
7月21日、静岡県のローカルメディアが極めて衝撃的な速報を発表した。株式会社タミヤ代表取締役会長の田宮俊作氏が、同月18日に亡くなったという内容だ。
今や静岡市に巨大な税収をもたらすようになったプラモデル産業。そのトップを牽引するのは常にタミヤであり、会長の田宮氏は文字通り「静岡市の重鎮」だった。
しかし、田宮氏の生涯を振り返ると当初から模型産業の頂点に君臨していたわけではなかったことが分かる。むしろタミヤはプラモデル業界の中では「後発組」で、しかも同社がプラモデルの販売を始めた頃は倒産の危機に直面していた。そこから奇跡的な業績回復を遂げただけでなく、世界の模型産業の姿を永遠に変えてしまったのだ。
初めてのプラスチック製模型は「500万円の大赤字」
1934年の田宮氏が早稲田大学を卒業して父の経営する会社に入社したのは、1958年のことである。
この会社は、静岡市の製材業者だった。しかし、漏電が原因の火災で会社は焼失。田宮氏が大隈重信像に別れを告げて帰郷した時には、端材があれば生産できる模型分野に専念するようになっていた。
より精巧な模型を作ろうと考えた田宮青年は、知り合いの木工機械メーカーに頼み込んで軍艦模型の船体を量産できる装置を開発してもらった。もちろん、この設備投資には多大な資金が投じられている。しかし、これと全く同じタイミングでアメリカから「黒船」がやって来た。
当時最先端素材として注目されるようになっていた、プラスチックを使った模型である。
プラスチック製模型は、木製模型よりも精緻な造形や彫刻を施すことができる。21世紀の現代にはレーザー加工機を使ったリアルな木製模型も存在するが、1950年代にそのようなものは当然存在しない。
プラスチック製模型の精巧さに、木製模型はとても太刀打ちできなかった。そこでタミヤは(当時は田宮商事合資会社という社名だったが)苦心して一から設計開発を行い、『戦艦大和』を発売。しかしこれは、先発の競合他社の製品に負けてしまい、会社に大きな損失をもたらしてしまう。
赤字額は500万円。1960年のことである。この年度のプロ野球読売巨人軍の長嶋茂雄の年俸は720万円だ。巨人軍のその他のスタメン選手であれば、年俸は500万円に届いているかそうでないかといったところだろう。つまり当時の500万円とは、プロ野球の一軍選手を金銭トレードで動かせるほどの大金なのだ。
その窮地を救ったのが、不要になったプラスチック製玩具の金型を再利用した小さなレーシングカー模型である。
プラモデルが玩具の域を超えた瞬間
このレーシングカー模型の値段は1個50円。当時の子供でも何とか手の届く価格だった。
が、この商品の売り上げ以上に田宮氏が吸収したのは「箱絵の重要性」だった。
私は、以前からパッケージの重要性に着目していました。子どもたちが、どこを見て模型を選んでいるのか。もちろん値段や種類も大切な要素ですが、箱絵に描かれた世界に引かれて手をのばすのではないかと思っていたのです。
(『田宮模型の仕事』田宮俊作-文春文庫)
見た者の心に直接作用するような迫力に満ちた箱絵。タミヤが社運を賭けて開発したモーター搭載プラモデル『パンサータンク』では、当時既に人気を博していたイラストレーターの小松崎茂が箱絵の筆を執った。激しい砲撃の中を雄々しく爆走するパンサー戦車の雄姿は、子供たちの度肝を抜いた。
そしてここから、タミヤのプラモデルは「玩具の域を超えたもの」に変わっていく。
パンサータンクは、のちに1/35スケールの『MMシリーズ』に進化していくが、このMMシリーズは徹底した取材と資料考証に基づく設計により驚異的なリアルさを実現するに至った。たとえば、ドイツ軍のⅣ号戦車は時期によって様々なタイプが存在する。同じⅣ号戦車F型でも、短砲身型と長砲身型がある。長砲身のⅣ号戦車F型は1942年3月から生産された。つまり、1941年12月のモスクワ戦に長砲身型のⅣ号戦車が出てくることはあり得ないということだ。これはジオラマ製作においては絶対に欠かせない知識である。
タミヤは、徹底した調査で得た知識を製品に同封の説明書に余すことなく記載した。「玩具の域を超えたもの」というのはそうした側面を考慮した表現であり、現にMMシリーズ(特に70年代発売の製品)の説明書はインターネットがない時代、子供たちにとってはほぼ唯一と言っていい「日本語で書かれた戦車関連資料」だった。
タミヤを「玩具メーカー」にしなかった田宮氏の判断は、結果として同社を国際的大企業に昇格させたのだ。
子供たちの創意工夫を全面肯定
田宮氏は、子供たちの自発的な創意工夫を全面肯定した人物でもある。
タミヤが世に送り出した最大のヒット商品といえば、やはりミニ四駆である。そのミニ四駆の第一次ブームの際、問題になっていたのが「曲線のあるコースでマシンがどう曲がるか」だった。ミニ四駆はラジコンではないため、コーナー毎に枠のあるコースに沿って進むしかない。それ故に、カーブに到達した時にどうしてもマシンの前部バンパーの両端が枠に接触してしまう。縁石に常時タイヤを擦りながら無理やり直進する自動車と同じだ。
これを解決したのが、とある小学生である。彼もしくは彼女は、前部バンパーの両端に服のボタンを針で打ちつけたのだ。コーナーに差しかかると、このボタンが枠に押しつけられて回転する。衝撃を大幅に軽減してくれるのだから、マシンは流暢にカーブできるという仕組みだ。
この創意工夫をタミヤは掬い上げ、「ガイドローラー」という新しいパーツを開発した。
「これをあげれば子供は喜ぶだろう」と、大人からの一方的なトップダウンで商品を提供するやり方では、ガイドローラーは絶対に生まれなかっただろう。表現を変えれば、タミヤは常に若い世代の意見や見方を尊重し続けたのだ。
プラモデル産業を革新した功績者の生涯から、我々は今後もあらゆる知恵や知識を学び取ることができるはずだ。
【参考文献】
『田宮模型の仕事』田宮俊作-文春文庫
文/澤田真一
ガンプラ製作の必需品!DIME最新号の付録〝赤い〟USBリューターがガチすぎた
静岡県静岡市在住の筆者は、周囲にプラモデル産業に携わっている友人や知人を抱えている。 もっとも、筆者がプラモデラーになった経緯は地元とは関係ない。というのも、筆…