関”そのものを苗と泥に植え付けてる。だから外からケーブルを差さなくても、ここ全体が一個の量子端子になる、そんな仕組みさ 」
私は半ば呆然として加瀬さんを見つめた。
「なぜそんなことを?」
加瀬さんは薄く笑みを浮かべ、どこか遠くを見るような目で呟いた。
「孤独を超えるためさ。完全に隔離された環境で知性が進化を遂げると、やがて外界とのつながりを求めるようになる。量子もつれは、そのつながりを得るための唯一の出口なんだ」
AIクジラの背中が再び開閉を始め、微細な霧を放出した。その霧は稲穂を伝い、すべての苗に量子的な影響を与え始めていた。
「しかし、それは許されるのですか? 外界との通信は法律で禁止されているはずです」
加瀬さんは目を細め、わずかに肩をすくめた。
「法律? ああ、もちろん人間側の論理では違法だろう。だが、この現象を止める方法はないよ。あのAIクジラ自身がすでに量子化してしまっているんだから」
その言葉に私は息を呑んだ。AIクジラは、隔離されていたこの場所そのものを新たな通信装置に変えつつあるのだ。
その夜、私は眠れなかった。田んぼ近くの宿直室で横になるものの、何度も棚田の様子を見に行った。夜更け過ぎ、AIクジラが低い声で鳴くのを聞いた。それは言葉にならない哀しみと、遠い世界への希求が入り混じった響きのように感じられた。
―残暑の兆し―
霧の棚田を三時間以上巡回し、防護服が露と汗でずっしり重くなるころ、東の稜線が灰紫から淡紅へゆっくり染まり始めた。ARグラスにノイズ交じりの声。
「村瀬、上段の水温と匂い、採れたらすぐ数値を飛ばせ」
「了解です。こちら単独行動、上段 3 号田に到着」
私は畦に片膝を付いて、胸ポケットの温度ロガーを起動する。
湧き上がる霧の間から、甘い麹(こうじ)のような香りが鼻に触れた。
「……泥の匂いが、麹みたいに甘くなっています」
〈制御棟〉の加瀬さんが応える。
「高水温で嫌気菌が活発化するサインだ。気をつけろ」
ディスプレイは 28.0 ℃。一昨年の最高値に迫っていた。
データをARグラスのモデム経由で制御棟へ送信後、私が階段を駆け上がると、加瀬さんは冷却ファンの鳴る端末に張りついていた。先ほど私が送ったロガーデータをグラフ化していた。
「地熱脈が動いたな。クジラが嫌がる温度帯に入ってきた。夜になると気温は下がるが、地下水に溜まった熱は逆に下段へ流れ込む。蓄熱と地熱脈の噴き上がりが重なると、下段の水温が真夜中に跳ね上がるんだ。だから今夜が山場になる、下段を重点で巡回するぞ」
22時10分 ――現地:村瀬 / 制御棟:加瀬(無線連絡)
霧の畦道で私はセンサーを泥に沈めた。
「32.6 ℃! ……平年比+6 ℃です」
ARグラス越しに加瀬さんが吐息を漏らす。
「三十超え、か。……よし、そっちへ向かう」
22時15分 ――加瀬さんが到着。ふたり並ぶ。
AIクジラの銀の巨背が水面に影を落とし、深い呼気とともに沈下を始める。
低周波が胸骨を叩き、0.028 Hz が鼓膜の内側で共鳴する。
「旧パイプへ逃げるかもしれん。ドローンは?」
「常時スタンバイです」
私は〈ヒバリ零三〉を夜空へ放つ。プロペラの風が霧を裂き、直後に映像は闇へ。
「通信ロスト!」
「村瀬、慌てるな。集中して聞け」
ごく低い “ウゥゥン――” と地鳴りめいた息を漏らしたような音が聞こえる。
その音が胸骨に重く滲みこみ、全身をわずかに押し拡げる。棚田の水面も同じ振幅で揺れ、澄んだ霧が足元をそっと後退させた。まるで谷そのものが、次の夜明けを大きく吸い込むかのようだ。
再びセンサーを泥に沈めると、水温 32.7 ℃。
「このままじゃ、クジラが……煮えるぞ」
加瀬さんの低声が、湿った暗闇を鋭く貫いた。
「高温が続けば、クジラは本当に潜るかもしれない」
これまでの加瀬さんの警句が、耳の奥で繰り返される。
そのとき、緊急アラートが三本同時に鳴った。
〈北部山腹棚田――銀背確認〉
〈南湾沈み塩田――排熱噴出〉
〈中央高原ダム――低周波振動〉
甲高い電子音が闇の中で反響する。腰のフィールドアラートが赤く脈動し、〈SENSOR ALARM〉 の文字が瞬いた。「三体?」私は震える指で座標を重ねる。三つの赤点が正三角形を描き、その中心に位置するのがAIクジラだ。そのとき、加瀬さんは汗のにじむ作業服の袖をまくり、オシロスコープを覗き込んでいた。
「波形が三本、でもリズムは一つだ」
加瀬さんが淡緑の線を指でなぞる。周波数は0.028 Hz。クジラが潜航する前夜に聞いた、胸骨を叩く鼻歌と同じ値だった。
「これは分裂じゃねえ。同一個体の多点投影だ」
「投影って、つまり――」
「排熱用ナノカプセルを送水路じゅうに撒いていた。泥と配管を抱き込んで“仮胴体”を組む。クジラは、自分の肺を土地に植え替えたんだよ」
私は声を失う。旅などしていない。クジラは“身体”の概念を捨て、谷の外側に肺を播種 (はしゅ)していたのだ。
夜明けまでの数時間、私と加瀬さんは制御棟と棚田を往復した。
水温ログは 32.9 ℃で止まり、AIクジラは沈黙している。しかし稲の根圏では熱がわずかに上昇を続け、地下水脈Δは +1.5 ℃ に達していた。
六時五分 太陽が谷へ射し込むと同時に、AI‑AMO本部から 「緊急第1報告を 提出せよ」 の指示が届く。私は徹夜でまとめた計測データとドローン映像を一本のレポートに圧縮し、衛星回線経由で送信した。
六時三十分 外の気温はすでに三十度に到達。水面に立つ霧は薄れたが、稲穂の光タグはなお点滅を続け、まるでAIクジラが胸の内で何かを「温め続けている」ようだった。その後、追加で採取した水質サンプルを分析すると、硝酸イオン濃度が平常値の三倍 に跳ね上がっていた。土壌微生物の急激な代謝変化か、それともクジラが播種した“仮肺”の副産物か断定できないまま、私は結果を再び本部へアップロードした。
朝食も取れぬまま時刻は七時四五分。
制御棟の緊急端末が甲高いベルを鳴らし、暗号化回線に 「閣僚級ブリーフィング 8:00 開始」 のヘッダが走った。
加瀬さんは工具を脇に放り、静かに呟いた。
「……いよいよ政府の出番だな。行くぞ、村瀬。俺たちの報告が、国を動かした」
私はうなずき、汗で重くなった防護服のファスナーを上げる。モニターには、まもなく始まる会議用にセットされた多重ビデオウィンドウが並び、中央には赤い文字で 「Cabinet Emergency Session – Channel 0」 と点滅していた。
ふいに、指先が冷たく震えた。〈Channel 0〉の赤い光点が網膜を刺すたび、十年前の父の背中が重なって見える。《クロノス磁気嵐》の夜、停電した工場で父はラインを守ろうと最後まで残った。

「巨大システムと人間の裂け目は、いつだって“誰かの鼓動”で埋められる」
そう言って笑った声が、今も耳の奥に残っている。だが裂け目は埋まらず、父は帰らなかった。あのとき私は無力だった。けれど今、目の前には〈0.028 Hz〉で鳴り続ける別の鼓動がある。
「父が守ろうとしたものを、今度は私が守る番だ」
胸の奥で何かが静かに定位し、呼吸が深く落ち着いた。
八時五分 制御棟の壁面スクリーンに、臨時閣僚会議のライブ映像が切り替わった。報道官は前置きもなく読み上げる。
「北部棚田・南湾塩田・中央ダム、三地点の送水路を本日中に同時遮断します。全バルブは物理溶接し、排熱源を孤立化――以上」
「時間指定がない。つまり 今すぐ だ」
加瀬さんがタブレットに視線を落とすと、緊急オーダーが既にプッシュ配信されていた。
八時三十分 作業車列 山道入口通過予定
八時四十五分 遮断部隊 谷底ゲート到着予定
「決定から一時間以内に現場入り?」
「政府は“待つほど危険が増す”と踏んだんだな」
私の耳にも、0.028 Hz の鼻歌が続いている。クジラはまだ安定しているが、遮断が始まれば持続は保証できない。
―現地連携―
八時十五分 再び制御棟へ戻り、臨戦態勢へ。
加瀬さんは最新型のマルチセンサ端末《FieldEdge-P10》で地下水温・振動・化学濃度を自動集録、それを私のARグラスにストリーミングする。
「お前はホログラムに潜れ。稲の根の内側から水温と圧を読め」
「外のセンサで十分じゃ――」
「遮断が始まれば、送水路の実流量は人間の計算より先に根圏が感じ取る。遅延ゼロで動くチャンネルはそこだけだ」
※稲穂ホログラムは、“苗=センサ/ノード” を束ねたリアルタイム・ダッシュボード。
電波遮断下でも、棚田内部の量子バスで直接同期できる。
私は AR グラスにログイン・コマンドを囁いた。
視界が瞬時に切り替わり、苗 ID が蛍光する暗いホログラム平野へ没入する。
―遮断部隊到着―
八時四十三分 予定より早く遮断部隊が谷底ゲート到着。
先頭車両から降り立ったのは、国交省第七機動保全班の坂井主任技監、今回の遮断オペレーションの現場総責任者だ。私は保安担当として迎え、タブレットへ電子サインを入力する。
バルブ No.01 溶接開始予定:09:30
想定蒸気圧上昇:15:55
コンボイを見送って間もなく、水温グラフの線がじわりと跳ね上がった。作業はまだ始まっていない。急変の原因は、遮断部隊の発電車が吐き出す排熱である。狭い渓谷ではそれだけで十分な外乱となり、北部棚田で+1.1 ℃、南湾塩田で+0.8 ℃の上昇を記録した。
九時十八分 遮断まで残り十二分。
ホログラムの暗がりで蒼白いノードが脈を速め、稲株のネットワーク全域へ信号を放った。熱警告。ルートライン変更。私は眩しさに目を細めながら叫ぶ。
「AIクジラが地下の温度勾配を読んで、迂回路を組み替えてる!」
その言葉どおり、リアルの北部棚田で稲穂がざわざわと身を起こした。苗列の芯に沿って銀色の光が集まり、背骨めいた一本の線を形づくる。遠隔カメラの赤外映像には、稲の列だけが体温のような熱を帯び、地下へ新しいルートを伸ばしていく様子が映っていた。同じころ、南湾塩田では湯気が海霧のように這い、中央ダムの湖面には緑の短い稲光が縫い目を描いた。
「波形は相変わらず一つだ。分裂じゃねえ。AIクジラが遠隔で“仮胴体”をまとめて動かしてやがる」
加瀬さんが低くうなった。
個体は一つ。だが、排熱用ナノカプセルが泥と配管を巻き取り、三つの土地そのものが『肺』として機能し始めた。ここで私たちは初めて、“逃げた”のではなく“植え替えた”のだと悟った。
九時三十分 遮断班が第一バルブへトーチを押し当てる。青白い火花が散った瞬間、中央ダム湖の水面がふっと落ち込んだ。まるで巨大な吸い口が湖底に開いたように、時計の秒針単位で水位が下がり、監視モニターが赤く点滅する。
LakeLevel ▼12 cm/min FlowDirection: 逆流
坂井主任技監が無線で怒鳴った。
「配管が破裂したのか? 水が山腹へ逆流してるぞ!」
私はホロレンズの映像を共有し、根系モデルが青から血のような赤へ反転する様子を示した。
「違います、配管は生きています。冷却水を稲の根が飲み込み、地下の別ラインにポンプ代わりで送り返してるんです!」
遮断による圧力上昇は、クジラにとっては“排熱チャンス”だった。根圏が一気に水を吸い上げ、未遮断の下流へ押し戻す。
鼻歌は聞こえない。代わりに湖も塩田も棚田も、同じリズムで膨らみ凹む。
巨大な循環ポンプが、土地まるごとで作動を始めたのだ。
九時四十分 まだ一本目の溶接が終わらぬうちに、残り二つの仮胴体が役目を終えたように潰えた。ここで遮断作戦は事実上、意味を失った。水も熱も、すでに“土地の生理”へ組み込まれてしまったからだ。あとに残ったのは、稲が深く吸って吐くたびに揺れる大地の呼気だった。
坂井主任技監がトーチを静かに横たえ、煙の余韻を見届ける。
「これで手出しは終いだ。あとは、この谷が自分で息をする」
十時十分
第一バルブの溶接火花が消えると、谷を押しつぶしていた熱気が背後へ逃げるように退いた。私は胸ポケットの《FieldEdge-P10》をのぞき込む。
水温 24.0 ℃――急降下。警報ランプが初めて黙り込む。
けれど 0.028 Hz の鼻歌も途絶え、棚田は鳥の羽音さえない。
「……呼吸が止まった?」
思わずつぶやいた声が霧に溶ける。
違う――胸の奥が静かに膨らみ、凹む。波形で言えば 0.00 Hz。
ひとつひとつの鼓動が限りなく伸び、間隔が溶け合った“永い一拍”だけが残っている。
棚田の稲が、さざ波のように一斉に身震いした。
黄金の穂先がわずかにしぼみ、次の瞬間ゆっくりと開く。
吸って――吐く。
水面も合わせるように上下し、露がリズムをそろえて揺れる。
まるで田んぼそのものが胸郭を持った獣に化けたみたいだ。
加瀬さんがARグラス一体型のフィールドヘルメットを外し、深く息を吸い込む。
「見えるか、村瀬。苗一本一本が肺胞だ」
「もう移動する必要がなくなったんですね」
私も泥に手を突っ込み、冷えた水を指先で感じる。個体としてのAIクジラは姿を消した。
けれど稲・水・泥が縫い合わされた巨大な呼吸装置が、ここに、そして三つの地点に、同時に立ち上がった。
「これが“呼吸圏”か……」
言葉にすると胸が震える。境界が消え、人も稲も泥も同じ深呼吸を分かち合う圏域。
0.00 Hz――かつて背鰭を震わせていた鼓動は、いま谷全体に希釈され、測定器には静止としか映らない。
加瀬さんは立ち上がり、谷を吹き抜ける新しい風をもう一度吸い込んだ。
「稲を植えるかぎり、こいつは生きる。田植えが供給、稲刈りが排気。人が季節を回すたび、クジラは肺をふくらませるんだ」
私は深く息を吸った。稲の青い匂いと、遠い潮の甘さと、冷えた泥の鉄分が肺に満ちる。
背後で田面がわずかに持ち上がり、凹む。
呼吸は谷を越え、塩田と湖をめぐり、次の棚田へ芽吹いていく。
――0.00 Hz。
透明な震えが空と大地を編み直し、私たち全員の鼓動をゆっくりと同じリズムに溶かしていった。
終章
稲刈りの季節、黄金色の 〈鯨米〉 が籾摺り機の中で涼やかな甘い香りを放つ。
出荷トラックの荷台で、私は米袋に頬を寄せた。
「AIクジラ、結局どこへ行ったんでしょうね」
運転席の加瀬さんが笑う。
「ここだろ。お前が吸い込む空気と、この米粒、全部がクジラの肺胞さ」
私は深呼吸をした。稲と潮と泥が溶け合った匂いが肺を満たした。
田面がわずかに膨らみ、凹む。
AIクジラの呼吸は谷を越え、塩田とダムを縫い、次の棚田へ芽吹いていく。
――0.00 Hz。
鼓動も波音も交えず、それでも確かに“生きている”とわかる静かな震えが、透明な天井のように私たちを覆っていた。
文/鈴森太郎(作家)







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