
2月14日のガンバ大阪対セレッソ大阪の「大阪ダービー」で開幕した2025年Jリーグ。その最高峰リーグに新たに参戦したのが、ファジアーノ岡山だ。2009年から16年間もJ2に長期在籍した彼らにとって、J1昇格は長年の悲願以外の何物でもなかったはずだ。
2025年J1初参戦のファジアーノ岡山・森井悠社長((C)FAGIANO OKAYAMA)
今季最大の注目クラブを率いるのが、42歳の森井悠社長である。彼は木村正明オーナー、北川真也会長に続く3代目社長。2024年に経営トップとなり、いきなりJ1昇格という一大事を体験することになったのだ。
それだけに、本拠地・シティライトスタジアム(現JFE晴れの国スタジアム)で行われた2024年12月7日のJ1昇格プレーオフ決勝・ベガルタ仙台戦を2-0で制した瞬間は感極まったに違いない。
「初代社長の木村オーナーや前社長の北川が涙を流す中で、私は比較的冷静でした。『クラブの長年の積み重ねの中に自分がいるんだ』としみじみ感じましたが、社員やスタッフなどさまざまな関係者への労いの気持ちの方が強かったですね。
ただ、本来の私は3人の中で一番感情的な人間だと思うんです。2010年にクラブに入って1社員として働いていた頃には、木村オーナーに怒られるたびに悔しくて、会社の中で1人泣いているタイプでしたからね(笑)。当時、会社でも『泣き虫・森井』という見られ方をしていたと思います」と森井社長は自身のキャラクターをこう評した。
早稲田の理工学部から筑波大大学院へ。木村正明オーナーとの出会いで人生が激変
そういう人物がなぜ同クラブの社長になったのか。まず森井さんの経歴を遡ってみると、彼は岡山県出身ではなく、千葉県出身だ。有名進学校として知られる県立船橋高校から早稲田大学理工学部に進んだというが、それはJリーグと無縁のキャリアを歩みそうなコース。サッカー好きではあったが、本人もJクラブに入るとは想像していなかったという。「父親がエンジニアだったんですが、進路を相談した際、『コンピュータをやっておけば食いっぱぐれがないんじゃないか』というアドバイスをくれたので、その言葉通り、理工学部の情報学科に進みました。
でも実際に入ってみると、幼稚園の時からコンピュータに慣れ親しんで、プログラミングもやっていたような同級生がゴロゴロいて、小学校1年で初めてファミコンを触ったような自分からすると信じられない環境でした。そこにギャップを感じたのは確か。大学と同時並行で私は母校である高校と、少年サッカーの指導をしていたので、そちらの方に進みたいと考え、筑波大学大学院体育研究科に進学したんです」
同校は日本サッカー協会(JFA)やJクラブのスタッフを数多く輩出している。しかも県立船橋→筑波のコースはJFAの強化・技術畑で要職に就いている小野剛副技術委員長(元日本代表コーチ)と同じ。サッカーの本流にグッと近づいたわけだが、森井さんは卒業後の2008年に一般企業に就職。いったんは別世界の営業になる決断をした。それでも「このままでいいのか」という迷いが拭いきれず、さまよっていた時、元ゴールドマン・サックス証券役員という肩書を持つ岡山の社長の木村さんと面識を持つ機会に恵まれた。
「大学院の同級生が岡山のコーチをしていた縁で橋渡しをしてもらい、木村さんと話すチャンスをいただいきました。木村オーナーはクラブへの愛情・情熱に満ち溢れていて、心から感銘を受けました。『この人の下で働きたい』と思い、履歴書を送り、2010年から転職することになったんです」
2025年J1開幕・京都サンガ戦は華やかな雰囲気に包まれた((C)FAGIANO OKAYAMA)
「新入社員時代は“‘ヤバいやつ”でした」と森井社長も苦笑
こうしてサッカー界に本格参入。最初はスポンサー営業を担当したが、本人いわく「当時の私はできない社員でした」と苦笑する。
「前職の2年間が(2008年秋の)リーマンショックの影響もあって地に足の着いた仕事があまりできなかったため、いわゆる『ホウレンソウ(報告・連絡・相談)』の重要性もまともに理解していなかったんです。
組織の中で誰に報告して、誰の指示を仰ぐのかといったことが分かっていなかったので、私が責任者ではない上司に報告してしまい、混乱が生じたなケースも一度や二度ではなかった。クラブトップである木村オーナーからのメールに対して、携帯電話の絵文字で返したこともあって『俺はお前の友達じゃないぞ』と怒られたこともありました(笑)。今、考えると、かなりの”ヤバいやつ”だったと思います」と今の森井さんからは信じられないようなエピソードを口にした。
ビジネスパーソンとしての基本常識を再認識するまでに2~3年かかったというが、その間も木村さんは時に厳しくも温かく見守ってくれた。当時の岡山はクラブスタッフ20人くらいの小規模所帯で、1人1人がフル稼働しなければ業務が回らないという事情もあったのだろう。「森井さんのような若手を早く一人前にしたい」という思いが木村さんの中にも強くあったのではないか。
「最初は何もできないので、ひたすら電話を取ろうと頑張っていたのですが、私は岡山出身じゃないので、相手方のイントネーションが聞き取れずに困惑することもありました。土地勘もなく、学ぶべきことも多かったですが、周りの助けもあって慣れていきました。
法人営業としては、20億円以上・30億円以上・50億円以上の企業を地元経済雑誌の企業年報を参考にピックアップして、『どうしたらその会社のトップに会えるか』をずっと考えていました。1つの策は既存のスポンサー企業から紹介していただくこと。もう1つは木村オーナーの講演会を開催し、そこに多くの企業関係者を招待して名刺交換させていただくという形を取りました。
『営業スタッフは毎年1人当たり1000万円増額を目指す』という目標があって、チームに5人いれば全員がお互いをサポートしながら達成させようとしていたんですが、毎年何とかこなしていたという感じです」
2016年には岡山が初のJ1昇格プレーオフに参戦。決勝でセレッソ大阪と激突し、敗れたものの、初めて最高峰リーグ参戦が具体的に見えてきた。その頃には森井さんもスポンサー営業経験を積み重ね、ある程度の仕事をこなせるようになっていたようだ。