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「重い雨の都市」で人はどのように生きるのか?【アンブレラ・スキン】

2025.07.20

『アンブレラ・スキン ―雨を着る都市のイメージ―』
0 都市(まち)の取扱説明書──水平が失われた経緯
〈黒重雨指数 0.67|相対水平度 22°|湿度偏差 +3%〉

※都市の環境 UI は3つ。
・黒重雨指数=雨粒の重さを 0.00–1.00 で示す密度スコア
・相対水平度=今あなたが立つ面から見た平均傾斜角
・湿度偏差=基準湿度 78 %RH からの ±差分%

 最初に覚えてほしい――この都市〈オブリーク〉は斜めに浮いている。私は海抜マイナス十二メートル、傾斜三十七度の窓辺で、この一行を書き始めている。

 およそ二十年前、三つの出来事が一度に起こった。

1. 連続台風による記録的豪雨。
2. 地殻プレートの歪みによる大規模な地盤沈下。
3. 沈降域を包むように出現した、正体不明の高電荷雲――後に「テクタイト雲」と名づけられた。

 高台と旧市街をつなぐ地下杭が一斉に折れ曲がり、市街地の大半が22°から最大48°まで傾いたまま固着した。

 それだけでも十分に厄災だが、テクタイト雲が降らせた“黒重雨(くろおもりあめ)”は通常の雨水より四割重く、地表に留まる性質をもっていた。

 折れた配水管はすぐに飽和し、斜面の窪地は常設の潟(ラグーン)へ。海と川と雨が混ざった複合水域が、市街をじわじわと侵食していった。

 沈降が止まったとき、人々は自分たちの街が「底なしの斜面」と「浮いた高台」という二層構造に変わったことを知った。低層域の建物は自重でさらに傾き、窓ガラスは空を映す鏡になった。水平という概念は完全に失われ、代わりに“相対水平”が定義された。

 「あなたが立っている場所が床で、そこから見上げた方向が“天”」――オブリークの防災ハンドブックはそう教える。

 だが人間は案外、斜めでも暮らせる。

 雨水を動脈のように街へ循環させる雨動力ゴンドラ《チューブ・ライン》、高台と塔の中層階を網のようにつなぐ片持ち歩道橋《スリムブリッジ》、そして何より、傘を第二の皮膚へ進化させた《アンブレラ・スキン》。

 歩くこと自体は、路面に埋め込まれたグリッド舗装と傾斜対応シューズで最低限こなせる。だがアンブレラ・スキンが足裏摩擦と荷重を瞬時に再配分してくれるおかげで、住民はほとんど平地と変わらぬ感覚で斜面を移動できる。重い雨を受け止め、身体熱で乾かし、再び空気へ戻すこの薄膜は、斜め都市を「生きられる場所」に変える最後の要件だった。

1 潮汐の斜面――辺境としての中心
〈黒重雨指数 0.52|相対水平度 29°|湿度偏差 -1%〉

 オブリークでは、午前二時二十三分を境に重力が「ゆるむ」と言われている。もちろん物理常数が変わるわけではない。黒重雨がもっとも薄まる時間帯に、ラグーンの水面がわずかに呼吸をはじめ、街全体の傾斜圧が一・八パーセント減衰する感覚があるのだ。住民はそれを「谷間の呼気」と呼び、古いフィッシャーマンベルを鳴らして合図し合う。かつて港だった名残の鐘は、今や内陸に取り残され、棚田のごとく重心が段々に置き換わる都市の情緒を測るメトロノームとなった。鐘の余韻は霧の中で曲がり、屈折した音程が「ここに中心などはない」という事実をやさしく告げる。

2 水脈と浮橋――毛細血管都市
〈黒重雨指数 0.61|相対水平度 31°|湿度偏差 +2%〉

 黒重雨がひとたび溜まれば、通常の排水ポンプでは逆流を招く。そこで都市計画局は逆重力内燃ストロークを応用した《リフローティング・ジャンクション》を地下五十七メートルに巡らせた。ジャンクションは雨の自重を逆手に取ってピストンを押し上げ、押し返しで雨を高台へ送る。パルスは一五秒周期。電力ゼロ、整備員ゼロ。代わりに巡視するのは藻類変性師たちだ。彼らは水脈の温度差で生じるスケールを“食む”菌糸を飼い、配管壁を温室のように再生させる。

 藻類変性師が着用するアンブレラ・スキンは、通常より厚手仕様だ。スキンの裏面に光合成細胞が散布され、地下の薄明環境でもわずかな生物発電を行う。藻類がセルロースを分泌し、スキンの微小裂け目を自己修復する――そう信じられてきたが、近年の研究で修復の大半は着用者の代謝熱が担っていることが判明した。スキンは“人間の発熱”を養分として成長する。藻類はむしろ副産物であり、微細な膜を緑色に染める装飾の役割を果たすに過ぎない。

 この仕様が発端となり、ファブリック・コンペティションが毎年開催されるようになった。参加者はスキンに施した生態系――菌類、微小動物、鉱物結晶――の“美食度”を競う。優勝作品はラグーン中央の《スキン・オーブ》に展示され、重雨を昇華させながら虹彩のように発光する。その光が浮橋の底に反射し、夜の水脈を星座へ変える。

 こうして雨は血液のように上下に脈打つ。都市は肺であり腎臓であり、同時にまだ定義されていない臓器の試作品でもある。

3 重雨経済――雲を掘る者たち
〈黒重雨指数 0.80|相対水平度 35°|湿度偏差 +5%〉

 テクタイト雲は都市上空六百メートルに定位する。「掘る」とは比喩ではない。専業のクラウド・デリバーサーは、アンカー付き気球で雲底に刺さり、黒重雨の密度勾配を測って価格を付ける。彼らは雲の比重差を「グラム建て」の通貨として扱い、ラグーン沿いの市場で先物取引を行う。相場の乱高下は風向と連動するため、気象庁は株価ボードと気圧配置図を同一スクリーンに重ねるようになった。雨は水資源であり、エネルギーであり、ベーシックインカムの配当原資でもある。住民は自宅の屋根に設置したドロップ・メーターで降雨量を測り、日々の“降水手当”を得る。傾斜は不平等を生まず、むしろ区画ごとの傾き角で所得プロファイルが可視化される。水平を失った都市は、不確実性を課税と分配のレイヤーに変換した。

 デリバーサーの証言によれば、「雨が空中で眠っている」とき、スキンは自律的に脈打ち、着用者の筋肉をマッサージする。重力の負荷は関節を痛めるが、スキンが打つ柔らかなパルスが血流を促し、身体を雲と同じ粘度へチューニングするのだという。彼らはその作用をアンブレラ・リリックと呼ぶ。帰還後、スキンは雲の静電気を帯びて発光し、先物取引所では光のスペクトルを読み取って“雨質等級”を査定する。こうしてスキンは貨幣の表紙になり、雲の価値を背負ったまま市場を歩く。

 近年、高価なデリバーサーモデルを分解し、発光層のみを取り出してアクセサリに仕立てる“リミックス職人”が台頭している。法的にはグレーだが、黒重雨のスペクトルを纏う耳飾りは富裕層のステータスとなりつつある。アンブレラ・スキンは衣服、通貨、装身具――都市経済の全レイヤーを貫通する媒体へ成長した。

4 軸索通信塔――光の神経束
〈黒重雨指数 0.45|相対水平度 27°|湿度偏差 -2%〉

 可搬式の通信端末は斜面では役に立たない。機械の水平器が狂い、アンテナが常にノイズを集めるからだ。都市は塔に神経を集中させた。《オプティカル・アクソン》と呼ばれる光ファイバ束が高台の稜線から垂直に伸び、斜面の随所へ分岐する。塔は傾斜角を常時計測し、制御基盤がわずかに共振して逆傾斜波を送り出す。これにより通信網は「自らの傾きを学習し、補正する」自己完結型ニューロンとなった。住民は塔の根元に耳を当て、データが流れる音――金属質の鼓動――を聴き取り、更新情報の多寡を肌で感じる。情報は水平を介さず、斜度を通じて伝播する。

 この仕組みを最初に発案したのは、十歳の少女だった。彼女は重雨の夜に雨避けとして身体を包んでいる半透明のアンブレラ・スキンを“レンズ代わり”に星を眺めており、表面が曇るたび星が瞬く角度が変わることに気づいた。翌朝、通信工学の研究者だった母に「スキンの曇りを星の翻訳機にできる」と語り、実験がはじまった。小さな気づきは都市の神経網を強化し、今では《オプティカル・アクソン》の基盤プログラムに刻まれている。

 住民は塔下の広場でスキンを翻し、帰宅後に通信速度の上昇グラフを確認する。ちいさなヒューマンアクションが都市のパケットを加速させる仕組みは、オブリークを「人と機械の混成脳」たらしめている。

5 多層生活圏――垂直住居と斜面耕作
〈黒重雨指数 0.70|相対水平度 30°|湿度偏差 ±0%〉

 我々はどこで寝るか。答えは多様だが、共通するのは「横たわる方向が重力に従う」とは限らないことだ。低層の古ビルは内部に回転式床板を後付けし、睡眠モードに入ると室内がゆっくり傾きを修正する。高台では逆に勾配を誇張し、ベッドの脚を片側一メートル伸ばして敢えて“片寄せの安堵”を楽しむ富裕層がいる。その他にも、アンブレラ・スキンを寝具化したサーマルハンモック派がいる。ハンモックはスキンの両端を梁に固定し、身体を包むように閉じる。重雨の夜、スキンは外気温との差を解析し、持ち主が眠りに落ちた瞬間に薄膜をシェード状に硬化させて揺れを止める。この“停止の静寂”が最大の贅沢だとされる。

 耕作地では逆に“動くスキン”が熱帯魚の鰭のように揺れる。農夫は作物ごとに透過率プリセットを施したスキンストリップを掛け、太陽とラグーン光の合成比を動的に制御する。とはいえ斜面の陽当たりは短く、農地は網状に折り畳んだテラフォーミングシートで季節ごとに再配列される。作物は重雨を好む多肉系と、過乾燥に強い蓄水胞子系が交互に植えられ、段畑のように見えるその景観は時間とともに模様を反転させる。都市が巨大なプリズムとなり、季節を透過して色を変える。

6 第二身体論――アンブレラ・スキンと“温湿度人格”
〈黒重雨指数 0.50|相対水平度 28°|湿度偏差 +1%〉

 アンブレラ・スキンの普及は人体と気候の境を曖昧にした。膜は着用者の体温、汗、呼気を学習し、個別の温湿度プロファイルを生成する。ある研究では、同一人物でも覚醒時と夢見時ではプロファイルが乖離し、スキンが“別人格”として振る舞う兆候が観測された。住民はスキンに名前を付け、朝の伸びをするとき「おはよう、もう少し湿度を落として」と交渉する。こうして「身体」は二つのレイヤーに割れた。ひとつは骨肉血管、もうひとつは気化熱とアルゴリズムで組まれた湿度の影だ。斜面では影が長く伸びる。湿度の影もまた、傾きの分だけ人格を引き延ばす。

 スキンに名前を付ける文化は、やがて「湿度名(ヒュミドニム)」という概念を生んだ。ヒュミドニムは、着用者の呼気に含まれる揮発性有機化合物の組成から算出され、数万桁のハッシュ値を詩行に変換する。都市詩人協会は毎年、もっとも美しい湿度名に賞を贈り、受賞者のスキンは記念セレモニーでラグーン上に投影される。

 研究者の間では、スキンが生成する湿度名が一定周期で“成長”する現象が報告されている。アルゴリズムは不変だが、入力となる呼気成分が季節と心理状態で変動し、詩行が自己増殖を始めるのだ。ときに比喩が比喩を呼び、四行詩が一夜で長編叙事詩に化ける。この現象はメタファー・ブルームと呼ばれ、文学と生化学の交点を揺さぶるホットトピックになっている。

7 学舎なき教育――転倒式教室
〈黒重雨指数 0.58|相対水平度 33°|湿度偏差 -3%〉

※上記は語り手が測定した“その瞬間の代表値”で、地点・時刻により絶えず変動する。

 学校は存在するが、校舎はない。《ローテーション・カリキュラム》と呼ばれる教育制度は、斜面を「開講時限ごとの黒板」とみなす。生徒はアンブレラ・スキンに装着させるHUDに映る方位ガイドを頼りに、決められた角度の地点へ移動し、そこで短波ビーコンが発する課題をダウンロードする。地理と数学は実地で融合し、文学の朗読はラグーンの対岸に跳ね返る残響を含めて評価される。期末試験では《傾斜記憶ラリー》が行われる。課題は「スキンを介してテンプレートを一切使わず、斜面上で自分の湿度名を再現せよ」。生徒は刻々変わる黒重雨の濃淡と自分の発汗量を同期させ、地面へ寝転んで走り書きを試みる。評価軸は字義の正確さではなく、湿度と傾斜が生むリズムを操れたかにかかっている。教師は結果を読み取り、予測不能な重力と気象を内面化する術を子どもたちに伝える。

8 十字勾配市場――斜面マルシェ
〈黒重雨指数 0.64|相対水平度 34°|湿度偏差 +4%〉

 アンブレラ・スキンは、本来“光の通しやすさ(透過率)”と“表面の滑りやすさ(摩擦係数)”が連動するよう設計されている。

• 透過率 0 %(完全遮光) … 摩擦係数は最大。作物を載せてもほとんど滑らない。
• 透過率 50 %(半透明) … 摩擦係数は中程度。展示用トレイや通路に用いられる。
• 透過率 100 %(完全透明) … 摩擦係数は最小。水滴や小物がスルリと流れ落ちる。

市当局はこの相関を「T-μ(ティー・ミュー)規格」として厳格に管理し、屋台や歩道で使われるスキンの透過率を 40–60 % に制限している。これなら光を取り込みつつ、商品や人が簡単には滑らない “安全域” が保てるわけだ。

 週末、ラグーン沿いに開く市場は「十字勾配」を基本ユニットとする。東西ラインには重雨加工品、南北ラインには乾地発酵食が並ぶ。クロスポイントで常に階層がずれるため、位置次第で斜めに見下ろしたり、逆に見上げたりしながら取引を交わす。売り手は口で値段を言わず、手にした発光スティックを「値札」代わりに掲げる。光の棒を水平から 10° 傾ければ 1割引、20° 傾ければ 2割引……と角度がそのまま割引率になる仕組みだ。買い手は角度を読み取りながら交渉するが、つい値切りに夢中になり滑落するリスクを負うこともある。こうして市場には笑いと悲鳴が交錯し、取引は演劇じみた展開になるのだ。

 市場で人気の屋台は《カエルの舌》と呼ばれるスナック店だ。店主はアンブレラ・スキンを卓上に敷き、雨滴を閉じ込める。そこへ熱したラグーン塩を一滴垂らすと、スキンが瞬時に硬化して小さな水球が跳ね上がる。客は飛び散る水球を口で受け止め、黒重雨が含むミネラルを丸ごと味わう。味覚は舌でなく膜を通じて感じる――これがオブリーク流の“グルメ体験”だ。

 近年、屋台の争いはシビアだ。スキンの透過率を不正に改造し、滑落リスクを故意に高めて“値切りアクロバット”を煽る闇商人が摘発された。市当局は違法スキンのUV蛍光を可視化するドローンを導入し、真夜中の市場をネオンブルーに染め上げた。違法と分かっていても光の洪水を観に集まる若者は後を絶たず、斜面マルシェは今や“自浄と攪乱”が共存する社会実験のアリーナと化している。

9 祝祭としての反射――黒重雨の歳時記
〈黒重雨指数 0.12|相対水平度 22°|湿度偏差 -5%〉

 重雨季の最終日に行われる《リフレクト・フェス》では、住民全員がアンブレラ・スキンを鏡面モードにし、街全体で雲を“跳ね返す”。テクタイト雲は眩しさに応じて上昇し、降水量がゼロになる瞬間が「夏のはじまり」に相当する。フェスのクライマックスでは、ラグーンに浮かべた無数の光球が垂直に射す陽光を受け、斜面に虹を描く。虹は水平ではなく螺旋をえがき、都市の輪郭をなぞるように回転する。その螺旋を住民は「時間の断面」と呼び、自らの生活がひと続きのプロトタイプであることを再確認する。

10 外来者の手引き――潜在的地誌学
〈黒重雨指数 0.72|相対水平度 32°|湿度偏差 +2%〉

 観光客用ガイドは最新版で二千ページを超える。その三割が「アンブレラ・スキンの扱い方」に割かれ、失敗談が数百例載る。たとえば――

 Case 17:スキン初心者がラグーンへ足を踏み外し、膜が自動膨張して浮き輪となるが、比重誤差で回転しつづけ一時間停止できず。

 Case 42:恋人へのプロポーズに自作のヒュミドニムを刻印しようとした青年、湿度過多で詩行が膨大化し、ゲシュタルト崩壊の末に二人とも笑い死に寸前。

 教訓はひとつ――傾斜だけでなく、アンブレラ・スキンもまた“人外の論理”を持つ。 観光客はまず膜に敬意を払い、その振る舞いを学ぶのが生還への第一歩だ。

11 自己修復都市――ミネラルファブリケーション
〈黒重雨指数 0.68|相対水平度 38°|湿度偏差 +3%〉

 街の基礎杭は、折れたまま放置されたのではない。杭の外殻に付着させたヘマタイト細菌が鉄を酸化・還元し、折損部を斜面方向に沿って再結晶させている。時間はかかる。だが「傾きを治す」のではなく「傾きを抱えたまま骨を太らせる」プロセスは、都市を生物学的スケールで進化させる。杭は硬化しつづけ、数千年後には都市全体が単一鉱物の巨樹になるという予測モデルさえある。オブリークは生きている。傾斜もまた、その成長痛だ。逆に言えば、スキンがなければ杭は痩せ、都市は軋む。建築技師たちは重雨の耐性よりスキンの布告状況を注視し、布告率が七割を下回ると即座に「杭護祭」を開催する。住民は杭の根元へスキンを垂らし、溶けた鉄を供える。この祭りは土木行為であり、祈祷であり、生体都市のメンテナンスである。

12 境界線、あるいは海――潜航光景
〈黒重雨指数 0.77|相対水平度 40°|湿度偏差 +4%〉

 ラグーンは潮汐で深浅を変え、潜航ドローンが撮影した映像では、ビルのガラス面が水中で星を映し、魚群が窓の裏側を泳いでいる。都市の底はかつての天井であり、空はかつての床の反射像だ。境界線は二重写しになる。住民はそれを「裏側の夜景」と呼び、潮が満ちるたびに水面にタブレットを翳し、反射に重なる虚像の写真を撮る。真実の都市はどちらか――答えは常に、“両方とも現在進行形”である。

潜航ドローンの最新モデル《ミストリーディングⅢ》には小型のアンブレラ・スキンが搭載される。水中で膜がわずかに膨らみ、重雨と海水の塩分境界を検知すると虹彩色に発光する。映像に写る斜面ビルの鏡面は、この発光を反射して“逆さの星座”を作る。その輝きは地上からも確認でき、住民は夜毎に星座の配置をメモし、ラグーンの深さと塩分変化を推測する。ある夜、観測者が“逆さの星座”にない暗い領域を発見した。潜航ドローンが接近すると、巨大な“スキンの塊”――かつて廃棄された旧型膜が結合し、クラゲじみた球体を形成していた。球体は自律的に黒重雨を消化し、自己発光を繰り返している。都市の影で、スキンは野生化しつつあるのかもしれない。研究チームは球体をパラソル・ノマドと命名し、監視と共生策を検討している。

13 フィールドノート――応募書簡
〈黒重雨指数 0.60|相対水平度 42°|湿度偏差 +2%〉

 ここまでの記述は、市当局が募集した《斜面生活記録プロジェクト》への私的応募書簡である。私、鈴森太郎は都市の端、四十二度の勾配に住む観測者であり、同時にこの街の一次資料だ。もしあなたがこの書簡を手に取ったなら、傾斜を測る水平器を捨て、足裏の重さで読み進めてほしい。ページが滑り落ちるなら、それがこの都市の固有のリズムであり、あなたの心拍と同期しはじめた証拠となる。

14 プロトタイピング・メソッド――未来の抜き型
〈黒重雨指数 0.55|相対水平度 45°|湿度偏差 +1%〉

 オブリークは完成形ではない。むしろ「恒常的ベータ版」と自称する。住民は日常の行為をプロトタイピングと呼び、失敗はログとして共有される。ラグーンに落ちた買い物袋、傾斜に沿って滑走しすぎた配達ドローン――それらの事故はすべて“次の都市”を切り出す抜き型になる。ここではアイデアの正しさより角度の美しさが問われる。なぜなら傾斜は、水平より多くの未来を収容できるからだ。

 アンブレラ・スキン開発チームは最新ベータ版《V.Δ》で自己転写機能を試験している。複雑に折り畳んだスキン同士を接触させると、膜の折線パターンが相手に移植され、まったく新しい機能マップを生成する。折線は遺伝子、展開は発現――都市の路地裏では、この“膜の交配”をナイトマーケットでショー化する若者が現れた。彼らは見知らぬスキンを即興で掛け合わせ、生まれた新膜の湿度名を即興詩にしてオークションする。

 行政当局は危険視するが、私はむしろ「都市が自らの皮膚を試作している」と評価する。失敗はログになり、ログは詩になり、詩は都市の次の角度を切り拓く。プロトタイプは終わらない。都市の未来はスキンの褶曲と同義であり、その褶曲が人間の想像力の限界を押し広げる。

15 結び――傾斜が示すもの
〈黒重雨指数 0.59|相対水平度 37°|湿度偏差 ±0%〉

 雨が降り止まぬ夜、アンブレラ・スキンは都市の全住民を包み込み、同じリズムで脈打つ。人と膜は互いの水分を測り、傾斜を測り、呼吸を重ねる。黒重雨はもはや外部の脅威ではない。スキンが媒介することで、雨は内臓寄りの親しみへ変わった。

 「私たちは雨を着る。雨もまた私たちを着る。」

 そんな倒置が、斜め都市〈オブリーク〉の日常を定義する。傾きは直ることなく、むしろ深化していく。杭は伸び、ラグーンは深まり、アンブレラ・スキンは湿度と詩を孕み、やがて自走しはじめるかもしれない。

 未来は常に斜面だ。そして斜面を歩く身体には、必ず薄い膜が寄り添う。「アンブレラ・スキン」、それは都市そのものが纏う、数億枚の未来の試作品である。ここに立つあなたの呼気が、その試作品を今日もアップデートしている。

そして物語はここから始まるのだ。

著者名/鈴森太郎(作家)

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