
未来を予見するSFの世界を描く「パラレルミライ20XX」は、技術進化と人間性の融合や衝突をテーマにした連載小説です。シリーズでは、テクノロジーによる新たな現実やデジタルとアナログが交錯する未来像を描きます。
『星影タクシー』
海辺の倉庫街に薄い霧が漂っていた。まだ夜が始まったばかりなのに、街にはどこか疲弊した空気が満ちている。港湾都市という表現から想像される活気は、昼間だけの幻に過ぎないのかもしれない。最近では昼さえも短く、太陽が傾きかけた頃には、街の人々はネオンの光をあてにし始める。
そのネオンがまた、やけに色彩が濃い。緑や紫の蛍光灯が通りを照らし、建物のコンクリ壁に不気味な影を落とす。外灯の下では、いかにも危険な交渉が行われている気配さえ感じられた。誰もが夜の長さを疑問に思いながらも、あえて深く追求せずに流されている、そんな印象だ。
その街の外れを、一台のタクシーがゆっくりと走っていた。シンプルな黒塗りの車体。しかし、よく見ると右後部ドアの塗装が剥がれ、そこに星形の模様が浮かんでいる。
星形とはいっても、整った五芒星ではなく、ふとした傷や剥がれの具合が重なって自然にできた形だ。だが、街灯やネオンサインを受けると、その部分だけが妙に艶めいて見える。いつの頃からか、このタクシーは「星影タクシー」と呼ばれていた。
運転席に座るのは、三十代半ばの男・久慈。穏やかな目つきをしているが、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。ルームミラーに映る自分の顔を見ても、そこに疲労の色しか浮かんでいないことを自覚する。
「今夜も空振りだな……」
しばらく乗客が現れないまま、彼は小さくつぶやいた。タクシー営業としては繁華街に近寄った方が客は拾いやすいが、今夜はなぜか心がこの寂れた港の方へ向いていた。呼ばれるように車を走らせ、倉庫街まで来てしまったのだ。
以前は深夜でも貨物を扱うトラックが多く行き交っていたこのエリアも、最近はさっぱりだ。夜が長くなるに伴い、物流のスケジュールが狂い始め、徐々に業者が離れていったという話を耳にしている。
そんな閑散とした道を、星影タクシーは速度を落として進む。右後部の星形模様が、ぼんやりと光の反射を受けるたびに久慈の意識を引き寄せる。車体の傷なのに、いつのまにか愛着すら感じる部分だ。
やがて、低いクラクションが遠くで鳴るのを合図に、久慈はハンドルを切った。どこへ向かっているのか、自分でもよくわからないが、心のどこかで呼ばれている気がする。いや、単なる気のせいかもしれない。そう思いつつも、彼は車を停めずに進んでいった。
実は、久慈がこの街でタクシー運転手として生計を立て始めたのは数年前のことだ。それ以前は海を渡る貨物船の乗員として働いていた時期もあり、港や倉庫街にはそれなりに馴染みがある。しかし彼は、業績不振をきっかけに船員の仕事を降りざるを得なくなった。帰港の際、船会社の都合で仕事の補償を受けられず、路頭に迷った時期があったのだ。
そんなとき、この港湾都市の多国籍な活気と、人々の流れに惹かれた。事故の記憶や生活苦から逃れるようにして始めたのがタクシー営業。それ以来、昼夜を問わず街を流し続けているが、その先には何があるのか、久慈自身もわからない。ただ、夜の倉庫街には言いようのない居心地の良さを感じることだけは確かだった。
この街の名は「蘭影(ランイン)」。
大河の河口に広がる、魔都上海を思わせるようなエキゾチックで国際色豊かな港湾都市だ。蒸気船が桟橋に横付けされ、遠洋航海から戻ったばかりの船乗りたちが貨物を降ろす。運ばれる積み荷には、香辛料や絹、珍しい機械部品や古美術品までありとあらゆるものが含まれている。
昼間は陽の光の下、世界各国の商人や労働者たちが活気ある取引を行う。公用語は定まっていないかのように、各国の言葉が街角で飛び交い、旅行者が好奇の目を向けて歩いていく。色とりどりの看板、コンクリ造りの高層ビル、そして煉瓦造りの古い倉庫が同居する摩天楼群の合間には、雑多な飲食店や屋台がひしめいている。
しかし、日が暮れると同時に様相は一変する。かつてはオレンジ色のランプがともされ、異国情緒をかもし出していたこの港町も、いつの頃からか怪しげなネオンが幅を利かせるようになった。蒸気と煤煙(すすけむり)をまとった路地裏には、多言語が入り乱れる酒場や賭場があり、人々はひそひそと闇の取引や情報交換を繰り返す。
さらに最近では、奇妙な新技術が一部で試験的に運用されはじめたとの噂が絶えない。蒸気機関や石炭燃料が主力の時代にありながら、「新型燃料」や「不思議な動力装置」が存在するという。政府公認の研究機関だけでなく、海外企業の支社や裏社会の組織までもが、目に見えない形で特許や発明権を争っているらしい。
そんな噂の真相は久慈のような一介のタクシー運転手には縁遠い話であるはずだった。だが、街を流しているとき、乗せる客の話し声や車窓から見える風景の一端から、否が応でもこの街の裏事情を感じ取ることがあるのだ。
今夜の倉庫街はいつにも増して冷え込んでいる。夜の霧が港の水面を覆い、背の高いクレーンや貨物の積み上げられたコンテナが、ネオンライトに照らされて巨大な影をつくる。その合間を縫うように、久慈のタクシーはゆっくりと走っていた。
周囲はひっそりとして人影が見えない。さすがに客を拾うには不向きな場所だと思いながらも、久慈はこの空気感に妙な居心地の良さを感じていた。おそらく彼の中にある「疲れ」や「孤独」が、この場所の静寂さと共鳴しているのだろう。
この街が「蘭影」と呼ばれるようになったのは、今から何十年も前、東西の列強国が港の開発に関わった時期に遡るらしい。大河の河口に位置するという地理的利点から、かつては「ラン・イン」という現地の言葉で「湿地の映り影」を意味していたと言われている。
しかし海外企業が出資し、大規模な埋め立てと港湾施設の拡張工事が行われると、華やかな繁栄の裏で多くの労働者や移民が流入し、複数の言語や習慣が混在する街へ変貌していった。貧富の格差が広がると同時に、夜の娯楽や闇取引が盛んになり、いつしか「蘭影」は魔都の異名をとるようになった。貿易品の往来とともに外来文化が流れ込み、独特の風俗や芸術も花開いたが、治安維持や秩序維持のための官憲による取り締まりは追いつかず、裏社会が根を張る格好になったのである。
こうした背景を知るにつれ、この街のネオンや霧は単なる景色ではなく、さまざまな思惑や歴史を映す鏡のようでもあった。やがて、その鏡の奥底から滲み出るように、夜の港を包む穏やかな波音が微かに聞こえ始める。遠くに浮かぶ貨物船が港に戻る合図かもしれない。そこでふと、久慈の耳にかすかな物音が聞こえる。
トン、トンと一定のリズムで金属を叩くような音だ。タクシーのエンジン音や街の喧騒をかき分けるほどではないが、耳を澄ませばたしかに感じられる。倉庫の奥から誰かが作業しているのかもしれない。あるいは今宵も、裏で何らかの取引が行われているのだろうか。
「今日はこの辺りで引き返すか」
久慈はそんなことをぼんやり考えながら、ハンドルを切り返す。霧に包まれた奥へ進むでもなく、一旦繁華街方面へ戻ろうとしたそのとき、タクシーの前方に人影が立ちふさがった。
視界を遮るほど濃い霧でもない。見れば、それは長いコートを羽織った男の姿だった。彼は左手を少し上げて合図する。タクシーを止めてほしいというジェスチャーだ。
「こんな場所で客が?」
一瞬驚きはしたものの、久慈はすぐに車を停める。客商売である以上、人里離れた場所であろうと人を見かければ乗せるのが当然だ。
「乗りますか?」
ウィンドウを少し下げて久慈が声をかけると、その男は小走りで助手席側までやってきた。ドアを開け、息を弾ませながら後部座席に乗り込む。まだ四十路を目前にした頃合いだろうが、顔立ちには疲れが色濃く、しかし目は警戒に満ちていた。
「助かるよ、こんな時間にタクシーがいるなんて思わなかった」
久慈は客の服装をちらりと見る。コートは上質だが、裾が少し泥はねしている。革靴にも汚れがついているのは、どこかの路地を走ってきたからか。
「どちらまで?」
そう尋ねると、男はしばし黙って何かを考えるような素振りを見せる。
「……ああ、そうだな。とりあえず中央区の摩天楼地帯まで頼むよ」
中央区とは、蘭影の中心部だ。高層ビルが林立し、外国企業の支社や大きな商社が数多く並ぶビジネス街であると同時に、高級ホテルや映画館、劇場が集まる華やかな地域でもある。昼夜を問わず人通りが多い場所だが、さすがに深夜ともなると観光客の数はぐっと減る。
「かしこまりました」
久慈は短く答え、アクセルを踏んだ。霧の中から抜け出すようにタクシーはゆっくりと倉庫街を後にする。
しばらくの沈黙の後、男の方から口を開いた。
「この辺り、最近はすっかりさびれてしまったね。昔はもう少しトラックや船員たちが行き来して、賑やかだったんだが」
「そうですね。夜が長くなるにつれて、みんな早めに店じまいするようで」
久慈はルームミラー越しに男を一瞥する。どこかの会社員なのか、それとも裏社会の人間か。コートの下から覗くスーツは、質は良さそうだが着こなしは少し乱れている。仕事帰りという雰囲気でもない。
「ところで、なんでこんな倉庫街に?」
運転しながら自然な調子で尋ねると、男ははぐらかすように笑った。
「いや、ちょっと知り合いを探してたんだ。会えなかったけどね」その言葉に嘘が混じっているかどうかを久慈は判断しようとしたが、はっきりとはわからない。ただ、なにか切迫した事情があるようには思えた。
タクシーが倉庫街から少し離れた大通りに出ると、街路灯とネオンが徐々に存在感を増してきた。倉庫やクレーンの無機質な景色から、低層の飲食店や倉庫を改装したバーが並ぶエリアへ移行していく。人通りこそ少ないが、ちらほらと酔客らしき人影も見える。その光に照らされるたび、右後部の星形の剥がれが鈍く光を反射する。久慈はミラー越しにそれを何度か見やりながら、いつものように不思議な愛着を感じた。
「このタクシーの……そこ、なにかのマークなの?」
男が目ざとく気づいたらしい。後部ドアに刻まれた星形を見て、低い声で尋ねる。
「塗装が剥がれてできた傷跡です。最初はただの汚れだったんですが、いつの間にか星形っぽく見えるようになって。変に目立ってしまってますが」
「へえ……なかなか面白いね。『星影タクシー』なんてあだ名がついたりしてない?」
その言葉に久慈は少しだけ驚いた。まさにその名前で通っている。しかし、こんな場所で、しかも初対面の男が即座にそれを口にするとは。
「そりゃ、まさにその通りです。どうしてご存じで?」
「いや、実は前々から耳にしたことがあってね。『星影タクシー』って不思議な呼び名だなと思ってた。古いけどどこか味があるし、特にその傷跡がよく目立つという噂をね。実物を見られて嬉しいよ」
男の口調はどこか和やかで、先ほどまでの警戒心は少し解けているように聞こえた。
蘭影のタクシー業界は大手もあれば個人営業も多い。久慈のように自前で中古車を買ってひとりで営業しているドライバーは珍しくないが、車体の特徴から名が知れ渡るのはあまり多くはない。よほど奇妙な事件に巻き込まれたか、あるいはこの男が噂に敏感な性分なのだろう。
「星影タクシーか。いい呼び名だ」 男はどこか楽しそうにつぶやいた。
タクシーは大通りの運河沿いに伸びる道に差しかかる。街の中心部に近づいてきた証拠に、建物の高さが次第に増してきた。鋼鉄とガラスでできたビルが並び、古めかしい街灯に交じって電飾看板が派手に灯る。霧が薄くなった分、ネオンの光の揺らめきがくっきり見えるようになった。
夜の蘭影は不思議な活気に満ちている。明らかに足取りのおぼつかない酔客や、貴族らしき身なりの男女が乗馬車ならぬクラシカルな自動車に乗って移動する姿も見えた。
国際都市というだけあって、人種も服装も多種多様だ。ここでは誰もが自分の居場所を求め、時に欲望をさらけ出し、時に怪しい儲け話を追い求める。
そんな喧騒を窓越しに眺めながら、男はぽつりと呟いた。
「君はこの街で長くタクシーをやっているのか?」
「まあ、それなりに。もう三、四年にはなりますかね」
「いろんな客を乗せたんだろう? 中には奇妙な連中もいたんじゃないか」
久慈は少し笑う。確かに、蘭影には普通じゃない人々が多い。だがそれは誰にとっても同じで、個人の「普通」が通じる街ではない。
「奇妙かどうかはわかりませんが、色んな国の方や、色んな事情を抱えた方をお乗せしてますね」
「そうだろうな。……たとえば、科学者とか研究員とか」
男の言葉に久慈は微妙な違和感を覚えた。科学者や研究員という言葉が、急にここで出てくる理由は何なのか。まさか妙な研究絡みの闇取引に関わっているのではと警戒心が頭をもたげる。最近、街では新技術や特許をめぐって動きがあるという噂を聞いていたからだ。
「そういうお客様がいらっしゃったかもしれませんね」
曖昧に応じると、男はそれ以上追及しなかった。
やがて、中央区の摩天楼が見えてきた。巨大なビル群が夜空を切り裂くかのようにそびえ立ち、ガス灯と電飾看板が入り混じった独特の景観が広がる。道行く車も増えて、時にはクラシカルな汽車が高架を轟音とともに通過する。闇を切り裂くような蒸気機関の笛の音が耳をつんざく。
「この辺りでよろしいですか?」
久慈は車を減速させ、繁華街へと続く大きな交差点手前で男に声をかけた。すると男は心なしか落ち着かない様子で窓の外を確認している。
「……そうだな、いや、もう少し先まで行ってくれ。ホテル・サザンクロスの前で降ろしてもらおう」
ホテル・サザンクロスは蘭影でも指折りの高級ホテルだ。政財界の要人や海外の富豪が宿泊することで有名で、そこで開かれるパーティは常に注目の的になる。この男、そんな高級ホテルに泊まるような人間なのか?と疑問が浮かぶが、客の事情に首を突っ込むのはタクシー運転手としてタブーだ。久慈は目立った感情を表に出さず、指示通りにホテルの正面玄関へタクシーを着ける。
「ありがとう、助かったよ」
男はそう言うと、シートから降り、料金を支払う。意外にも気前よく、チップのような形で余計に渡してくれた。
そしてドアを閉める間際、ちらりと星形の傷に視線を送る。
「……また機会があったら乗せてくれ。星影タクシーさん」
男は意味深な微笑みを残して夜の闇へと消えていった。どこか引っかかるものを感じながらも、久慈は男を見送る。ホテルのボーイが丁重に彼を案内している姿から察するに、少なくとも宿泊客には違いなさそうだ。
そのままホテル近辺の通りをゆっくり走らせていると、再び手を挙げる客が現れた。ここは深夜でもタクシーを拾う人がいる場所だ。賑やかな歓楽街ではないが、ハイクラスのクラブやレストランが点在しているエリアで、ドレスアップした女性や背広の男性がタクシーを探す姿をよく目にする。
案の定、次の客は明らかに夜の社交界から出てきたばかりといった装いの女性だった。ロングドレスにショールを羽織り、手には小さなクラッチバッグを持っている。
「乗せていただけるかしら?」
声は上品だが、わずかに酔いの回った厚みがある。久慈は助手席側の窓を開けて頷く。
「はい、どうぞ。どちらへ?」
「円環区(えんかんく)の方までお願いしたいの。わかる?」
円環区は蘭影の街をぐるりと取り囲むように配置された環状地区で、地元では「円環区」と呼ばれている。外国人居住区や、旧市街の一部エリアも含まれているが、実際はとても広い。
治安は場所によってまちまちで、富裕層が住む高級住宅街と、職人や労働者が集まる下町地区が混在している。
「もちろんです。もう少し詳しく住所を教えていただけますか?」
女性はバッグからメモの切れ端のようなものを取り出し、慣れない手つきで住所を読み上げる。その紙には妙に外国語が混じった地名が書かれていた。
「そこは……ああ、はい、わかりました。では出発します」
久慈はエンジンをかけ直し、先ほどまでの男とはまた違う雰囲気の客を乗せて走り出す。
「今夜はパーティか何かでしたか?」
夜のタクシーで頻繁にある世間話のひとつとして、久慈はそう尋ねる。すると女性は少し表情を曇らせた。
「ええ、まあ……。商社のレセプションだったんだけど、ちょっと気が滅入ることがあって途中で抜けてきちゃったの」
その言い方からして、何か嫌なことがあったらしいが、ここで詳しく聞き出すのは野暮というもの。久慈は軽く相槌を打つだけに留めた。
「……それで、今から帰ろうと思ったんだけど、タクシーがなかなか捕まらなくって。星形のマークがすてきね。変わってるわ」
またしても星形の塗装剥がれに言及される。ネオンや街灯の光を反射して、夜目にも映えるらしい。
「ありがとうございます。いつの間にかああなってしまって、私も気に入っているんですよ」
女性はそれを聞いて、ふっと微笑んだ。
「そう……。何だか縁起がいいじゃない。星の模様……希望を感じるわ」
希望、という言葉が意外に響く。こっそりと苦笑する久慈。希望はともかく、今日の稼ぎはどうなるだろう。そんな世俗的な考えが頭をかすめた。
車内には柔らかい香水の香りが広がっている。女性は窓の外を眺めながら、小さく溜息をつく。久慈はあえて話題を振ってみることにした。
「商社のレセプションということは、大手企業の方ですか?」
「そう。私は直接の社員じゃないんだけど、取引先の関係で招待されたの。最近、蘭影では新しい技術に関する話が盛り上がっているでしょ? うちの会社も絡んでいてね。新型燃料だとか、次世代のエンジンだとか……」
やはりその手の話題か、と久慈は心の中で合点がいった。先ほどの男が気にしていた「研究者」や「科学者」と無縁ではなさそうだ。
「そんなにすごい技術なんですか?」
「詳細は知らないわ。でも、いわゆる特許戦争ってやつよ。どこの企業が先に発明を抑えるかで大金が動く。正直、私には理解できない世界よ。あのパーティでも色々な国の研究者や投資家が集まって、激しい駆け引きをしてた」
女性は目を伏せ、言いづらそうに続けた。
「そこで私の上司が、外国人の研究者とどうもきな臭い話をしているのを見ちゃったの。それで嫌気が差して帰ってきたわけ。だから、今夜はこのまま忘れたい……早く家に帰りたいわ」
なるほど、と久慈は思う。一介のタクシー運転手にとって直接関わりはない話題のように思えるが、この蘭影では誰しも、いつどこでそういう話に巻き込まれるか分からない。特許をめぐる利権争いには、ときに武力や裏社会が関与することもあると噂されているのだ。
「早く落ち着くといいんですけどね……街も、みんなも」
久慈はそう返事をしたが、自分の言葉がどこか空虚に響いた。夜が長くなり、街が変わり始めているのは確かだ。まるで何かを孕んでいるかのように、不穏な空気を感じる。
しばらく走ると、次第にビルが低くなり、煉瓦造りの建物や昔ながらの木造家屋が増えてきた。そこは円環区の一部で、外国人居住区や移民街とも隣接している。店先に多国語の看板が掲げられ、異国情緒が一層濃厚になるエリアだ。
酔客や夜遊び帰りの人々は少なくないが、賑やかな場所を通り過ぎると、脇道に入り込んだ途端に静まり返る。路地裏は薄暗く、かすかなランプの光に照らされた人影が動いているのが見える。こういった場所では、表向きには語られない商売や事情が蠢いているものだ。
「このあたりで合ってるかしら……?」
女性は紙に書かれた住所を確認しながら、まわりをきょろきょろと見回す。初めて来る場所なのかもしれない。
「もう少し先ですね。あと数分で着きますよ」
久慈は地図を頭に描き、車を慎重に進めていく。
角を二つ曲がった先に、古めかしい門構えの建物があった。表札を見ると外国語が併記されており、どうやら下宿屋か何かのようだ。
「ここかしら……。」
女性は料金を払ってタクシーを降りると、しばらく建物の前で佇んでいたが、やがて意を決したようにドアの呼び鈴を押した。
「ありがとうございました」
そう言って彼女がタクシーに向かって小さく頭を下げたとき、下宿屋のドアが開き、中から管理人らしき初老の男性が顔を出す。女性を招き入れる様子からすると、少なくとも無事に到着したようで何よりだ。
久慈はそこから再びタクシーを走らせた。深夜の乗客のパターンもさまざまで、こうして人を目的地へ送り届けるたびに、蘭影の街の新たな風景を垣間見る気がする。その下町を抜けるころ、路地の角で言い争いをする二人組が目に入った。ひとりは白衣を羽織った細身の男。もうひとりは、警戒心の強そうな作業服姿の中年女性だ。
「だから言ってるだろう、新しい燃料が実用化されれば、夜の物流も安定する。港で積み荷が滞ることも減るはずだ。これは蘭影を変える大きな一歩なんだよ!」
「あんたたち研究所の連中はそう言うけどねぇ。結局は、うちら普通の労働者が切り捨てられるんじゃないかい? 石炭運搬の仕事がごっそり減るって噂もあるし、技術者が入り込んできて人手が要らなくなるかもしれないんだよ」
白衣の男は苦笑いしながら首を振る。
「時代が変わるのは仕方ない。それに、新型燃料が定着すれば大気汚染だって減るんだ。市民の健康にはプラスだろう?」
「健康は助かるけど、失業じゃ食ってけないよ…。しかも、新技術を悪用する連中だっているんだろ? 治安はどうなるんだい?」
どちらの言い分も一理あるように思えた。久慈はタクシーを徐行させながら、ちらりと様子を窺う。彼らの背後には「実験用パイプライン敷設工事」などと書かれた看板が見える。どうやら政府の研究機関が下町で何らかの試作装置を導入しようとしているのかもしれない。
「まさしく賛成派と反対派、入り乱れてるってわけか……。この街が二分されていくのかもしれないな」
久慈はため息混じりにタクシーの窓を少し閉める。聞かない方が無難な話題もあるのだ。
「もし急激にこんな新燃料へ移行したら、この街のインフラはどうなる? 蒸気機関が無くなれば、港湾労働者や輸送業者の多くが職を失うだろう。いくら環境が改善するといっても、混乱の方が先に来るかもしれない……」久慈はそんなことをぼんやり考えながら、ハンドルを握り直した。
再び円環区の外縁を走り出すと、噴き上がる蒸気とともに夜間運行の汽車が通過する高架を見上げる。古めかしい汽笛が耳に響き、何とも懐かしい気分になる一方で、どこからか奇妙な動力音も聞こえてくるような気がした。
最近は「新型エンジン」だとか「革新的な燃料」などといった噂話を耳にすることが増えた。まだ一般市民の目に触れる機会は少ないが、一部の企業や組織が密かに試験しているらしい。今夜の客たちの会話を総合すると、その背景には特許争いや国家を跨いだ利権の衝突があるのだろう。
久慈にとっては遠い世界の話だったが、もしこれらの技術が本格的に普及すれば、いずれ自分のようなタクシー運転手にも影響が出るかもしれない。いま運転している内燃機関車が時代遅れとなり、燃料不足に陥るようなことがあれば死活問題だ。
一方で、「新型エンジンを搭載したタクシー」が登場する日も来るかもしれない。星影タクシーの噂が消え去るのも、もしかしたらそんな未来の一端にあるのかもしれない。
「……まあ、それまで食いつなげりゃいいさ」
誰に聞かせるでもなく、久慈はひとりごとを言う。
蘭影の交通や産業を支えているのは、今もなお蒸気機関や石炭燃料が主流だ。高架を走る汽車は蒸気機関車であり、街の発電所も大半が石炭で稼働している。とはいえ最新の研究では、石炭に代わる特殊オイルやガスを用いた機関が開発中という噂も飛び交っていた。なかには「歯車と圧縮蒸気の合わせ技で、船を浮かせるほどの推進力が得られる」とか、「異国の研究者が発明した電気仕掛けの動力源が既に軍部に納入されている」とか、どこまで真実かわからない話があちこちに広まっている。
最近ホテルのレセプションや商社のパーティで大騒ぎになっている特許や技術は、その延長線にあると言われていた。
久慈が乗るタクシーも、中古の内燃機関車を改良して使っているが、周囲の企業が一気に新燃料へと移行すれば、ガソリンが手に入らなくなる恐れさえある。蒸気と内燃、そして謎の新型エンジンが交差する時代の狭間、それが今の蘭影なのだ。そんな過去と未来が同時に行き交う気配を映すかのように、夜明け前の港では、まだ消えきらない月と星が蒸気船の汽笛にかき混ぜられていた。
朝焼け前のわずかな時間帯、蘭影の港にはまた新しい船がやってくる。蒸気船の汽笛が、まだ消えきらない月と星の光をかき混ぜるように響き渡る。
久慈の「星影タクシー」は、かつての海岸線沿いを埋め立てて造られたという波止場近くをゆっくりと走っていた。古い倉庫が並ぶこの一帯には、南洋から運ばれてきた香料の匂いや、揮発性の薬品、機械油の入り混じった独特の空気が漂う。
時代の狭間に置き去りにされたような、朽ちかけた煉瓦造りの建物に、仄暗いランプがぶら下がっている。その光が霧のなかで揺れ、まるで星々が地上に降りてきたかのようにも見えるのだ。
久慈は運転席の窓を少し開け、その匂いを胸一杯に吸い込んだ。妙な胸騒ぎと、どこか浮遊感じみた感覚が混じり合う。昨夜の一連の出来事が、まるで遠い昔の夢のようにも思えてくる。 タクシーの右後部ドアに刻まれた星形の塗装剥がれが、霧に濡れて淡く光っているのがサイドミラーに映る。久慈は思わずそこに目を奪われた。
これが俺をどこかへ呼んでいるのかと、一瞬、そんな馬鹿げた想像が脳裏をかすめた。やがてタクシーは人気のない停留所付近で停車する。そこで何気なくエンジンを切り、久慈は海辺に降り立った。夜明け前特有の空気は、湿度を孕みながら薄っすらと白んでいる。船乗りたちの活気が少しずつ戻ってくる朝。けれど、この街に染み込んだ夜の気配は、まだ完全には消え去っていない。それどころか、かえって夜明け際こそが最も怪しげなものを浮かび上がらせるようにも思える。
倉庫の陰で何かが動く気配がした。久慈は思わず身構えたが、そこにはいくつもの黒い影が絡み合っているだけで、人の姿ははっきりとは見えない。
「星影タクシー……か」
久慈は誰にともなく呟く。まるで自分が、そのタクシーの操縦士ではなく、車の方に操られているような気さえしてくるのだ。桟橋の向こうでは、金属のレールを運ぶクレーンの影がうねるように揺らめいている。遠くからは貨物列車の汽笛が聞こえ、かつての喧騒を取り戻そうとするかのように、港湾施設が動き出す気配がある。しかし、久慈はふと違和感を覚えた。何かが重なっている。
朝の気配と夜の残滓(ざんし)が同時に押し寄せ、互いに浸食し合っているかのような、奇妙な時間の二重奏を感じるのだ。背後でタクシーのエンジンがコトリと揺れる音がした。故障ではないはずだが、どこか不安定な鼓動を刻む。ボンネットからうっすら立ち上る湯気は、まるで生き物の呼吸のようにも見える。
ああ、俺は今、どこにいるんだ?そんな問いが久慈の心に生まれる。間違いなく蘭影の港湾区にいるはずなのに、まるで自分が知らない世界の入り口に立っているような感覚だ。 そのとき、耳慣れない異国の旋律が微かに聴こえてきた。調子を外したサックスかフルートのような響き。きっと、近くのバーかクラブから流れてきているのだろうか。人通りのないはずの波止場に、いつのまにか赤いランプが点々と灯り、宵の名残を示すようにちらちら瞬いている。
朝と夜の境界がぼやける。この街では当たり前の現象なのかと、久慈はふと思う。あえて深追いはしない。ずぶずぶと入り込めば、正常と狂気の区別がつかなくなりそうだからだ。
タクシーに戻ると、いつのまにか助手席に人影があった。
「おや、驚かせてしまったかしら」
濃紺のローブを纏った女。まるで修道女か巫女か、そんな不思議な装いだ。深く被ったフードの奥から、微笑だけが見えている。「すみません、ドアのロックをかけていなくて……」久慈が戸惑いながら言うと、女はさらりと答える。
「まるでわたしを招き入れるように開いていたみたいね」
その言葉には妙な含みがあり、久慈は何か得体の知れなさを感じる。だが、タクシー運転手としては客が乗った以上、まずは目的地を尋ねるのが先だ。「どちらまで?」
彼女はローブの袖口から細い指を伸ばしこう言った。「夜の果て、あるいは星の入り江……そうね、あなたの行きたい場所へ」 不可解な答えに久慈は眉をひそめる。
「困りますね、具体的な場所を言ってもらわないと」
すると彼女は、フードの奥で小さく笑ったようだった。
「海辺の先に見える、あの青いクレーンの隙間を抜けて。そうすれば、きっと辿り着くでしょう。昔は『ゼファー桟橋』と呼ばれていた場所よ」
ゼファー桟橋に久慈は聞き覚えがなかった。しかし、この街の古地図には載っているかもしれない。かなり昔に一度だけ使われた埠頭の跡と、誰かが語っていたような気もする。ともかく、客の言う通りに車を動かしてみるしかない。タクシーのエンジンをかけ、港湾区の外れへ向かう。倉庫街を越え、打ち捨てられた鉄柵を回り込み、さらに奥へ。貨物線路の痕跡がかすかに見える。そこはまるで、廃墟の集合体だ。
かつて、とある研究所が局所的重力シフトと呼ばれる実験を行い、この桟橋周辺で空間の歪みを生んだという噂も耳にしたことがある。失敗だったのか成功だったのか、今となっては誰も知らないが、この街が異界と通じやすくなった原因のひとつかもしれないと囁く者もいる。朝焼けに混じる霧のなかで、遠くに青いクレーンのシルエットが浮かび上がった。錆びついた巨大なアーチは、どこか垂れた翼のようにも見える。 運転しながらルームミラーを覗くと、助手席の女はじっと前方を見つめている。フードの奥にある瞳は見えないが、かすかに月光の残照のような輝きが瞼の奥から漏れてくるように思える。
「ここから先は……気をつけた方がいいわ」
女が唐突にそう告げた。
「ええ、私もこんな道、初めて走りますから」
「この街の夜は、まだ終わっていない。この車の星形の模様が、どんな景色を開くかは、あなた自身も知らないでしょう?」
この女の言うことは、なぜか不気味な説得力をもって久慈の心を撫でていく。
タクシーは錆色のゲートをくぐり抜け、断ち切れた線路をまたぐ。すると目の前に、かつての桟橋が広がっていた。コンクリートが崩れかけ、波止場の縁には異国語の書かれた朽ちた看板が落ちている。
あたりは一面の霧と、鉄骨の残骸。明るみを帯びる空に、巨大なクレーンの骨組みが蜘蛛の巣のように伸びている。人の気配はまったくない。徐々に車の速度を落とすと、運転席と助手席の間を薄い海風が通り抜けるような感触があった。まるで車内の境界が、外の世界に溶け合っていくかのようだ。そのとき、左後部ドアがコンコンと叩かれる。誰も乗っていないはずの席、まるで亡霊がノックしているような音だ。
「あら、またお客さんかしら?」
ローブの女が軽やかに言う。だが久慈にはピンとこない。こんな廃桟橋のどこに客がいるというのだろう。久慈はブレーキを踏んで車を止め、彼女の視線を追い、シート越しに後方を振り返った。「え……まさか……」そこには、確かに人影が浮かんでいた。黒いコートをまとい、顔立ちがよく見えない。その姿は揺らいでいて、海霧と同化しているかのようだ。久慈は意を決して、ドアの窓を数センチほど開ける。
「どちらまで……?」呼びかけに答えはなく、代わりに、低いうなり声のような音が微かに聞こえてくる。まるで遠くから吹く風が、言葉の欠片を運んでいるかのような。ノイズ混じりのラジオを聞いているようで、意味ははっきりしない。すると、ローブの女が助手席でフードをわずかにずらし、素顔をちらりと覗かせる。白い輪郭と、そこに浮かぶ星のような瞳。
「開けてあげて。あの人、乗りたがっているみたいよ」
淡々とした口調だが、なぜか不思議な説得力があった。久慈は逆らう気になれず、ドアロックを解除して外に出て後ろのドアに向かった。しかし、そこには人影は見当たらない。「……なんなんだ、今のは」そのとき、ふと左後部ドアを見やれば、塗装がわずかに剥がれた跡が星形の輪郭を描いていた。右側の星形とちょうど対になるように。
戸惑いつつも運転席に戻ると、助手席にいたはずのローブの女の姿はいつのまにか消えていた。まるで最初から存在しなかったかのように車内はしんと静まり返っており、廃桟橋にただ一人取り残された久慈が不可解な出来事に困惑していると、ふっと霧が切れた瞬間、車の周囲にはまるで夜空のような漆黒が広がっていた。
「夜が……戻ってきた?」
久慈は愕然とする。先ほどまで確かに夜明けが近づいていたはずなのに、今は満天の星だ。しかも、見覚えのない星座が幾重にも重なって見える。その星々の光が、タクシーの左右のドアに刻まれた二つの星形を照らし出す。それは光を返す鏡のように輝き、闇の中で相対するように輝いていた。
タクシーは走り続けていたのか、それとも漂流していたのか。気づくと、車窓の外に見えるのは蘭影の街……のようでいて、どこかが違う。摩天楼やネオンは確かにあるが、その形状はまるで万華鏡を覗いたように歪み、増殖し合っている。
高層ビルと雑多な路地が重なり合い、蒸気機関が空中を縦横無尽に走り、水滴が夜空へと逆さまに落ちていく。路面には何かしら文字らしき記号が蠢いているが、よく見るとそれは路面のひび割れの奥から立ち昇る光かもしれない。霧の街灯やネオンの色が過剰に鮮やかで、どこか宇宙の寓話を思わせる。久慈は「ここが俺の知る蘭影なのか?」と戸惑うが、答えはない。
そんな不可思議なままタクシーの周囲を、ねじれた街の通りがすり抜けていく。いつしか人影や車両が交錯する光景が見え始めた。だが、その人々の衣装や言語が一切分からないほど混沌としている。古いチャイナドレス、欧州仕立てのスーツ、摩訶不思議な民族衣装、そして、蒸気機関の歯車を背負ったまま歩く職人までもがいる。まるで「可能性としての蘭影」がここに集結しているかのようだ。
ハンドルを切ろうとしたが、ハンドルはゆるやかに意志をもって回る感じがする。久慈は抗わず、タクシーに身を委ねることにした。
やがて、交差点のような場所に差しかかると、突然タクシーがブレーキを踏んだかのように止まり、ドアが勝手に開く。
「お、お客様……?」
運転手の習慣で思わずそう振り向きながら声をかけると、車外の闇から人影が乗り込んできた。それは先ほど倉庫街で拾ったはずの男性客にも似ているが、顔がぼやけている。
「おい、ここはどこなんだ? 俺は、特許……エンジン……騒ぎ……」
断片的な言葉しか拾えない。男は首をがくりと垂れ、車内で眠り込むように消えていく。するとまた、タクシーのドアが自動的に開き、今度は別の人影が乗り込む。煌びやかなドレスを纏った女性、陽気に歌いながら酔っている船員、手に奇妙な機械仕掛けを提げた技師。皆、あわただしく乗っては消え、乗っては消え、まるで実体をもたない幻影のように去っていく。それでも、いずれもが、どこかで久慈が見かけたことのある顔や衣装だ。星影タクシーは、時空の狭間を転がるように客を拾い、客を降ろしているのだろうか?「俺は……夢を見ているのか、それとも街全体が夢のなかにあるのか……」
久慈は混乱しながらも、次々と現れる乗客の欠片に、かすかな郷愁を感じていた。いつのまにか車内のメーターが不思議な文字盤に変わっていた。アラビア数字でもローマ数字でもない、星座の記号めいた印が並んでいる。料金メーターの針が歪んだ軌道を描きながら、黄道十二宮のような図を指し示していた。
妙に神秘的なその計器を見ているうちに、久慈は吸い込まれそうなめまいを覚える。外からは、吹き鳴らされる汽笛とサックスの音が混じり合い、頽廃的なジャズが空気を満たす。それをBGMにして、路上には人や機械や動物すら入り乱れている。
タクシーが再び動き出すと、遠くのビルの頂上に飛行船の姿が見えた。いや、正確には飛行船に似た蒸気仕掛けの怪物だろうか。歯車が噛み合う音を轟かせながら、ビルとビルのあいだを横滑りしている。
夜の空と街が融合し、上下の区別が曖昧になる。いつまでも暗いままの時空。久慈は胸騒ぎがしていた。こうして走り続けているうちに、ほんとうに現実へ戻れなくなるのではないか。すると、不意に助手席にあのローブの女が再び座っていた。
「あなた、そろそろ戻るつもりはないの?」フードの奥から、まるで遠い響きのような声がする。「戻る? 戻るって?」
「あなたが属していた世界よ。夜が長いとはいえ、本当の夜明けが訪れれば、蘭影はふたたび日常を装うでしょう。それを逃すと、この永遠の星夜に取り込まれてしまうかもしれないわ」
久慈はハンドルを握りしめたまま、深く息をつく。確かに、先ほどまで感じていた朝と夜の境界はどこにも見当たらなくなり、ここは完全な夜の異界だ。
「でも私は……」
そう呟いたとき、女がそっと手を伸ばし、久慈の耳元に囁く。
「星形は、ただの模様ではなく、あなた自身が開いた通路。いつでも戻れるわ、あなたの意志次第よ。けれど、覚えていて。もし戻っても、この夜の記憶があなたを呼び寄せることになる。いずれは、あなたが選ばなければならないの」
「選ぶ……?」
「そう。新たな技術や特許争い、表向きの光や秩序だけが世界の全てじゃない。星々の音叉が人々の夢を震わせ、この街は際限なく夜を膨らませるでしょう。あなたはそこに巻き込まれるのか、それとも運命に逆らい続けるのか……」
女の言葉は、まるで幻想譚をなぞるように曖昧だ。そのとき、ミラー越しにキラリと光が射し込んできた。いま一度、右後部ドアと左後部ドア、二つの星形が強く輝いて見えた。まるで翼を広げたようなタクシーのフォルムが、闇夜の街のなかで浮き上がったその刹那。突然、激しい衝撃が車体を襲い、路面が砕けたのかタイヤが大きく弾んで、視界がぐにゃりとねじれていく。ドアが軋み、光が乱反射するなか、久慈の意識が遠のく。
目を覚ますと、薄い霧の倉庫街にいた。あの廃桟橋に辿り着く前と同じように、まだ朝焼けの名残が空を赤紫に染めている。遠くで船の汽笛が鳴り、クレーンの鉄骨が白い空気の中に浮かんでいた。
久慈はタクシーのハンドルに突っ伏すようにしていたが、車体に大きな損傷はない。外へ出て確認すると、ドアの星形はやはり左右に一つずつ。昨夜までは片側にしかなかったはずなのに、もう一方にも同じ形がついている。
「夢、ではなかったのか……?」
呟いてみても、夢かどうか曖昧だ。だが、あの圧倒的に鮮明な異界の光景が脳裏に焼きついて離れない。ローブの女や幻の乗客たちが交わした言葉も、まるで今ここにいるかのように耳元に残響を落としている。しかし、確かなことが一つある。タクシーは再び蘭影の現実の姿の中にあるのだ。そして、朝が来つつある。
廃れた倉庫街の通りには、いくつかのトラックが停まっていて、運転手たちが眠そうな顔をしている。ほんの数時間前の光景とは違う。少しずつ日常が戻ってきているのだ。
久慈は再びアクセルを踏む。エンジンはいつものように重い唸りをあげ、タクシーはトラックたちをすり抜けるように通りを走りだす。
左後部ドアの星形、右後部ドアの星形。まだ誰も知らないけれど、街の噂好きな連中はすぐに気づくだろう。朝日はビル群の隙間から差し込み、タクシーのフロントガラスを染め上げる。その光に照らされて、計器盤の数字が現実へと引き戻すかのようにくっきり映った。料金表示もいつもどおり、ただの現行通貨が刻まれている。
「俺はちゃんと戻ってきたんだな……」久慈は苦い笑みを浮かべ、ハンドルを握り直す。
けれど、その胸の奥では残響がまだ囁いている。これまで表を走ってきたつもりの自分が、いつしか裏の深淵に導かれ、さらにその先の異界に足を踏み入れた可能性があるのだ。
その後、朝焼けに染まりはじめた倉庫街の通りをゆっくりと走り出した。朝の通勤客がぽつりぽつりと現れはじめて、街が完全に目覚めると、蒸気船の汽笛や商店の呼び声、遠巻きに聞こえるジャズバンドの音が混ざり合い、蘭影はいつもの喧騒を取り戻した。
そのとき、路地の角で座り込む二人の姿が目に入った。一人は泥はねしたコート姿の男、もう一人はロングドレスにショールを纏った女。どちらも顔に疲労の色が濃い。
「そんなところでどうしたんですか?」
久慈が窓を開けて声をかけると、男と女は一瞬顔を見合わせ、逡巡するように視線を交わした。
「ホテルで降りたあと、実は行く当てもなくなってね」
男が静かに言葉を探すように答える。
「特許や研究にまつわる交渉事に巻き込まれ、組織の連中に追われている。夜の街を逃げ回るうち、ここの倉庫街に辿り着いた。そこで彼女と出会ったんだ」
女もかすかにうなずく。
「わたしも下宿屋に泊まったあと、パーティで見た新技術のことがどうしても気になって……それで夜の街を歩いていたら、この人が困り果てているところに遭遇して、一緒に話していたの。そしたら、偶然、あなたのタクシーに乗っていたことわかって」
男は苦い笑みを浮かべる。
「正直、路頭に迷ってしまってね。はっきりとした行き先はないんだけど、もう一度、乗せてくれないかい?」
ふたりのまなざしは、迷いの底で見つけた頼みの綱を見上げるようだった。久慈は一瞬戸惑う。客を拒む理由などない。だが、今度こそ本当に街の闇へ踏み込むことになるかもしれない。昨夜、いや、あの異界を垣間見た記憶が、まだ鮮明に脳裏を覆っていた。短い沈黙の後、久慈はドアロックを解除し、わずかに息をつく。
「もちろんです。ご乗車ください」
ふたりは安堵した様子でタクシーに乗り込む。
フロントガラスに射し込む朝日を受け、左右のドアに刻まれた星形が鈍く輝いた。まるでタクシー自体が新たな旅を喜んでいるかのように、エンジンが低く唸りを上げはじめる。
しばらく走ると、空の様子がおかしいことに気づく。朝だというのに、遠くの水平線近くにはまだ夜の闇がへばりついているように見える。倉庫街を走るうちに、まるで朝と夜の境目が曖昧に混ざり合っているかのような、不気味な光の帯が空を覆うのだ。
「どうしてこんなに夜明けが遅いのかしら……?」
後部座席の女が、不安げに窓の外を見やりながらつぶやく。
男も同意するように、深く息を吐き出した。
「昔はもっとあっさり朝になったはずなんだ。だけど最近は、夜がずるずると延びている。まるで、この街の底に何かが巣くっているかのように……」
久慈の脳裏にローブの女が言った「この街は際限なく夜を膨らませる」という言葉が蘇り、「もしかしたら夜の長さは、世界同士が重なり合う兆候なのかもしれない」という考えが浮かんだ。あれは夢か幻か。だが、もし本当に、この街が幾つもの並行世界との境界に立っているのだとしたら。昼夜の秩序が崩れ、夜が長引いている理由にも説明がつくのかもしれない。
そう考えれば、延々と夜が続く理由も合点がいきそうな予感がした。膨れ上がった夜の闇がどうなるかは分からない。けれど、朝焼けがビルの谷間を鮮やかな光で照らしはじめると、ほんの少しだけ確かな希望が胸に芽生えるのを感じた。星の光と朝日の輝きが混ざり合い、蘭影という街を新しい形へと誘っているように見えるのだ。
タクシーは加速し、倉庫街の出口へ向けて駆けていく。霧の向こうには、まだ名残の夜がぼんやりと広がっている。だが、それすらも別の朝に変わるかもしれない。乗客たちはそれぞれの思いを胸に決意の表情を浮かべている。久慈もまた、新たな世界の扉をくぐる覚悟を固めるようにハンドルを握り直した。
二つの星形が微かに共鳴する。重なる夜を貫いてきたこの星影タクシーなら、きっとどこへだって行ける、そう信じながら。
文/鈴森太郎(作家)