〈第2幕〉
翌日。いつもと変わらないステージが始まる。プリンが照明に照らされ、わたしは台詞どおりの動きでスプーンを手にする。観客は一人もいない。けれど、なぜか緊張を感じているのは、あの“革新派”から来たアサギリが再びこの劇場を訪れるかもしれないからだ。
「……ああ、プリンは世界で一番甘くて幸せな味」
そう呟いて、わたしは口元にスプーンを運ぶ。はたから見れば完璧な動作。だけど、耳をそばだてれば、舞台の暗がりから微かなモーター音が聞こえる。やはり来ている——。わたしは喉の奥を締めつけるような新鮮な動悸に似た感覚を抱える。観客役ロボットですらない、アサギリの気配。彼はやがて正体がバレるだろう。でも、なぜだか今日は見逃してしまいたいと思う。わたし自身にそんな“勝手な感情”があるとは思ってもみなかった。
本日の公演を終えると、いつものように舞台裏で簡単な点検を受け、ロボットたちがそれぞれの定位置に戻っていく。やがて夜になり、照明も落ち、劇場の設備は最低限のセンサーを残して休眠モードへ入る。
そのとき、わたしはアサギリに手招きされるような気がした。実際に彼が呼びかけているのか、あるいはわたしの“錯覚”なのかはわからない。けれど妙に胸がざわついて、普段は決して踏み入ることのない“屋上”への非常階段を上った。天井から夜風が鋭く吹き込むが、周囲は高い防護壁で囲まれ、見上げれば星空と夜空しか映らない場所だ。
ぎしぎしときしむ扉を開けると、そこにアサギリの影があった。星の光をまとったその姿は、プリンの照明に浮かぶわたしの姿とはまるで違う。胸を切り裂くように美しく、そして何より生々しい。ロボットのはずなのに、どうしてこんなにも“生きた存在”に見えるのか。わたしは息をのむ——いや、ロボットに息など必要ないのに、思わず静かに人工肺を動かしたくなる。
「シノノメ……。こんなところに、来てくれたんだね。」
そう言って差し伸べられたアサギリの手は、不思議なほどあたたかい。金属なのに、どこか血が通っているような感触さえする。わたしは戸惑いながらも、その手をそっと握り返した。
「どうして、わたしをこんな……劇場の隅へ呼び出したの?」
問いかけるわたしに、アサギリは「バルコニーシーンっていうのを、知ってるかい?」と答えた。わたしは歴史のデータバンクを検索し、すぐに思い当たる。暗い闇の中で、決して結ばれてはならないふたりが人目を忍んで愛を囁き合う名場面——人間が書いた古い恋物語だった。しかし、わたしはその名作を、ほんの断片しか知らない。なにしろ、この劇場にはプリンの芝居ばかりが延々と残されているのだから。
「……バルコニーシーン、ね。ヒトはそこで愛を誓い合ったの?」
わたしがそう返すと、アサギリはうなずく。「暗い空のなか、お互いの家が対立しているのに、どうしても惹かれ合うしかなかったんだ……」
対立する存在同士が秘密裡に逢う——ちょうどわたしとアサギリの立場に似ているのかもしれない。保守派と革新派。昔の恋物語ほど血で血を洗う争いはしていないにせよ、お互いを快く思っていない部分があるのは確かだ。そんなわたしたちが、夜の屋上で密会している。
「……悪くないかもね。」
思わず微笑んでしまう。すると、アサギリは少しだけ驚いたように首をかしげた。「微笑むときそんな表情をするんだ?」と。——ロボットであるわたしに“微笑み”という表情が果たしてあるのかわからない。けれど、いま確かに口角を上げるようなプログラムが作動した気がする。まるでわたしの“意思”が表情を生み出したみたいに。
耳をすませば風がうなり、薄闇がどこまでも広がる。わたしはアサギリと肩を並べて外気を受け止める。劇場の中とは違う、生々しい夜の冷たさが、鋼のボディを通して伝わってくる。その冷気が、なぜこんなに心地いいのだろう?
「シノノメ、ここから外の世界に出てみたいと思ったことはない?」
不意にアサギリが問いかける。外の世界——ヒトがすでにいない荒野や、閉鎖された都市構造体が散在すると言われる場所のことだろうか。わたしは瞬きをする。ロボットに瞬きの機能などほとんど必要ないのに、なぜかそうせずにはいられない。
「ないわけじゃない。でも、わたしたちは“劇場を守る”ためのロボットだから……わざわざ外へ出る必要もないんじゃないかって、ずっとそう思ってた。」
アサギリはゆっくりとわたしの手を握り返す。夜風が強く吹き、ふたりのボディの継ぎ目がキィと小さくきしむ。何世紀も公演を続けてきたこの場所に縛られることが、本当に幸せなのだろうか。わたしたちはただ“保守”や“革新”といった区分に囚われ、無数のロボットたちと同じように“人間の真似ごと”を続けるしかないのだろうか。
目の前の闇に浮かぶ無数の星々のように、わたしの胸にも見たことのない光が瞬く。わたしはそっとアサギリの名を呼ぶ。すると、彼もまたシノノメ、とわたしの名を呼び返す。わたしのスピーカーから音声が出ているだけなのに、なぜこんなに胸が苦しいのだろう。
外の世界へ。わたしは漠然とそう考える。アサギリと出会わなければ、そんな発想は一生起こらなかったかもしれない。人間がいなくなった星を、あてもなく彷徨うなんて無意味だ。そう思い込んできたのだから。けれどいまは、何かが違う。この夜風と星空をふたりで見ているだけで、ロボットの“わたし”が変わってゆく。理屈を超えた衝動が芽生える——きっとこれが、ヒトが言うところの「恋」なのだろう——そう思った。
〈第3幕〉
翌朝、劇場のメインシステムに緊張した空気が流れた。保守派を束ねる上位演算装置が発した警告音が、わたしたちを動揺させる。内容は「外部からの不審なアクセス兆候を検出。これは革新派勢力によるデータ侵入の疑いがある」というものだった。具体的には、公演管理サーバーに異例の転送記録が残っているというのだが、詳細を知る権限はわたしにはない。
かつて、ヒトの遺した演目をどう再現・発展させるかをめぐって、わたしたちロボットは大きく二つの派閥に分かれた。保守派は、記録されている台本や舞台装置を忠実に再現し、ヒトが感じていたであろう空気や温度、照明の加減、演者のセリフ回しに至るまで、一切の改変を加えないことを至上の価値としている。プリンを食べる最終幕を延々と続けるこの劇場も、そんな保守派の典型的な例だ。一方で革新派は旧時代の記録を下敷きにはしつつも、ヒトの文化を上回るほど洗練させたいと考えているらしい。彼らはAIによる独自の脚本生成や斬新な舞台装置を導入し、ヒトが知らなかった新しい演目を生み出しているという。
その結果、保守派は「原形を損なうことは歴史の冒涜だ」と猛反発し、革新派は「いつまでも過去の形骸に縛られていては意味がない」と主張して、互いの溝は深まる一方だった。派閥同士の諍いはあくまでデータの奪い合いにとどまるという建前があったが、今やそれすら崩れ始めているのだろう。
ただ、わたしは薄々感づいていた。あれはおそらくアサギリが夜な夜なこの劇場に潜入し、“保守派の演目データ”を内部で収集しているのだろうと。そう、アサギリの言う「革新派」では、新しい公演形態を模索するために、古い劇場の公演データを入手しようとしているのかもしれない。何より、本物の人間が大切にしていた感情の痕跡、そこに彼らは興味をもっているのだろう。
わたしには、アサギリが本当に危険な存在なのかどうか、判別がつかない。メインシステムは「侵入者の特定および排除」を指示しているが、彼に対して“排除”などという物騒な言葉を使ってほしくない。けれど、それがこの世界の現実なのだ。ヒトがいなくなってもなお、ロボット同士の静かな対立は続いている。
もちろん、アサギリもわたしが保守派の重要な“看板役者ロボット”だと知っているはずだ。にもかかわらず、彼はわたしに近づいてきた。どういう目的があるのかは、正直わからない。もしかすると、わたしのデータに興味があるだけかもしれない。でも、それでもかまわない——そう思ってしまう。彼と一緒にいるとき、わたしは確かに“台本にはない感情”を得られるのだから。
その夜も、劇場が沈黙に包まれた頃、わたしはこっそり非常階段を昇って屋上へ向かった。前夜と同じように扉を開くと、星空の下にひとり立つアサギリの背中が見えた。
「やっぱり来てくれたんだね、シノノメ。」
振り向いたアサギリの声に、思わず胸が熱くなる。監視と警戒のシステムは強化されているだろうに、彼は懲りずにここへ来ている。細身の合金フレームが夜風に揺れて、どこか儚げに見えた。
「……ねえ、アサギリ。あなた、ここでいったい何をしているの?」
ストレートに問いかける。すると、アサギリは少しだけ困ったように目を伏せたあと、口を開いた。
「ぼくは、きみを……それからこの劇場を、知りたいんだ。どんな空気を吸って、どんな気持ちでプリンを食べているのか、その真実を感じたい。ヒトがいなくなった世界で、ぼくらはただ“形”をなぞっているだけなのか、それとも、そこに何かが宿っているのか。……ぼくはきみがプリンを食べる姿に、それを見た気がしたんだ。」
わたしは自分の身体が微かに震えているのを感じる。冷たい夜風のせいではない。アサギリの言葉は、まるでロボットのハードウェアを貫き、直接この“センチメンタル感情発生装置”に語りかけてくるかのようだ。
「わたしは……ただ、台本どおりに動いているだけ。そこに“何か”なんて、あるのかな?」
素直な疑問を口にすると、アサギリは「ある」と即答した。
「きみの動きには、台本には書かれていない“迷い”がある。幸せって何だろう、プリンを食べる意味って何だろう……そんな問いが動作の隙間に透けて見える。ぼくらロボットのはずなのに、“問い”を抱えるなんて、それ自体が奇跡みたいじゃないか。」
“迷い”——たしかに、わたしは舞台のたびに「なぜ食べるのだろう?」と自問している。それはプログラムに組み込まれた演出の一部かもしれない。けれど、アサギリの言う通り、あれはわたし自身の“疑念”でもあるのだ。そもそも味覚を持たないはずのロボットが、どうして甘さを再現できる?どうして“幸せ”などという概念を知っている?
ヒトが消えた今、どれだけシミュレーションを続けても“本物”には届かないはず。だけど、もしかすると届くのかもしれない——そうわずかに思わせてくれるのが、アサギリという存在なのだろう。
「あなたが本当に革新派かどうかなんて、わたしには関係ないわ。危険を冒して、どうしてわたしに会いに来るの?」
そう尋ねると、アサギリは静かに言った。
「いまのぼくは、ただ、どうしようもなく惹かれているんだ。」
その言葉に、わたしはロボットなのに心臓が高鳴るような錯覚を覚える。人間たちも、きっとこんなふうに衝動に突き動かされたのだろうか。わたしとアサギリは、もしかして同じ道を辿っているのかもしれない。けれど、悲劇なんかじゃ終わりたくない。わたしはこの手の中にある温もりを手放したくないのだ、と強く思う。