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ミスター、ありがとう!長嶋茂雄が我々に遺した「野球」と「ファッション」の哲学

2025.06.07

長嶋茂雄。この人物の名は日本の野球史に永久に刻まれ、また日本人の記憶から彼の功績が忘却されることは決してないだろう。

そんな長嶋は、終生までの「ファッションリーダー」でもあった。マスコミの前に出る時の長嶋の姿は、ユニフォームかスーツ、ハイカジュアル、或いは襟付きのジャージという場合が殆どだったはずだ。Tシャツ姿の長嶋の写真や映像は、ないわけではないが数としてはかなり少ないだろう。

それは長嶋が脳梗塞を発症した後も変わらなかった。いや、むしろ脳梗塞発症後の長嶋は今までにも増して洒落たスーツを着るようになっていった。あるライターは「長嶋には専属のスタイリストがいるのでは?」と言っていたが、その見解には筆者も賛成である。

なぜ、長嶋はそこまで「お洒落」だったのか?

これには「長嶋以前のプロ野球のイメージ」が大きく関わっていることは間違いないだろう。

2020年8月東京ドームにて撮影

かつてのプロ野球は「カネまみれの汚い業界」というイメージだった

長嶋茂雄は、日本において「プロスポーツの市民権」を確立させた張本人である。

1950年代までの日本において、スポーツの最高峰は常にアマチュアアスリートが君臨していた。というよりも、「一流のアスリートは普段働いている」のが当たり前であり、何の生産性もないスポーツそのものを職業にしている者は大卒のインテリから蔑まれていたのだ。

したがって、かつてのプロ野球とは「ブルーカラー(労働者層)だけの娯楽」であり、大卒者が夢見るものでは決してなかった。

戦時中の六大学出身の選手が「赤紙が来るまでの間、思い残すことないように野球をやりたい」という意味でプロ球団に入ったことはあった。しかし、戦争が終わってから5年もすると国内情勢は安定し、大卒者向けの雇用も回復した。「大学卒業」という学歴自体が超絶レアだった時代、わざわざ単年度契約のプロ野球の世界に大卒者が行く必要性はなかったのだ。

その上で、当時のプロ野球には「金の力で選手の引き抜き工作を図る汚い業界」というイメージが先行していた。

終戦後すぐの時期、当時は南海ホークスに所属していた投手の別所毅彦に巨人が裏工作を行い、彼を引き抜くということがあった。もっとも、当時は契約書という概念が存在せず、また南海の別所に対する年俸やインセンティブはあまりに少なかったため、高額の報酬を約束した巨人に別所が向かうのは当然とも言える。が、この事件は「プロ野球は金権的」というイメージを大衆に与えるのに十分なインパクトを有していたことも事実だ。

それに比べたら、六大学野球は若い選手が金ではなく母校の名誉のために戦っている。何と純粋で爽やかだろう——。このようなイメージの温度差がプロ野球と六大学野球の間には存在し、さらに選手のレベルにおいても六大学野球のほうがプロ野球より上だった節もある。何しろ、この時代のプロ二軍チームは在日米軍とも試合をしていて、しかも日本のプロ球団が負けていたのだから。

「大学生のフレッシュさ」の維持を求められた長嶋

そんな状況下において、「立教三羽烏」と呼ばれた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾は漏れなくプロ球団に入った。

しかし、その中でもやはり長嶋の存在感は突出していた。

二塁打性のヒットでも積極的に三塁を狙い、それが失敗したとしても笑顔を見せる長嶋は、それまでの「軍隊の雰囲気が漂う野球部」とは一線を画す選手だった。失敗を恐れない彼の全力プレーは、悲惨な戦争を経て生まれ変わった新しい日本の象徴とも言える。

が、そんな長嶋が単に巨人軍に入団した「だけ」では、プロ野球につきまとっていた陰惨としたイメージは変わらなかっただろう。

長嶋は、大学時代の「フレッシュさ、上品さ」をプロ入り後も保つ必要があったはずだ。

毎日新聞1957年12月10日朝刊11面に『ことしの顔』というコラムが掲載されている。この日の『ことしの顔』の小見出しは『千六百万円の腕 サラリーマンの夢物語』。長嶋が巨人から1600万円の契約金を手にしたことを、半ば羨んでいる内容の記事だ。プロ野球選手の契約金に対して「サラリーマンが一生かかってもつかめぬ夢のような金額だが、これも決して高くはない」と書いてしまうあたり、このコラムを執筆した記者のプロ野球への偏見がうっすら浮かんでいる。

しかし、その後の長嶋は大学時代からのフレッシュなイメージを維持し続けることに成功した。

それは、巨人が選手に課す厳しいドレスコードも要因の一つにあるはずだ。今でも巨人の選手は(例外的に許された選手はいるにせよ)髭と茶髪と長髪が禁じられている。長嶋入団当時は尚更で、優勝祝賀会の時などは選手全員が同じスーツを着用していた。

良い意味で、長嶋は「巨人に就職した会社員」になることができたのだ。

常にテレビカメラが向けられていた巨人の選手たち

長嶋ほど「常にカメラを意識していた選手」は、当時他にいなかっただろう。

「外野席のお客さんが一番いいお客さん」とは彼自身の言葉であるが、長嶋の入団から引退までの間に日本で起こったことは「テレビの普及」だった。それも白黒テレビの普及とその衰退、そしてカラーテレビの登場とその普及とピッタリ重なっている。

この時代のプロ野球は月曜日と金曜日を除いた週5日6試合というスケジュールである(日曜日にダブルヘッダー)。巨人の選手一同は常にテレビカメラの前に出なくてはならず、そのため万が一にもだらしない格好でメディアに登場することは避けなければならなかった……という現実的事情もあったのではないか。が、そうした背景があるからこそ我々の知っている長嶋は、いつも「ユニフォームかスーツ姿」だったのだ。

ただし、上述のように脳梗塞発症後の長嶋はますますスーツにこだわるようになっていったことを考えると、彼自身に「ファッションに対する能動的な意図」があったことは間違いない。

ファッションは何歳になっても楽しむことができる!

車椅子が必要になった最晩年の長嶋は、それに反比例するかのようにファッションリーダーとして進化し続けた。まるで、「要介護」という言葉のネガティブイメージを吹き飛ばそうとしているかのように——。

これは、長嶋が「要介護者はファッションを楽しめない」という先入観に挑戦していた証ではないだろうか。

ファッションとは、ただ単に見栄えを変えるだけではない。洒落た服を身にまとうことで、自分自身の姿勢や信念を外に示すことができる。長嶋はその生涯の中で、アパレルメーカーの広告にモデルとして起用され、メンズファッション誌の表紙を飾ったこともあった。ファッションの力を確信し、その力を借りて自分が身を置く競技の地位向上を実現させた稀有な人物、それが長嶋茂雄だったのだ。

我々は今こそ、長嶋茂雄の「ファッションに対する考え方」を見習うべきだ。

文/澤田真一 撮影/小倉雄一郎(小学館)

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