
2025年4月13日(日)、「2025年日本国際博覧会(Expo 2025 Osaka, Kansai, Japan)」、通称「大阪・関西万博」がいよいよ開幕する。
日本での万博は、2005年の愛知万博(愛・地球博)以来、20年ぶりの開催となる。
1970年大阪万博では4万8000人が迷子になった!?
言わずもがな大阪での万博開催は、1970年に吹田市で開催された大阪万博以来2回目となる。当時の入場者数は、万博記念公園のWebサイトによると6421万8770人。1日の平均入場者数は約35万人にのぼった。ちなみに当時の日本の総人口は1億466万人だったので、国民の約6割が万博に足を運んだ計算になる。
筆者の知り合いにも「当時の大阪万博に行った」という人は結構多い。ただ、感想となると「とにかく人が多かった」という話ばかりだ。そのせいで、迷子問題が多発していたとも聞く。大阪府八尾市が公式ホームページで公開している「大阪・関西万博クイズ!」によると、1970年大阪万博の迷子の人数は4万8000人におよんだそうだ。
それもそのはず。何せ当時は、インターネットもスマホもない時代。LINEで「どこにいる?」と送ることも、スマホのGPSで子どもの居場所を確認することもできなかった。
さらに会場の敷地面積は330ヘクタール。これは東京ディズニーラントと東京ディズニーシーを合わせた面積の3倍以上にあたる。とにかく広い。
そんな広大な会場で、どうやって迷子になった子どもと親を再会させていたのか――。
1970年大阪万博の迷子を救った「三種の神器」とは?
1970年の大阪万博では、迷子対策として当時の最先端技術と人の知恵を結集した3つのシステムが機能していたようだ。
(1)迷子ワッペン
※画像はイメージ
ひとつ目は「迷子ワッペン」。これは会場の入り口で配られていたもので、ワッペンの上部には「親」、下部には「子ども」と書かれていて、真ん中に切り取り線がある。この上下を切り離し、安全ピンで子どもの服などにつけて使っていたようだ。
なるほど、これなら人の海となっていたであろう会場でも、“番”となる親子がぱっとわかるようになる。
(2)迷子センター
迷子センターの様子(NTT技術史料館提供)
ただ、これだけでは十分とは言えない。「迷子ワッペン」によって離ればなれになった親子を照合できるとはいえ、どこかで引き合わせる必要がある。
そこで活躍したのが、会場内の約20か所に設置されていた「迷子センター」だ。迷子と思われる子どもは迷子センターで保護された。親も同様に迷子センターに行けば、子どもと会うことができる。
だが、迷子センターは1か所ではない。保護された場所と、親が向かうセンターが別になる可能性もある。
(3)テレビ電話
万博に登場した「テレビ電話」(NTT技術史料館提供)
そこで最後のピースとなったのが、日本電信電話公社(現在のNTT)によるテレビ電話である。
迷子センターに設置されたテレビ電話を通じて、スタッフが子どもに親の顔を見せることで、子どもの不安を和らげ、本人確認の手段としても大いに役立ったという。
こうして1970年の大阪万博では、「迷子ワッペン」「迷子センター」「テレビ電話」という三種の神器が連携し、アナログながらも洗練された迷子対策が実現されていたのである。
さらに三種の神器には、当時の最新技術や試行錯誤が取り入れられていた。どんな部分がスゴかったのか、少し深掘りしてみたい。
「迷子ワッペン」は最先端企業からの贈り物
子ども用ワッペンの下部に使われていた絵柄には「ステレオ印刷」という方式が用いられていた。これは、角度によって絵が動いたり変化したりして見える仕組みで、立体的な視覚効果が楽しめる技術である。キラキラと動くワッペンは、子どもたちにとっても楽しいもので、喜んで胸につけていたという。
しかもこのステレオ印刷、当時としては手間もコストもかかる高度な技術だったため、偽造防止の役割も果たしていたという話もある。
さらに、「迷子ワッペン」には親用と子ども用の両方に共通6桁の番号が記載されていた。
もし迷子になれば、この番号は会場内の案内所にある中央のコンピューターに電話連絡して照合されていた。これにより、親と子がお互いどこにいるかがわかるようになっていた。この内容は、当時の迷子対策パンフレットにも明記されている。
インターネットがない時代に、見た目こそアナログながら、ここまで機能的な仕組みを構築していたというのは驚きだ。実際にどれほどスムーズに運用されていたかは不明だが、その発想と技術の組み合わせには、今見ても感心させられる。
この「迷子ワッペン」と連携システムを提供したのは、「コニカミノルタ」の前身である「ミノルタカメラ」。万博開幕の前年、1969年には、アポロ11号に同社製の露出計「ミノルタ・スペースメーター」が搭載されていたというから、当時のミノルタはまさに“未来の企業”というイメージを持たれていたはずだ。
そう思うと、「迷子ワッペン」は単なる備えではなく、子どもたちにとって未来を感じさせるアイテムだったのかもしれない。
「迷子センター」の驚くべきおもてなし力とは?
「迷子センター」は、この頃から大規模イベントで設置されるようになっていたようだ。ただ、1970年の大阪万博での「迷子センター」は一段と本格的だ。
まず注目すべきは、「迷子ホステス」の存在である。彼女たちは、会場内で迷子を見つけ、案内所へ誘導していた。また、ワッペンの正しい付け方を説明したり、連絡の取次ぎを行なったりと、迷子対策のあらゆる場面で活躍していたという。
「迷子センター」には、今で言う保育士にあたるスタッフが常駐。子どもたちを一時的に保護するだけでなく、安心して過ごせるような環境が整えられていた。絵本やおもちゃ、簡易ベッドまで用意されており、子どものことを第一に考えた空間だったといえる。
さらに、迷子を案内所から「迷子センター」に運ぶための専用車、「迷子サービスカー」まで用意されていた。
筆者もちょうど同じ時代、デパートで迷子になった経験があるが、ただただ不安で、グッと歯を食いしばっていた記憶がある。案内所でパイプ椅子に座らされ、親のお迎えをひとりポツンと待っていた。
それに比べ、当時の万博の「迷子センター」は画期的だったように思う。迷子になった子どもやその親の不安にまで寄り添うという考え方があったのは驚きだ。
今とはまったく違う「テレビ電話」
迷子対策に使われたテレビ電話もまた、当時からすると「未来のアイテム」だった。
NTTの前身にあたる電電公社が1967年に試作を始め、大阪万博に向けて実用化の研究がスタート。研究段階のものが初めて一般公開されたのは万博の2 年前。1970年の大阪万博では迷子対策のほか、案内用として会場内に66台が設置されたという。
この話を聞いて、「へえ、その頃から相手の顔を見ながら通話する技術があったんだ」と感じる人も多いだろう。コロナ禍以降、ビデオ会議が日常になった今では、それほど珍しく感じないかもしれない。
けれど、インターネットに少し詳しい人であれば、「当時の通信方法は今とはまったくの別物だった」と気づくはずだ。
というのも、1970年当時のテレビ電話は、電話線を使ったアナログ方式。映像や音声は、今のように0と1のデジタル信号ではなく、「波のかたち」で送られていた。うまく例えるなら、「糸電話の糸が銅線に変わったような通信」と言えばイメージしやすいかもしれない。
このアナログ方式のテレビ電話は、もともと音声用の回線に無理やり画像を載せたようなもので、画面は白黒、ノイズも多く、今のような鮮明さとはほど遠かった。
それでも、離れた場所で親と子が「顔を見て安心する」という体験は、当時の人々にとって、まさに「未来を先取りした瞬間」だったに違いない。
2025年大阪・関西万博はどんな未来を描くか
あれから55年。スマホ、インターネット、GPS、顔認証など、技術は驚くほど進化した。
2025年の大阪・関西万博では、迷子対策にどんな未来が登場するのだろう。
そう考えると、万博はただの「技術の祭典」ではなく、次の時代へのメッセージなのだと思えてくる。
取材・文/内山郁恵