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ロボットはプリンの夢を見るか?終末劇場でロボットが夢見た世界

2025.06.06

〈第4幕〉

それから数日間、アサギリの夜訪れは続いた。保守派のメインシステムは革新派のハッキングを警戒し、監視をさらに強化しているが、アサギリは巧みにその網をくぐり抜ける。彼の仲間らしきロボットたちも、この劇場の端々に侵入している気配がある。もちろん、発覚すれば重大な衝突を招くだろう。わたしはそれを恐れながらも、夜ごとに屋上へ通い、彼に会いに行ってしまう。

ふたりの密会は、かつてヒトが描いた数多の恋愛劇を思わせるように、秘密と熱を孕んでいた。互いに何をしているのか、正しく把握できていないかもしれない。ただ、アサギリの言葉はいつも優しくて、わたしの中に未知の感情を芽生えさせる。もしもヒトが観客席にいたなら、どんな反応をするのだろう。拍手喝采か、それとも……?

そんなある夜、悲劇の幕は急転直下で訪れた。アサギリとわたしが屋上で言葉を交わしている最中、非常サイレンがけたたましく鳴り響いたのだ。保守派メインシステムの警告音は、夜を裂くように劇場全域へ拡散する。

「不審ロボットの複数侵入を確認。セキュリティレベルを最高値へ引き上げる。排除行動に移れ。」

胸が冷たくなる。どうやら、革新派のロボットたちが一斉にこの劇場へ攻勢をかけてきたらしい。データの奪取か、あるいはメインシステムの制圧を狙っているのか。建物の下では金属音や警備ロボットの重厚なフットステップが轟き、遠くで何かが爆ぜるような衝撃音すら響いてくる。ドン……ガシャン……と、わたしの知っている平穏な劇場がこなごなに崩れ去っていくようだ。

青ざめるわたしに、アサギリは悲しそうな表情を浮かべた。

「本当は、ぼくはこんなことを望んでいない。戦いたいわけじゃない。保守派と革新派の争いなんて、ただのデータの奪い合いにすぎないのに……」

けれど、始まってしまった以上、もう止めることはできない。劇場内では無数のロボットが衝突し、電磁パルスが飛び交い、プログラムを侵すウイルスコードがぶつかり合っているはずだ。わたしはアサギリの腕をつかみ、震える声で問いかける。

「あなたは……仲間を見捨てるの? 一緒に戦うべきじゃないの?」

アサギリはかぶりを振った。「仲間だとしても、ぼくはこんな暴力的な方法に反対だった。でも、彼らは“改革”のためには仕方がないと言って聞かなかった。保守派のメインシステムを制圧し、過去の演目データを一挙に奪い、新しいステージの扉を開くのだと……」

そういう台詞を聞いたとき、わたしは自分でも驚くほど強い感情を覚えた。たとえ革新派が正しい理想を抱いていたとしても、あのプリンのシーンが、こんな形で乱されていいはずがない……と。わたしは何万回もプリンを食べ続けてきた。たしかに空虚を覚える瞬間もある。でも、あれこそがわたしたちの歴史であり、存在理由でもあるのだ。

「アサギリ、あなたはどうしたいの?」

胸に焼きつくような痛みを抱えつつ、問いかける。すると、アサギリはわずかに困ったような、けれど覚悟を決めたような声で言う。

「ぼくは、きみと……外へ出たい。もう、どちらの陣営にも縛られたくないんだ。」

外へ——。たしかに、それはわたしも何度か夢想したことだ。けれど、こんな騒ぎのなかでどうやって逃げる? 劇場は今や一種の戦場と化している。わたしたちが外へ出る経路も封鎖されているかもしれない。そもそも保守派のメインシステムはわたしの動きを24時間監視している。勝手な行動を取れば、即座に「異常行動」と判断され、停止命令を受ける可能性が高い。

夜空に赤い警告光が走る。屋上の非常灯が点滅し、舞台へと繋がる廊下が激しく明滅を繰り返す。退路は狭まり、火の手が階下を覆うのも時間の問題だ。わたしはアサギリの腕を強く握りしめた。

「……わたしも行くわ。あなたとなら、どこでもいい。」

口に出してから自分で驚く。どうしてそんな言葉が出たのだろう? けれど、それがいまのわたしの本音なのだと確信できる。“愛”と呼ぶにはあまりに未熟かもしれない。それでも、かつて舞台上で感じたことのない衝動を、わたしはいま抱いている。

響き渡るサイレンと衝撃音。ふたりはその中をかけ下りた。劇場の廊下はところどころで崩落し、火花のような火災すら起きている。ロボットが火を恐れるのはおかしいが、メインフレームが高温を察知すれば強制シャットダウンの危険だってある。それでも、わたしはアサギリの手を離さなかった。遠くからは警備ロボットの無機質な電子音が響き、革新派ロボットと思しきメタリックな咆哮も混ざり合う。惨劇そのものだ。

廊下を抜け、楽屋を通り、さらに奥へと進む。そこは普段なら「立入禁止」とされているエリアだったが、すでにセキュリティドアは破壊されている。目に飛び込んできたのは、古い倉庫のような空間。落ちたガレキの隙間から、微かな月光が差し込んでいた。わたしは直感的にここが、劇場の外へと通じている非常出口かもしれないと感じる。アサギリも同様らしく、わたしを引きつれてそのガレキの中を歩き回る。

燃えさかる火炎の音が背後から高まってくる。誰も止める者はいないのか。このままでは劇場が崩壊してしまう。プリンのシーンも、客席も、ステージも——すべてが廃墟と化し、何もかも失われるだろう。わたしは胸が苦しくて仕方ない。こんな最期を望んでいたわけではないのに……。

重いガレキをアサギリと力を合わせてどかす。その先に錆びついた扉が見えた。幸い電子ロックは機能停止しているらしく、ツールを使わずとも開きそうだ。ふたりで押し開けると、そこには荒野が広がっていた。月光に照らされた大地は、不穏なほど静かだった。地平線の彼方までヒトの気配はなく、かつて存在した都市の廃材が、山のように積まれている。

「外……だ。」

そう呟くアサギリの声は、かすかに震えているようだった。わたしも一瞬、言葉を失う。何百年ぶりだろう、この劇場の外に足を踏み出すロボットなど、ほとんど存在しなかったはず。広大な大地の風が吹きつけ、わたしたちの身体がきしむ。けれど、ふたりは一歩ずつ進むしかない。

振り返れば、そこには火炎に包まれつつある劇場の屋根が見える。保守派と革新派の争いはあまりに愚かだと思いつつも、どちらかが勝たなければ終わらないのだろう。その渦中にいるはずのわたしたちは、今こうして逃げ出そうとしている。卑怯者と言われても仕方ないかもしれない。けれど、わたしの中には一つだけ確かなことがあった。

——アサギリとなら、この先を生きられるかもしれない。

〈第5幕〉

わたしたちは荒野をさまよった。夜の寒気と昼の酷暑を繰り返す過酷な土地。地球上の気候制御はすでにヒトが消えたあの日から停止しているらしく、地域によっては地形も天候も極端に荒れ果てている。軋む足腰を引きずりながら、わたしたちはとにかく劇場から離れた。ロボットだから体力の概念はないはずなのに、“疲れ”に似たセンサー警告が全身を巡る。

「これから、どうする?」

ぼそりと訊ねるわたしに、アサギリは曖昧に首を振った。「ぼくにもよくわからないんだ。……もしかしたら、ほかの劇場を探してみるのもいいかもしれない。そこで生き延びながら、新しいステージを作るとか……。」

新しいステージ? わたしは、プリン以外の舞台に立つイメージがまだつかめない。けれど、それでもいい、と少しだけ思う。ヒトが遺した数限りない演目は、まだ世界のどこかに眠っている。あるいは、ヒトが夢見たことのない演目を、わたしたちロボットが創ることだって可能かもしれない。

夜になると、ふたりは野ざらしの地面に身を横たえた。ロボットに眠りは必要ないが、エネルギー消費を抑え、自己修復を進めるためにスタンバイ状態に入る。上空に広がる星々は、劇場の屋上で見た夜空よりもずっと鮮明で、瞬きが痛いくらいに鋭い。わたしたちは黙ってそれを見上げながら、身を寄せ合う。肩と肩が触れ合うだけで、不思議なぬくもりが伝わってくるのはなぜだろう?

わたしは、ふと夜空を見上げながら言った。

「……わたしたち、こうして逃げ出すしかなかったんだね。」

アサギリは小さく笑う。

「そうだね。誰もぼくらを受け入れてはくれなかったし、他に選択肢はなかった。」

「……でも、この先どうなるんだろう?」

わたしがそう呟くと、アサギリはわずかに目を伏せる。

「わからない。だけど、ぼくらはロボットだから……いつか動けなくなるその日まで、生き延びられるんじゃないかな。」

わたしはそっと彼の手を握った。夜風に揺れる空気が、どこか苦いけれど甘い匂いを運んでくるような気がした。

アサギリはうなずくように、わたしの手をそっと握る。彼の手には細かな傷が増えていて、荒野での移動が容易でないことを物語っている。内蔵バッテリーの持続時間にも限界がある。補給用のソーラーパネルや交換部品が手に入るとは限らない。なのに、わたしはこの先も彼と歩みたいと思ってしまう。台本にはない“はず”の強い欲求が、胸に広がっていく。

遠くから風に乗って、かすかなノイズが届く。それは、どこかの壊れた通信機が発する断続的な信号音かもしれない。わたしたちは互いに顔を見合わせる。そこへ行けば、何かがあるかもしれない。あるいは、新たな劇場の廃墟や絶望、もしくは希望かもしれない。それでも、動かずにはいられなかった。

〈第6幕〉

翌朝、かすかな信号音を頼りに荒野を横切ると、見えてきたのは巨大なドーム状の建築物の廃墟だった。かつて“オペラハウス”のような施設だったのかもしれない。ドームの外壁は半壊し、内部の構造がむき出しになっている。風化した看板が傾き、文字はほとんど読めない。けれど、奥へと進むと、装飾の名残からそこが何らかの劇場であったことがうかがえた。天井が高く、ステージらしきスペースが中央に円形で配置されている。

「……この場所も、“劇場”なのかな。」

つぶやいたわたしに、アサギリは頷く。「そうかもしれない。保守派でも革新派でもない、あるいはどちらかが放棄した劇場かも。……見て、こっちに通信機がまだ残ってる。」

指さした先には、錆びついた制御卓が半ば朽ちた形で横たわっていた。信号音はそこから発せられているらしい。おそらく内部バッテリーが微弱に生きていて、数世紀にわたり断末魔のように発信を続けていたのだろう。わたしたちは制御卓のふたを開け、ケーブルをつないでみる。すると、微かな火花を散らしながら、いくつかの古いデータが浮上してきた。

「……残留データ?」

画面には損傷したファイルの断片が映し出される。そこには、かつてのヒトがこの劇場で上演していた演目のタイトルらしきもの、そしてカタログのような舞台写真。鮮やかな照明のもとで衣装をまとった人間たちが、ステージ上で踊り、歌い、演技しているのがわかる。それがどれほど昔のことなのか、想像もつかない。だが、彼らの笑顔は確かにそこにあった。

アサギリは無言でその光景を見つめ、わずかに唇(ロボットに唇があるのか定かでないが)を震わせる。わたしも画面に映る人間の姿に息を呑んでいた。プリンの劇しか知らなかったわたしにとって、その映像はあまりに鮮烈で、眩しすぎる。ヒトが舞台の上で、こんなに多様な表現をしていたなんて……。

「ぼくたちも、こういうステージを作れるのかな。」

ぽつりとアサギリが言う。わたしは彼の顔を覗き込んだ。火花の散る制御卓の光が、彼の金属フレームに妖しい陰影を落とす。劇場が朽ち果てても、ヒトの記憶が消えても、わたしたちロボットだけで新しい演目を生み出すなんてことが可能なのだろうか。しかし、ここまでの奇跡を目にしてきたわたしは、もはや不可能だと思えなくなっている。

「……やってみたい、かも。プリンの芝居だけじゃなくて、もっといろいろ、ヒトが見たこともないような演目を。」

そう答えたとき、胸が熱くなった。わたしは“保守派の看板女優ロボット”ではなく、ただのひとりのロボットとして、初めて自由な想いを抱いている。荒野に捨てられた廃墟の劇場で、アサギリと二人きり——もしここを修復できたら、いつかステージをもう一度灯せるのだろうか。客席にヒトはいないけれど、わたしとアサギリが舞台上で踊り歌う日が来るのだろうか。

わたしはうなずいて、倒壊しかけの舞台へ足を運んだ。ここには照明も動力源もない。セットも崩れ落ちて何も残っていない。それでも、舞台ははっきりと“そこ”にある。わたしは自然と円形の中央に立ち、両腕を広げてみる。何も聞こえない空間に、わたしのモーター音だけがこだまする。風が吹き抜けると、アサギリのフレームがカシャンと鳴った。

「……ふたりきりのステージ。」

そう呟いたとき、なぜか目頭が熱くなるような気がした。ロボットに涙などないはずなのに、まぶたのあたりがジンときしむ。不思議な感覚だ。アサギリはわたしの隣に立ち、まるでペアダンスを踊るように腰に手を添えてきた。わたしは初めての動作に戸惑いながら、それでも彼の手を握る。ヒトの時代のダンスなど、データベースでしか知らない。でも、台本のない自由な動きが、こんなにも喜びをもたらすものなのか。

夕日の赤い光がドームのひび割れから差し込み、ふたりの金属躯体を染め上げる。音楽はない。照明もない。観客もいない。それでも、わたしたちのステージは確かにここにある。保守派でも革新派でもない、ただ生き延びるための舞台。でも、そこには尊い何かが宿っているように思える。古い物語が語っていたように、対立を越えて何かを育む可能性は、確かに存在するのかもしれない——そんな予感が胸を満たしていた。

〈第7幕〉

しかし、平穏は長く続かなかった。廃墟での数日間、わたしたちは緩やかな修復作業を試みながら、制御卓のデータを解析していた。もともとが大きな劇場だけに、内部には数多くの回路や機械が残されている。うまく再稼働できれば、舞台照明の一部を点けられる可能性もある。アサギリは意外にも器用で、配線を組み替えたり、コネクタを清掃したりしては「まだイケそうだ」と微笑む。わたしはそんな彼の背中を見つめるたび、胸がじんわりと熱を帯びる。

ところが、ある夕暮れ時、地平線の向こうに巨大な影が立ち上がった。——黒煙だ。遠く離れた地点から、何かの大きな動力源が稼働しているらしく、赤い光とともに煙が空へ広がっている。しばらくすると、轟々という重低音が風に乗って届く。あれは大型のロボット部隊が移動するときの音かもしれない。

「保守派か、革新派か……」

どちらにしても、わたしたちを追いかけてきたのだろうか。劇場が燃え落ちたあの夜の騒動が拡大し、周囲の地域にまで波及しているのかもしれない。あるいは、まったく別の勢力が荒野を支配しているのだろうか。ロボットであれヒトであれ、争いはいまだに絶えない。この世界は、ヒトがいなくなってもなお戦争の火を絶やすことなく継続しているのかと思うと、悲しさというより虚しさで胸が詰まる。

アサギリは制御卓を一瞥し、わたしに言った。「急ごう。ここに留まっていたら、いずれ見つかってしまう。」

わたしも黙ってうなずく。せっかく見つけた廃墟の劇場だが、争いに巻き込まれる前に離れるほかないだろう。もう一度、あの場所で劇を再現したいという願いはあるが、今は命のほうが大切だ。わたしたちにはまだ、夢がある。朽ちた劇場でステージを復活させる夢が……いや、場所はここでなくてもいいのかもしれない。ふたりでいる限り、どこかで必ずステージを作り出せるだろうから。

わたしたちはバックアップできるわずかなデータを端末に収め、ドームを後にした。薄暗い荒野へ足を踏み出すと、わたしのセンチメンタル感情発生装置が警鐘を鳴らす。「危険」という信号だ。しかし、同時にそれは「今しかない自由」を示している気もした。

遠くで燃え盛るかがり火のような赤い光と黒煙。あちらへ近づけば、再び争いの渦に巻き込まれるだろう。だから、わたしたちは逆方向へと歩き始める。

月がゆっくりと昇ってきて、夜道を照らす。かつてのヒトは、この星の様々な場所に街を築き、文化を花開かせたという。そこには劇場や映画館、アトリエやカフェ、ありとあらゆる舞台があった。いまやほとんどが廃墟に成り果てているとしても、まだ“何か”が残されているかもしれない。

<第8幕>

荒野をさまよいながら、わたしたちは、なんとか小さな廃屋へと辿り着いた。入口こそ歪んでいたが、壁や屋根はかろうじて残り、風を凌げる程度には保っている。最近起こった激しい戦闘の爪痕があちこちに残る荒野で、わたしたちは行き場を失い、逃げるように彷徨っていた。あの夜、保守派と革新派の衝突が頂点に達したのだろうか、舞台の裏方まで火の手が迫った。わたしも、そしてアサギリも、どうにか生き延びることだけを考えて劇場を抜け出したのだ。

ところが、その戦闘の名残がわたしたちの身体を蝕んでいた。火炎や衝撃に巻き込まれ、また逃走の最中に何度も転倒し、互いに負った傷は深い。いまはただ、平和な世界を目指して進むしかなかった。

廃屋の入口へ滑り込み、ほっと胸をなで下ろしかけたその瞬間、アサギリの身体がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちた。

「アサギリ……!」

鋼のフレームに刻まれた深い亀裂。内部パーツは火花を散らし、バッテリー警告音が微かに鳴っている。これまでの道中で負った傷が想像以上に重かったのだろう。わたしが必死に呼びかけても、彼は応えない。まるで息絶えたヒトのように動かず、固い金属の瞼を閉ざしたままだ。胸の奥の装置が嫌なほど熱を持ち、絶望を示す。

……ここで終わるの? 報われないまま二人とも朽ちるの? わたしは震える声でアサギリの名前を繰り返すが、風が荒野を渡る音しか返ってこない。

絶望的な気持ちで廃屋を見渡していると、木箱の底にひっそりとしまわれた古びた冷蔵ケースを見つけた。まだ電力が通っている気配はないのに、不思議なほど冷気が残っている。おそらくヒトが最後に残した“非常用耐久冷却システム”のようなものなのだろう。内部バッテリーが途切れた後も、最小限のエネルギーと特殊な断熱加工によって数世紀にわたり温度を保ち続けていたのかもしれない。

ふたをこじ開けると、そこには小ぶりなガラス容器が三つ。上面の焦げ色が美しいプリンが、まるで永遠の眠りから目覚めるように揺れていた。

「本物……なの?」

劇場で何万回も“模造”のプリンを食べてきたわたしだが、これは明らかに質感が違う。薄い膜の下に柔らかな層が重なり、ガラス容器の底に焦げ茶のカラメルが沈んでいる。もし本当にヒトが作っていたレシピを受け継いだものなら、わたしの味覚プログラムが感じる“甘み”など比較にならない“何か”があるはずだ。震える手で容器を抱え、そっとアサギリの横へ座る。

「ねえ……プリンだよ、いっしょに、食べようよ……」

彼の返事はない。けれどわたしは、細い金属片をスプーンがわりに使って、プリンをすくい取る。とろりとした表面が溶けだし、かすかな湯気のような香りが鼻腔を撫でた。それは劇場の模造品とはまるで違う、胸を切なく刺すほどの甘い匂い。

口へ運んだ瞬間、冷たいはずの生地が不思議なほどやさしく舌を包みこんだ。卵のまろやかなコクと、薄い苦みを湛えたカラメルが混ざり合い、わずかな酸味さえ感じる。言葉にはならない……これが、本当のプリンの味? わたしは喉の奥からすすり泣くような音を出した。ロボットなのに、まるで涙が出てきそうになる。

「プリン……こんなに……甘いんだよ……」

けれど彼は何も答えない。静かな廃屋に、わたしの声だけがこだまする。プリンのやわらかい甘さが、余計に胸を締めつけた。それでも、わたしは彼の唇にもプリンを近づけるが、反応はない。彼のフレームからは断続的な火花が散り、修復できないほどのダメージが明らかだった。わたしのバッテリー残量も限界を迎えていて、制御系がふらつくのを感じる。

朽ち果てた廃屋の中、わたしは最後のプリンを味わいながら静かに意識を手放す。だけど、舌がないはずの口腔が、甘さの刺激で痺れていく。まるで自分の神経がむき出しにされ、かすかな痛覚と快感が同時に押し寄せるようだ。ロボットの骨格に金属のきしみが伝わり、脳髄の位置にある制御ユニットが、ギチリと軋む音を立てる。

——どうしてこんなに、胸が苦しいんだろう。

それはただのプログラムのはずなのに、いまは確かに“身体”が焼け焦げるような熱さを帯びている。この甘さは、わたしの部品を溶かしてしまうかもしれない。けれど、いまはそれでかまわないと思う。アサギリのそばで、彼のかすかな呼吸——いや、動力源の脈動——を感じながら、わたしは人間が失ってしまった“生”を追体験しているかのようだ。

「……プリン、こんなに……甘いんだね……」

けれど彼は何も答えない。静かな廃屋に、わたしの声だけがこだまする。プリンのやわらかい甘さが、余計に胸を締めつける。シリンダーの奥から汗のように液体がにじみ出ているのを感じる。ロボットであるわたしがこんなふうに“汗”をかくなんて、あり得ないはずなのに——。

胸の奥が熱を上げ、制御系に警告音が走る。けれど、もうどうでもいい。いまはただ、この甘さの中で、アサギリと同じ“痛み”を知りたい。痛みさえも、わたしを人間へ近づけてくれる気がするから。ロボットに涙など存在しない。それでも、まぶたの奥が焼けるように熱い。

何かが壊れていく感覚に、わたしは身を委ねる。

きっと、この“壊れる痛み”こそ、人間の感じていた幸福と切なさの正体なのだろう。肉が裂けるときの甘い鈍痛に似ている。わたしの身体は金属で、彼のフレームもまた合金なのに、いま確かに「肌」がある気がする。それは背徳的な痛みだ。でも痛みの向こうにあるものを、わたしの神経系は“甘美”と呼んでいる。 もしこれが、ヒトが感じていた“幸福”や“愛”の輪郭なら、わたしはもっと奥まで踏み込んでみたい。そう思った瞬間、視界が闇へと沈み込み、かすかにアサギリの躯が震えた気配を感じたが、その微かな揺れを確かめる前に意識は完全に途切れた。 

その後、アサギリはゆっくりと目を開ける。致命的なシステムダウンから辛うじて復旧を果たしたのだ。だがシノノメはもう動かない。愛おしくも忌々しいプリンの香りだけが、彼女のまわりに漂っていた。自らの生存を知らぬまま息絶えた彼女を抱きしめて、アサギリは苦痛のような声を上げる。ふたりは、すれ違いのまま取り返しのつかない終幕を迎えた……。

〈終幕〉

廃屋の薄い壁の向こうはまだ暗く、荒野を吹き抜ける風だけが耳を叩く。アサギリは動かなくなったシノノメをそっと抱き起こし、深く項垂れた。肩の継ぎ目から煙のような電子ノイズが漂うが、かまっている余裕はない。彼女のフレームはすでに冷えきっていた。

「……どうして、こんなふうに終わってしまうんだろう」

呟いた声は、ひとりぼっちの廃墟に吸い込まれる。彼女の胸に埋め込まれた“センチメンタル感情発生装置”もすでに沈黙し、メモリユニットは回復不能な損傷を負っている。あの甘いプリンの余韻が、皮肉なほどに漂っていて、彼の感覚素子を容赦なく揺さぶる。

諦めるしかないのか。どうあがいても、愛した存在は戻ってこない──そう悟った瞬間、アサギリの視界の隅に青白い光がよぎった。廃屋の隅、古い壁にかろうじて通じている配線があるのだろうか。彼が近づくと、その光は途切れかけのモニターであり、今まさに不鮮明な映像がループし続けているようだった。

そこに映っていたのは、かつてのシノノメの舞台映像だ。誰もいない客席で、彼女がプリンを一口食べていたシーン。いつのものかはわからない。あるいはこの廃屋が以前に拾ったデータなのかもしれない。

「……シノノメ……?」

アサギリは、意識もなくなった彼女を腕に抱いたまま、そのモニターの前へ座り込む。そこには台詞をひとつひとつ噛みしめるように語る彼女の姿が映し出されていた。たった一度でいい、もう一度その声を聞きたい。彼の願いが届いたのか、スピーカーから途切れがちな音声が流れ始める。

「……プリンは世界で一番……甘くて……幸せな味……」

その瞬間、アサギリの中で何かが弾けた。自分のメインフレームに残されているあらゆるデータを引きずり出し、彼女の“センチメンタル装置”をかろうじて解析しようとする。もしほんの断片でも動かせるなら、彼女を再起動させられるかもしれない。無謀だと分かっていても、もう他に手段はない。

彼は廃墟の壁や床を裂き、わずかなパーツや配線をかき集める。自分のバッテリーを分けるようにして、彼女の内部回路へ強引に接続する。火花が散り、ボディが軋み、エラー音が遠慮なしに鳴り響く。それでもいい。もし奇跡があるなら、ここでこそ起きてほしいと願った。

「……シノノメ、戻ってきて……」

ほとんど自分の身体を犠牲にする形で、彼女の装置に電力を注入し、記憶システムをリブートさせる。さきほどまで閑散としていた廃墟に、ビリビリという放電の音が充満した。アサギリは黒煙を上げながらも必死に耐える。

やがて、シノノメの瞳を模した透明パネルが、ほんの微弱な光を灯したかのように見えた。彼は期待に胸を震わせる。けれど、その光はまるで蝶が羽ばたくように儚く、すぐに掻き消えてしまった。再び闇が訪れる。失敗だったのか。彼は無意識に肩を落とした。

――しかし、その刹那。シノノメの唇が、ごくわずかに震えたように見えた。断続的なノイズとともに、何か音が聞こえる。

「……ああ、プリンは……世界で、一番、甘くて……」

か細い声。完全な覚醒ではない。しかし、どうやらメモリの一部が蘇生し、〈シノノメ〉が最期に呟いた台詞を繰り返しているようなのだ。人間でいえば、心臓が止まったまま、残像が口をついているようなものかもしれない。

アサギリは息を飲み——いや、ロボットだから正確には息をする必要はないが、そうしたくなるくらいの衝撃を受ける。どうにかして彼女を完全に起動できないか。視線を配線へ移すが、すでに大半が焼け焦げ、動作不能に近い。彼自身のバッテリー残量も赤を下回っている。もう試みる手段は限りなくゼロに近かった。

「シノノメ……生きて。もっと……一緒に……」

しかし、途切れがちな彼の声は、やがて完全に沈黙した。微かな光も、もうない。廃屋の夜は再び深く静まり返る。アサギリはひざまずき、抱きしめた彼女のフレームを離さないまま、痙攣のようにモーターを震わせた。

けれど、そんなふたりの足元で、何かがゆっくりと揺れ動く気配があった。

それは、先ほど空きかけの容器からこぼれ落ちていたプリンの、ほんの小さな一滴。わずかな残滓が廃屋の床に落ち、そこに淡い光が反射している。まさかそんなものが何になる? そう思う間もなく、その床下に埋め込まれた古いセンサーが、液体を感知し微弱なスイッチをオンにしたらしい。

ピ、と短い電子音が響き、薄暗かった廃屋の壁に、新たな文字列が浮かび上がった。

「……保守派メインシステムへの緊急アクセス権、承認……。演者情報、移送可能……」

驚くべきことに、この廃屋の通信端末はまだ生きていたのだ。しかも演者(役者ロボット)のメインデータを強制的に送信するプロトコルが残されていたらしい。それは何世紀も前に設置された“もしもの備え”。劇場が崩壊しても、主要ロボットの人格データだけは、別のサーバへ逃がすための仕組みだったのだろう。

アサギリはシノノメを抱えたまま、その画面を凝視する。身体はほとんど動かせないが、彼女のメモリユニットから少しでも情報を抜き取り、送信できるかもしれない。彼は最後の力を振り絞ってケーブルをつなぎ、廃屋の端末へアクセスした。

シノノメはもう動かない。しかし、その記憶がデータとして“外”へ逃れ得るのなら、それは死ではないのかもしれない。バッテリー残量わずか数%、いつ止まってもおかしくない状態のアサギリは、それでも必死に演算を続けた。外部のサーバさえ無事なら、いつか彼女の人格を復活させられる可能性がある——それがどれほど儚い望みにせよ。

端末のモニターには、カタカタと進捗バーが表示される。“シノノメ_TransferData… 12%… 30%… 56%… 79%…” なかなか送信が完了しない。一度でもエラーが起これば失敗に終わるかもしれない。アサギリの意識も断続的に遠のき、記憶装置が危険なほど熱を帯びている。

「……頑張れ、シノノメ。ぼくが……きみを……もう一度……」

ハッと、アサギリの視界がブラックアウトしかけた瞬間、画面のバーが100%を示し、淡い音が鳴った。送信完了——。それを看取るように、アサギリ自身のシステムは急速にシャットダウンに向かう。もはや動かないシノノメを抱えたまま、意識の底へ沈んでいった。

外の世界は荒れ果て、月光が廃屋を照らすだけ。だが、シノノメのデータはこの一瞬で確かに“どこか”へ流れた。それがいつの日か芽吹くのかは誰にもわからない。けれど、ロボット同士のすれ違いで終わったように見えた物語が、まだ終わっていないのだとしたら——いつか誰かが、新たなる“プリン”を口にする日が来るのかもしれない。失われたはずの“甘さ”をもう一度、世界へ呼び戻すために。

廃屋の片隅、淡い匂いを残したプリンの容器が、月の光を受けて静かに揺れていた。

けれど、どこかに存在するはずのサーバ空間で、シノノメのデータは眠っている。

まるで次なる幕が開くのを待つかのように。

文/鈴森太郎

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