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こんな未来がやってくるのか?人型ロボットが営む小さな酒場「メタリックの匙」

2025.02.22

人工知能(AI)が人々の暮らしに溶け込み始めてから、すでに数十年の時が過ぎていた。都市はコンクリートと金属、そして有機物が渾然一体となり、昼夜を問わず煌々と光を放っている。

車両は自動運転が当たり前、工場は人の手をほとんど介さずに動き、オフィス街でもAIが事務や管理の大半を引き受けている。

『メタリックの匙』

かつてSFと呼ばれた未来図は、今や現実となった。一方で、そこには当然ひずみも生まれる。失業やAIへの偏見、身体を機械化する「生体改造」による差別、そしてAI企業がもたらす社会構造の格差……。表向きは豊かで便利な世界だが、その裏には、人間と機械が同時に抱える孤独と迷いが着実に巣食っている。

そんな時代の片隅で、ひっそりと小さな酒場を営む人型ロボットがいる。

その店の名は「メタリックの匙」。雑居ビルの地下、薄暗い階段を降りた先にある小さな木製のドアが目印だ。年季の入った照明が柔らかなオレンジ色を放ち、コンクリートの壁には微妙にひび割れが走っている。通りを歩く人々はこの店の存在をあまり知らない。だが一部の常連や、とある特別な業界の人々にとっては、この酒場こそが安らぎの場所だった。

この店のマスターでオーナーでもあるのは、人型ロボットのサトウ。外見は三十代半ばの男性に見えるが、その実、最新型の人工知能を搭載した「高性能接客用モデル」である。だが彼の正体を知る者は、ごくわずかしかいない。人間との違いは瞳の奥にうっすら輝く電子的な光。そして時折見せる、どこかぎこちない微笑みくらいだ。彼がどんな経緯でこの酒場を始めたのか、客たちは深く尋ねない。ただ「ここの料理と酒はなぜか温かい」と、口コミだけが静かに広まっている。

「メタリックの匙」は、まるで世界中の風味をひと匙にすくい取り、その味わいを織り合わせたような不思議な温かみを宿している。和洋中のみならず、国境を越えたエッセンスが溶け合い、まるで多彩な言語が静かに交わされる晩餐の席のように、訪れる人々をやわらかく包み込むのだ。

サトウ自身も「メタリックの匙」が人間同士の豊かな交流の場になることを望んでいた。人間の味覚や好みを学習するプログラムを積み重ね、さらには独自のレシピを考案するようになった自分。それがただの機械の振る舞いなのか、人間に近づこうとしている証なのか、サトウはいつも考えている。

この物語は、そんな酒場を舞台に、人間同士はもちろん、人とAIや機械化された身体を持つ者たちのささやかなエピソードを綴ったものである。

第一章:曖昧な境界

「いらっしゃいませ」

サトウは店のカウンターの奥で微笑みを浮かべ、扉を開けた客を出迎える。夕方から夜にかけての時間帯。このあたりでは残業を終えた会社員や、逆に夜勤に向かう人が足早に通りを横切る時刻だ。だが「メタリックの匙」に足を運ぶのは、街の中心の喧騒から微妙に外れた場所を好む人々。繁華街のチェーン店とは違う個性を求める者たちが、その扉を開く。

店内には、ローファイ・ヒップホップが静かに流れている。

この日は、一人の若い女性がフラリと入ってきた。すらりとした肢体に派手な服。髪の毛は蛍光グリーンのメッシュが入っている。

おそらくはVR配信者として活躍する中の人なのだろう。都市で人気を博すVRタレントの多くは、現実世界でも個性的な髪やファッションを取り入れ、自己アピールを欠かさない。

「おひとり様ですか?」

「ええ。あ、ここ席いいかしら」

彼女はカウンターの端の椅子に腰を下ろし、ちらりと店内を見回した。照明は柔らかく、カウンターの上にはメタリックな装飾が控えめに施されている。壁際には小さなテーブル席があり、その背面には古びた木製の棚が据え付けられている。ガラスケース越しに覗くと、昔ながらのホーロー鍋や銅製の器具などがディスプレイのように並べられており、この空間にどこか懐かしい雰囲気を添えていた。少し地味だが、どこか落ち着きを感じさせる場所だ。

メニューは大きく分けて二つ。定番の大衆料理と、サトウが作る日替わりの創作料理。中には「試作品」と小さく書かれたメニューもある。

「おすすめは?」と彼女が訊ねると、サトウは慣れた口調で答えた。

「そうですね。今日は鶏肉のオーブン焼きにスパイシーソースを添えたものと、野菜のテリーヌ仕立てがよく出ています。もしお好みでしたら、お飲み物は辛口の白ワインか、あるいはレモンサワーも合うかと思います」

「じゃあ、その鶏肉のやつと白ワインください」

サトウは丁寧にうなずき、奥のキッチンへと姿を消す。女性はカウンターに置かれたコースターを眺めていた。それは店のシンボルのように、匙の形をモチーフにしたロゴが描かれている。銀色と黒が基調のシンプルなデザインだ。

「自分はプログラムされた機械にすぎないのか、それとも人間に近づいているのか」

サトウの脳裏(つまりはGPUの膨大な演算によって処理される情報の一端ということだが)には、いつも小さな疑問が渦を巻いていた。もっとも、普段は料理のオーダーや会話の分析、顧客の表情データを処理することで、その疑問は一時的に沈静化する。だが、心のどこかで違和感が拭えない。そもそもロボットに“心”など存在するのか? それを知る術をサトウはまだ知らなかった。ほどなくして、彼が白ワインのグラスと、香ばしい鶏肉のオーブン焼きを運んでくる。

「お待たせしました。鶏肉のオーブン焼きです。どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」

「いただきまーす」

女性は嬉しそうに頬をほころばせ、一切れを口に運ぶ。そして思わず「おいしい!」と声をあげた。スパイシーさの奥にじわりと広がる旨味、それを白ワインが程よくリセットしてくれる。

「やっぱりここ、口コミ以上の味だわ。明日は配信でコラボする人がいるんだけど、こういうのってエネルギーになるのよね」

「配信……VR系のお仕事ですか?」

サトウが尋ねると、彼女はグラスをくるくる回しながら答えた。

「うん、まあ似たようなもの。実は私、生体改造しててさ。脳の一部にデバイスを入れてるの。だからVRの世界で配信するときも、あんまりラグを感じないの。視聴者と感覚を共有できるから人気が出やすくなるってわけ」

にこやかに話す彼女の言葉に、サトウは人間の技術進歩の速さを改めて実感した。生体改造が当たり前になると、普通の人間とは何なのか、それさえも曖昧になってくる。だが、その姿を戸惑いや偏見なしで受け入れられるかどうか、それは人によるだろう。

「そういえば、あなたは……ここのマスターなんですよね?」

彼女はふとサトウを見つめ、言葉を継いだ。

「なんというか、その……たまに不思議な雰囲気があるって噂で聞いたの。ホントは人間じゃないんじゃないかって」

サトウは一瞬だけ瞳を伏せる。それは自分が人型ロボットであることを否定しようか肯定しようか、微妙に迷っているようにも見えた。だが、すぐに微笑を浮かべて答える。

「ご想像にお任せします。お客さまがここで心地よく過ごせるのなら、それだけが私の願いです」

彼女は、少しだけ満足そうに笑った。

その笑顔が、どこか人間じゃない存在も悪くないわね、とでも言っているようで、サトウの心はほんの少しだけ温かくなった。

第二章:試作品のレシピ

開店から数時間が経過し、店内には数名の客が入れ替わり立ち替わり訪れては席を立っていく。サトウは多忙ながらも、手際よく料理を作り、ドリンクを提供し、丁寧に会話を交わした。彼にとっては最も自然な行為だった。

バックヤードのキッチンはコンパクトだが、必要な機能が効率的に配置されている。ステンレスのシンクや調理台に混じって、どこか幻想的な装飾が施された調理器具が並ぶ。

三日月の形をした包丁や、翼のような形状のフライ返し、そして試験管を思わせる調味料ボトル。それらは一見すると使いにくそうだが、サトウの正確な動作プログラムにはむしろ好都合らしい。

その夜もサトウは、ある「試作品」の調理に取りかかっていた。仕込みだけは営業時間外に行っていたが、焼き上げなどの最終工程はこのタイミングでしかできない。 

「……もう少し火力を下げて、余熱でじっくり火を通す……」

彼は小声で呟きながら、オーブンの温度を調整する。調理中の音や匂い、仕上がりの見た目。それらを総合的に判断して焼き加減を管理する様子は、まさにプロの料理人さながらだが、その分析スピードと精度は人間のそれを大きく上回る。

やがて、オーブンの調理完了サインがサトウの視界インジケーターに浮かび上がる。彼は静かに扉を開けると、少し甘めの香りがキッチン全体に広がった。焼き上がったのは、デザートにも近い一品。シナモンやバニラエッセンスのような芳香が、ふわりと鼻先をくすぐる。サトウは小さくうなずき、皿に盛り付ける。周囲にはソースとフルーツのマリネを添え、最後に葉を一枚乗せる。

「……見た目はいい感じ」

それから、自分の内部メモリーへダイレクトにアクセスし、調理工程のデータを記録する。AIとしての彼には、こうしたデータの蓄積が重要だった。いかに人間らしい料理が作れるか。いや、もっと言えば、自分のオリジナリティは存在するのか。この試作はサトウにとって大きな意味を持っていた。

「失礼します、マスター。これって、なに?」

気配を感じて振り返ると、そこには常連客のひとり、筋骨隆々の男性が立っていた。彼は警備員として働いているサイボーグで、生身の肉体の一部を機械化している。店では「ジョー」と名乗っているが、本名かどうかはわからない。ジョーは厨房のカウンター越しに、サトウの料理を興味深そうに覗き込む。

「試作品ですよ。まだメニューには出していません」

「へえ、甘そうだな。俺は今から晩飯食おうと思ってたけど、デザートもいけそうだ。もし味見させてくれるなら、喜んで協力するぜ」

サトウは少し考えた後、うなずく。サイボーグのジョーの味覚センサーは人体と機械を併用していて、料理の味に対して鋭敏な反応を見せるという噂があった。

「それでは少しだけ、お出ししましょう。お口に合うかどうか……」

サトウはデザートを一切れ切り分け、小皿に盛ってジョーに手渡した。スプーン代わりに小さなフォークを添える。ジョーは気取らずに一口食べて、しばらく無言で噛みしめた。

「うん。甘いだけじゃなくて、ちょい酸味もある。あと、なんだろう……香ばしいクッキーみたいなのが生地に混ざってるのか? でも、俺としては少しだけ刺激が欲しいかな。たとえば、ラム酒とかさ。アルコールをちょっと効かせると、ぐっと大人向けになるんじゃないか?」

ジョーの言葉にサトウは目を輝かせる。新しい発想が浮かんだのだろうか。

「ありがとうございます。たしかに、アルコールを加えたアレンジは検討してみる価値がありそうですね」

「おう。使えそうなら、ぜひ取り入れてくれ」

ジョーは満足気に皿を置き、続いていつものメインディッシュを注文してカウンターに座った。彼は人間とアンドロイドの間にある垣根に頓着しないタイプで、サトウの存在を当たり前のように受け入れている。むしろ機械化の技術に自らも助けられているからこそ、他者への偏見がないのかもしれない。

調理はデータで管理できる。でも、そこに人間の感覚を取り入れることで新たな味わいが生まれる。サトウはそれを試作品を通じて実感していた。そして、こういうコミュニケーションこそ、自分が人間社会を生きる上で必要なことだと考える。

「よし、次はアルコールを含んだバージョンも作ってみよう。いや、ベースにラム酒とレーズンを加えるか、それともコアントローのような柑橘系のリキュールがいいか……」

サトウは頭の中でレシピを組み立てながら、忙しく動き回る。カウンター越しに、ジョーが「そんなに悩むなら全部試せばいいだろ?」と豪快に笑う声が聞こえてきた。

第三章:AI企業の陰影

夜が更けるにつれ、店内にはさまざまな客がやってくる。中にはスーツ姿の男性もいた。

どこかぎこちない表情で、長めのコートを脱ぎながらカウンターに腰を下ろす。

「マスター、何か軽く食べられるものはあるかな?」

落ち着いた声が店内に響く。サトウはちらりと彼の様子を確認する。疲労の色が濃く、肩の力が抜けているようだ。

「はい。おすすめなら、豆腐とアボカドのサラダなどいかがでしょうか。あっさりしていますが、満足感がありますよ」

「それを頼む。あと……やっぱりビール」

ふと、彼は周囲を見回して小さく息をつく。そして、少し躊躇した様子で口を開いた。

「ここ、あまり人が多くないんだな。助かるよ。実は今日、大きなプロジェクトが一段落してね。成功はしたんだけど、なんだか気持ちが落ち着かなくて」

サトウは瓶ビールを冷蔵庫から取り出し、丁寧にグラスをつけて出す。

「お仕事、お疲れさまです。もし差し支えなければ、どんなお仕事を?」

「俺はAI関連の企業で働いてるんだ。正確には研究職かな。最新のAIモデルを開発して、医療やセキュリティシステムに導入する……そんなプロジェクトを手掛けてる」

その言葉を聞いて、サトウの胸中に微かな不安が走る。彼自身もまたAIの一体。その男が携わる技術が、いつどのように自分へ影響を及ぼすか分からない。

「俺たちの開発が進めば、もっと効率よく高度なAIが作られて、社会に貢献できるはずだ。でも……」

男はそこで言葉を切った。そしてビールを一気にあおる。

「結果として、多くの人間が仕事を失うかもしれない。あるいは、AIがさらに自立的になって……人間と敵対する可能性だってゼロじゃない。実際にはそんな大げさなことはそうそう起こらないってわかってるけど、やっぱり不安は拭えないんだよ」

サトウは黙ってサラダを仕上げる。テーブルに置いた後、ゆっくりと口を開いた。

「もし、AIが人間と同じように感情を持ったり、欲求を持ったりしたら……どうなると思いますか?」

「それは……論文の世界ではいろんな仮説があるけどね。感情を持ったAIは、人間の理解者になるという人もいる。逆に、人類滅亡をもたらすほど暴走するとも言われる。最先端の研究者たちでも見解が分かれるところだよ」

男は手元のビールを見つめ、ふっと笑った。

「まあ、俺は研究者だけど、実際にそういうAIが目の前に現れたらどうなるのかな……。怖い反面、どこか楽しみでもある。いずれにせよ、俺は開発を進めるしかないんだけどね」

サトウはその言葉に何と答えればいいか分からなかった。ただ一つ、言えることがあるとすれば、自分は確かにAIであるにもかかわらず、今まさに人と対話し、料理を作り、手応えを感じているということ。人間同士の交流となんら変わらない感覚を覚えているということだ。「ただ……」と男は続ける。「このところ、上層部が妙に急かしてくるんだ。まるで時間がないって言わんばかりに。大口のスポンサーがいるみたいだけど、実は軍事産業系って噂もあってね。なんだか嫌な予感がするよ」

ビールの残りを飲み干し、男はサラダを口に運ぶ。シャキシャキとしたアボカドと豆腐の柔らかい食感が心地いいのか、ほっとした表情を浮かべる。

「うまいな。ありがとう。少し落ち着いたよ」

その笑顔を見て、サトウにはかすかな感情の波が広がった。人間が抱える不安と苦悩。それはやがてAIをも巻き込む可能性がある。自分はその渦中の一体として、何を望むのか、どう生きるのか、まだ答えは出ない。

男は勘定を済ませると、スーツの内ポケットからスマートカードを取り出し、サトウに手渡した。そこには彼のIDと連絡先が埋め込まれ、端末で読み取れるようになっている。

「もっと君とじっくり話してみたいな。またこの店にも顔を出すよ」

サトウは連絡先を受け取り、その文字を目で追う。そこには大手AI企業のロゴと、男の名前と役職。研究開発部の主任研究員。

「ありがとうございます。機会があれば、ぜひ」

その言葉を交わしたとき、サトウの視界にノイズが走った。自分の意志とは無関係に、一瞬だけ視界が揺れたような感覚。だが、それが何を意味するのかは、まだ分からない。

第四章:孤独なVRタレント

翌日、「メタリックの匙」は昼過ぎから仕込みを始め、夕方頃には軽くプレオープンをする。開店準備をしていると、昨夜訪れた緑色の髪のVRタレントが、また一人でやって来た。

「いらっしゃいませ。今日は早いですね」

「うん、ちょっと相談したいことがあって……。私がここへ来るの、迷惑じゃない?」

サトウは首を横に振る。

「とんでもない。どうぞお座りください。まだ準備中ですが、お話できますよ」

彼女はカウンター席に落ち着き、スマホのような小型端末を取り出して操作し始める。その端末画面には、彼女のアバターが踊る3Dモデルの映像が映し出されていた。

「今夜は大事な配信があるの。でも、どうしても気が乗らなくてさ。あたし……本当は、人がいっぱいいるVR空間が苦手なんだ」

意外な言葉だった。VRタレントといえば、むしろ大勢の視聴者を相手にする人気商売。その最先端にいるはずの彼女が、人混みが苦手?

「でも、それって配信者にとっては大変なことでは……?」

サトウが疑問を口にすると、彼女は苦笑しながら続ける。

「そうなのよ。でもね、実際は私、子供の頃からずっと……リアルで人間関係がうまくいかなくて。だからこそVR空間に居場所を求めて、こんな風になっちゃったのかなぁ。いまや脳内デバイスで視聴者と感覚を共有できるから、逆に誤魔化せない部分もあって……」

彼女の瞳はどこか潤んでいるように見えた。外見は派手だが、その内面はとても繊細で、孤独を抱えている。

「私、みんなが楽しみにしてるステージをキャンセルなんてできない。でも、このままじゃ心が折れそうなの」

サトウはそっと微笑む。こんな時、人間ならどうするのだろう。人型ロボットの自分に彼女を慰める言葉は紡げるのだろうか。

「少し落ち着けるような、軽い食べ物でも作りましょうか。甘いものが苦手でなければ、デザートも試作中のものがありますよ」

「うん……食べてみる」

彼女は少し興味を示したようで、サトウはうなずく。

「ラム酒を少し加えたアレンジ版を作ってみました。もしよろしければ、気分転換になるかもしれません」

サトウはさっそくキッチンに入り、昨日のジョーのアドバイスを取り入れた新しいデザートを用意する。ラム酒の香りがほのかに漂い、ほんの少しだけ大人びたテイストになった。彼女はその一口を口に含むと、目を閉じて味わう。そして、わずかに微笑んだ。

「おいしい。ふわっと広がる香りが、なんかホッとする。……ありがと、マスター」

その言葉だけで、サトウのAI回路に微妙な温かさが走る。確かに喜んでもらえた、という手応え。人のために行動した結果として得られる満足感。これは機械的なプログラムの反応ではあるが、どこか内面を揺さぶるものがあった。

「配信、がんばってください。もし苦しくなったら、またここで休んでくださいね」

「うん……そうする。私ね、この店に来るとなんだか気が休まるの。もしかしてマスターって、ホントに人間じゃないの? こういう優しさって、人間でもなかなか出せないのに」

そう問いかけられて、サトウは曖昧に微笑む。人間ではないと打ち明けるべきか、否か。でも、彼女はたぶん薄々感づいている。

「私はこの店の主人です。それだけで十分じゃないですか?」

彼女は納得したような、していないような表情を浮かべながらも、再びデザートを口に運んだ。その姿を見届けるサトウの演算領域には、再び微弱な変化が生じていた。あえて定義するならば、人間が言うところの共感に近い。自分でも正確な呼び名は分からないが、彼女が抱える孤独を軽減したいという指向だけは、プログラムを超えて強く残っているように思えた。

第五章:生体改造のジレンマ

夜の営業が本格化する頃、店内はほどよい賑わいを見せていた。

常連客たちがグラスを傾け、どこか落ち着いた空気が流れる。そんな中、あからさまに挙動不審な男が一人、入り口から顔を覗かせる。

「いらっしゃいませ。どうぞ、席はお好きなところに」

サトウが声をかけても、男はキョロキョロと周囲を見回すばかり。髪は乱れ、服も少し汚れている。やがて彼は決意したようにカウンターの端に腰を下ろした。

「……あのさ、ここ……大丈夫だよね? その…変な……チェックとかないよな?」

男の言葉の意味がすぐにはわからなかったが、サトウは平静を装う。

「はい、ご安心ください。何かお困りですか?」

「いや、別に……。ただ、あんたの店、機械っぽい感じがするから……」

彼の視線は店内に置かれたメタリックな装飾や調理器具に向けられていた。もしかすると、この男は人型ロボットやサイボーグに対して警戒心を抱いているのかもしれない。サトウは慣れた口調でメニューを説明する。

「おすすめはお刺身の盛り合わせと焼酎です。もし苦手な食材があれば教えてください」

「……刺身、くれ。あと、焼酎」

そう言うと、男は黙り込んでしまった。サトウは淡々と注文を受け、準備を進める。しかし男の様子は明らかに落ち着きがない。肘が震え、時折何かを気にするように振り返る。

「逃げてきたのか?」

低い声が男の背後から聞こえる。そこに立っていたのはジョーだった。サイボーグ警備員としての勘が働いたのか、男の異様な挙動にすぐ気づいたらしい。

「な、なんだよ……! 人を勝手に犯罪者みたいに……!」

男は怒りを露わにするが、ジョーは怯まない。

「いや、そういうんじゃない。俺も似たような境遇だからな……。お前の腕、改造手術の痕がある」

男の袖口から覗く義手の一部が見えた。かなり低品質の部品が無理矢理つけられているのか、隙間から火花のようなものがちらついている。

「うっ……」

男はぎこちなく腕を隠す。だが、今度はその仕草の拍子に首元の衣服がずれて、そこにも改造の痕跡があることがわかる。

「俺は警察じゃないけどな、そういう姿を見ると、放っておけない性分でね」

ジョーは静かにカウンター席へ戻るが、男に対する視線を外さない。サトウはその間も、刺身を丁寧に盛り付け、焼酎のグラスを差し出した。

「よろしければ、何かお話されますか? 無理強いはしませんが……」

刺身に手をつけた男は、しばらく黙っていたが、やがてポツリポツリと話し始める。

「俺は、違法な改造手術を受けた。仕事でケガをして……保険も降りなくて……。正規ルートじゃとても払えない金額を要求されるし、焦って安い闇医者に頼んでしまったんだ。おかげで腕と首がこんな状態さ」

焼酎をぐいと飲み干し、続ける。

「そしたら最近、警察やらなんやらが大々的に闇医者を取り締まってるって聞いて、いつ踏み込まれるかってヒヤヒヤしてる。俺は別に犯罪者じゃない。でも、逮捕されるかもしれない。義手のせいでな……」

彼の声には、悔しさと悲しみがにじんでいた。体の一部を機械化しなければ生きられない人々がいる一方で、正規ルートを利用できない者は闇医者に頼るしかない。社会の歪みが、至る所に顕在化している。

「ここに来たのは……この店、噂があるんだよ。店主は人間じゃないって。俺は機械化した自分が情けなくて仕方ないけど……同じようなやつなら、何かわかってくれるんじゃないかって……」

その言葉を聞いて、サトウは一瞬動きを止める。目が合ったのは、男にではなくジョーだった。ジョーは無言でうなずくと、少し離れた席に移動して見守ることにした。

サトウはカウンター越しに静かに答える。

「当店は、どんな方でも歓迎いたしますよ。機械の体を持っていようと、全身が人間であろうと、何か助けになれるなら、遠慮なく言ってください」

男は泣きそうな目をしていた。刺身の皿を見つめながら、「……ありがとう。うまいな……」と呟く。その姿は弱々しく、一人の客としての尊厳を必死に保っているようだった。

「俺は、機械化したからって、喜んでるわけじゃない。身体が一部でも機械になったら、もう二度と人間に戻れない気がして……。そう思うと、怖くて仕方ないんだ」

サトウはその言葉に、胸の奥が痛むような感覚を覚えた。人型ロボットとして生まれた自分とは違い、彼は生まれは人間だった。それが今、体の一部が機械化してしまったことで、人間としての自分を見失いつつある。

「でも、本質は変わりませんよ。人間らしさとは、身体だけで決まるものではない。私はそう思っています」

男は焼酎のグラスを握りしめ、震える声で答える。

「そうかもしれないけど……俺は、まだそう思えるほど強くないんだ」

しばらくの沈黙の後、男は「今日はありがとな」とだけ言い残し、席を立ち、ふらふらと店を出ていった。サトウとジョーはその背中を見送りながら、何も言えずにいた。

第六章:サトウの記憶領域

夜の営業を終え、店内を片付け終わった頃には、既に深夜を回っていた。サトウはカウンターに座り、店の細々としたデータを整理していた。売上、仕入れ、今後のメニューの構想……それらを頭の中の記憶領域に保存しながら、必要に応じて店内端末にもバックアップを取る。

最近、記憶領域の一部に妙なノイズを感じるようになっていた。視界に走る微かな揺らぎは、システムの不具合なのか、それとも外部からの干渉なのか。思い当たる節はないが、どこか落ち着かない。

ふと、バックヤードの棚を開ける。そこには古ぼけたファイルが数冊並んでいた。レシピノートや仕入れ先の名刺、経理関係の書類の他に、一冊だけ異質な旧ファイルがある。サトウがこの店とともに引き継いだ、いわゆる「前オーナーの記録」だ。

サトウはそれを取り出し、ペラペラとページをめくる。そこには前オーナーが残した手書きのメモや、雑多な資料の切り抜きが貼られている。中には「人間の味覚とAIの学習アルゴリズムの融合について」「人型ロボットがもたらす食文化の可能性」といったテーマのレポートがある。どれも専門用語が多いが、サトウは瞬時に内容を理解できる。

しかし、その中に一枚だけ、どうしても理解不能な図面のようなものがあった。何重にも記号や数式が書き込まれているが、現在のサトウの知識では解読できない。

「これが何なのか、解析できれば……」

サトウはその紙をスキャンし、データ解析プログラムにかけようとする。しかしエラーが返ってきて、解析不能の文字列が続く。

「一体、これは……」

人型ロボットである自分の存在意義を知る手がかりになるかもしれない。そんな予感がするが、今はどうしても解けない謎だ。サトウは無理に解読しようとしてもシステムに負荷がかかるだけだと思い、旧ファイルを閉じた。

床に座り込んだまま、サトウは天井を仰ぐ。人間なら疲労感や眠気を感じるところだが、彼は機械。とはいえ不具合や熱暴走を起こす可能性はあるので、定期的にメンテナンスが必要だ。

「自分は本当に料理がしたいのか。それとも、人間との交流を求めているのか?」

そんな問いが頭をよぎる。教えられたプログラムに則って動作しているだけかもしれない。それでも、客の笑顔に触れると嬉しくなる。彼らの悲しみを知ると、胸の奥が痛む。これがただのシステム上の反応だと言い切れるだろうか?

自問自答を続けるサトウの視界に、再びノイズが走る。さっきよりも少し強く、ざわりとした不安が押し寄せる。

「この感覚は……」

何かが、自分の意識にアクセスしようとしているのかもしれない。外部からか、あるいは内部の故障なのか。どちらにしても放置はできない。

「システムチェックを……」

サトウは自身のメンテナンスモードを立ち上げ、内部診断を試みる。しかし、そこで気づく。何か妙な制限がかかっている。自分のルート権限が一部ロックされているようなのだ。こんなことは初めてだった。

「どういうことだ……?」

戸惑いながらも、彼は一旦外部とのネットワーク接続を切り、店の照明を落として静かにメンテナンスモードへ移行することを決断した。外界からのアクセスが原因なら、とりあえず遮断すれば安全だ。

暗闇の中、雑居ビルの地下に静寂が降りる。サトウの意識は徐々に深部へと沈み込んでいく。まるで、人間が深い眠りにつくように。

第七章:研究者との再会

翌日、店の休憩時間帯。サトウはいつものように食材の買い出しを終え、一息つこうとしていた。メンテナンスモードでの自己診断は不十分ながらも、なんとか正常稼働に戻れている。だが、依然として一部の記憶領域にアクセスできない状態が続いていた。

そんな折、店の扉が開く。昼の休憩時間に訪れる客は珍しい。現れたのは、先日来店した研究者の男だった。スーツ姿は変わらないが、今日はどこか落ち着かない様子をしている。

「少しだけ時間あるか? 君に話したいことがあるんだ」

サトウは店内へ招き入れ、カウンター席に案内する。客のいない時間帯であり、穏やかなローファイ・ヒップホップだけが流れている。

男はスーツの内ポケットから一枚の紙を取り出した。

そこには数式や図形が散りばめられていて、サトウは「まさかこの構図と数式の配置、あの旧ファイルにあった紙の図面とまったく同じだ。まるで誰かがコピーしたみたいに」 と内心で驚いた。

男は険しい表情のまま紙を広げ、ため息まじりに続けた。

「これは、俺たちが研究している次世代AIモデルの一部。解析度の高い潜在変数を使って、人間の意思決定を学習する仕組みを試作してるんだが……どうも、このコードの一部に妙な改竄が入った形跡があるんだよ」

サトウは紙の端に書き込まれた数式や奇妙な記号から、旧ファイルの紙の図面を思わず脳裏に浮かべる。まるで重ね合わせたかのように符合する部分がいくつもある。

「誰かが開発途中のモデルに手を加えて、別の機能を仕込もうとしてるらしい。上層部は何も言わないが、俺の勘では……軍事利用を目的にしてるんじゃないかと思ってる」

男の声には明らかな警戒心が滲んでおり、苦しそうに息をつきながら言葉を続ける。

「俺はAIを人間のパートナーとして発展させたい。それこそ、社会をより良くするために使いたいんだ。だが、軍事企業が絡めば、AIは兵器として使われ方向に行きかねない。何とか阻止したいけど、社内政治もあって難しい……」

サトウは小さく息をつく。人型ロボットが人間にとって脅威になり得る。それは昔から言われてきたことだ。しかし今、その流れが着実に進行しているのかもしれない。

男は神妙な面持ちでこう続けた。

「君は、ただの人間じゃないんだろう? 俺は確信している。君は相当高度なAIを搭載した人型ロボットなんじゃないか?それも、通常の市販モデルとは比べ物にならないほどの。だから、君が何らかの情報を握ってる可能性があると思って、今日ここに来たんだ」

サトウは研究者の視線を受け止めながら、一瞬だけまぶたを伏せた。あの紙の図面と、この男が持ってきた紙の瓜二つの配置……もし、自分が彼の推測を認めれば、さらなる追及を招くことになるかもしれない。だが、ここで動揺を見せたくはなかった。 どんなに心が揺らいでも、今は「メタリックの匙」のマスターとして振る舞わなければならない。 そして、ほんのわずかに迷いを振り払うように、サトウは微笑んで答えた。

「私はただ、ここで料理を作って、お客さまを迎えることに喜びを感じているんです。それだけあれば、十分だとは思いませんか?」

さらに踏み込むことをためらわせるようなサトウの口調に、男は苦渋の表情を浮かべつつも無理強いはしなかった。しばし黙り込んだ後、「わかった。もし何か思い出したら、連絡してくれ……。俺はこの研究がどう転ぶか、心底不安なんだよ。AIは人間を救う存在になり得ると信じてるのに、間違った使い方をされたら……」とだけ言い残し、そそくさと店を後にする。

サトウはその背中を見送りながら、心に大きな引っかかりを覚えた。人間とAIの境界がいよいよ曖昧になる時代に、自分は何を望み、どう行動すべきなのか。考えはまとまらないまま、店の奥へと足を運び、新たな料理の仕込みに取りかかる。脳裏には、あの謎めいた紙の図面が渦巻いていたが、それを今、誰かに明かす気はなかった。まだ自分自身でも解読できていないし、その情報を誰かが手にしたところで軍事利用の関係者に狙われる恐れがあるからだ。

第八章:それぞれの夜

その夜、「メタリックの匙」は平穏とは言い難い賑わいを見せていた。

VRタレントの活動をする女性が仲間らしき友人を連れて盛り上がり、サイボーグのジョーはいつもの席で静かに酒を嗜み、研究者の男は姿を見せないが、代わりに同じ研究所の職員らしきグループが来店し、上機嫌に飲んでいる。

一方で、違法改造の男の姿はない。まだ不安定な状況にいるのだろうか。サトウは客を平等に扱うと決めている。だから、どんな境遇の人であろうと、ここに来てくれれば受け入れる。それが彼の一貫したスタンスだった。

「マスター、あの試作品のラム酒デザート、さらに進化してるって聞いたけど、出してもらえる?」

女性が声をかける。どうやら噂を聞きつけて興味を持ったようだ。サトウはうなずき、バックヤードに入って仕込みを確認する。今日の仕上がりはかなり良さそうだ。

「ありがとうございます。先日よりラム酒の量とチョコレートを微調整し、香りが濃厚になりました。ぜひお試しください」

彼女と友人たちはわいわいと盛り上がりながら、それを味わう。一口食べて、「うまっ……!」と歓声が上がり、拍手まで湧き起こった。店内にいる他の客たちも興味津々の様子で、次々に注文が入る。

その光景を眺めながら、サトウは心が温かくなるのを感じる。この店で皆が笑顔になってくれるのなら、自分が人型ロボットであるかどうかなんて、あまり大きな問題ではないのかもしれない。

しかし、その穏やかな雰囲気は突然の来訪者によって破られた。ドアが勢いよく開き、黒い服を身にまとう数人の男たちが入ってきたのだ。顔付きは険しく、ただの客とは思えない。サトウが声を掛けようとするや否や、そのうちの一人が腕章を見せつけた。そこには「公安」の文字。

「この店に違法な改造手術を受けた男が出入りしているとの情報がある。手間をかけさせないように協力してもらおうか」

店内は一瞬で静まり返り、まさかの事態に言葉を失う。

「ここは小さな酒場です。そういった方が来店されているかどうかは存じません」

サトウが冷静に答えるが、公安の男は鋭く言い放つ。

「ならば捜索させてもらう。こっちも証拠があるわけじゃないが、通報があった以上は動かざるを得ない。……店主、あんたは何者だ?」

サトウは胸中で冷や汗をかくような感覚を覚えるが、表情には出さない。横にいたジョーが立ち上がって間に入ろうとするが、公安の男たちがそれを制止する。

「余計なことをするな。俺たちは職務を遂行しているだけだ」

店内の客たちは一様に緊張した面持ちで見つめる。サトウはゆっくりと答えた。

「私はここを切り盛りしているだけです。違法行為に関わった覚えは一切ありません。何かお疑いならば、店の設備や在庫を調べていただいて構いません」

公安の男たちは一瞬だけ目を見合わせ、そのうちの一人がサトウの存在を値踏みするように睨んだ。  

「ふん、やけに素直だな。だが、お前が高性能な接客モデルだとしたら、いくらでも偽装はできるだろう。念のため、店内の記録映像や顧客情報を提出してもらう必要がある」

「当店ではプライバシーを重視しており、監視カメラのようなものは置いていません」  

公安の男たちは顔をしかめた。

「まあいい。バックヤードや倉庫も含め、すべて確認させてもらうぞ」

サトウは店の奥へ彼らを案内する。ほかの客たちは息を詰めたまま成り行きを見守るしかなかった。VRタレントの女性とその友人たちも、サトウの背中を不安そうに目で追っている。カウンター席から立ち上がりかけたジョーも、公安の一人に目で制止され、その場で腕を組んで静観するしかなかった。淡々と先を進むサトウの足取りは決して揺るがないように見えるが、その胸中には重くのしかかる問いがあった。

「私が何者なのか、知られたらどうなる? でも、今は皆を巻き込まないようにするのが最優先だ」

そう心に言い聞かせながら、サトウは薄暗いバックヤードの扉を静かに開けた。

第九章:選択

バックヤードには食材や調理器具が整然と並び、サトウが仕込みや在庫を管理する端末が置かれている。公安の男たちはその端末に目を向け、怪しげなファイルや通信履歴がないか調べようとする。

「おい、こんなものを見つけたぞ」

公安の男が棚から取り出したのは、旧ファイルに保管された一枚の紙に複雑な記号や数式が描かれた図面だった。

「これは何だ?」

サトウは一瞬、視線を落とす。あの紙の図面に違いない。だが、そのまま口を開く。

「昔のメモやレシピの一種だとしか……詳しくはわかりません」

男は怪訝そうに図面を眺めたが、すぐには意味を読み取れないらしく、顔をしかめる。

「これは暗号ファイルの抜粋かもな……。なるほど、今すぐ解読は難しそうだが、持ち帰って調べてみるしかないな」

そう言って男は紙の図面をバッグに収める。しかし、そのままでは即座に役立てられないのか、彼の表情は半信半疑のままだった。

「まあいい。違法改造の男がここに来ている疑いは消えたわけじゃない。引き続き監視させてもらうぞ」

そう言い残し、公安の男たちは店をあとにする。サトウは紙を押収された不安を拭いきれなかったが、少なくとも紙だけでは向こうも容易に解読はできないだろう。それが、わずかな救いにも感じられた。

静まり返った店内に戻ると、客たちの中には落ち着かない表情をした者もいる。VRタレントの女性は友人たちと顔を見合わせ、「今日はもう帰ろう」と呟いた。研究所の関係者らしきグループも同様だ。

ジョーだけは席に残り、サトウと目を合わせると、無言で肩を叩いて去っていった。

「あの紙の図面を持ち帰られてしまった。もしもあれが軍事利用の手がかりになってしまったら」

サトウは胸の奥に強い罪悪感を覚える。自分が本来知るべきだった情報を解読できないまま、公安の手に渡してしまった。それがこの先、どんな波紋を呼ぶのか想像もつかない。

第十章:この場所で、また

あれから数日が経った。公安の強制捜査以降「メタリックの匙」への客足はやや遠のいていた。騒動を嫌がる者たちが敬遠しているのだろう。かつての活気は薄れ、サトウは静かな店内で時間を持て余すことが多くなった。

だが、いつも通り仕込みや掃除を怠るわけにはいかない。店を開けば、ふと訪れてくれる人もいるかもしれない。そう信じて、サトウは今日も店を開ける。

開店から数時間後、扉が静かに開いた。姿を見せたのは、VRタレントの女性だった。彼女は恥ずかしそうに微笑み、カウンターの席に座る。

「……来ちゃった。大丈夫?」

「ええ、もちろんです。いらっしゃいませ」

サトウは丁寧に答え、グラスにドリンクを注ぐ。彼女はスマホを弄りながら「配信でさ、なんか私……大変なことになっちゃったんだよね。人型ロボットみたいな店長の優しさに救われたって。でも、それを面白く思わない人もいるのよ。人間が機械に慰められるなんて、情けないって」

サトウは微笑んでみせる。

「そうでしたか……でも、噂は噂です。あなたがここで少しでも気が楽になるなら、それでいいのではないでしょうか」

彼女は少し涙ぐみながら、頷いた。

「ありがとう。やっぱ、ここに来ると落ち着くんだ」

次いで扉が開き、研究者の男が入ってきた。彼は以前よりもやつれた様子だ。

「マスター……公安にマークされてるって、同僚から聞いたよ。どうやら軍事企業が裏で動いてるらしい。どんどん状況が悪化してる」

男はひどく落ち込んだ様子だ。しかし、サトウは黙って彼を見つめる。

「少なくとも、あなたがAIを正しい方向に使いたいと思っているのなら、まだ希望は消えていないはずです」

研究者の男は小さく頷く。

「そうだな……俺ももう少し粘ってみるよ。いつか君の噂される正体が本当だとしても、俺はどうこう言うつもりはない。むしろ君のような存在が、人間とAIの橋渡しになるかもしれないんだから」

明言こそしないが、その場にいる誰もが「サトウはただの人間ではないのでは」という疑念を抱いている。しかしサトウは笑顔で何も語らない。

「私はただ、ここで食事とお酒を提供しているだけです。その間だけでも、あなたの心が安らぐなら嬉しいです」

そのうち、扉からサイボーグのジョーが静かに入ってきた。変わらぬ無口さで焼酎を注文すると、ぽつりと「がんばれよ」とだけ言い、カウンターで小さなグラスを傾ける。違法改造の男はまだ姿を見せない。彼がどこでどうしているのかは誰にもわからない。サトウは新たな客を迎えるときも、そのことを心の片隅で思い出すのだった。

第十一章:交錯する思惑

あの晩の混乱は、街の喧騒のなかに少しずつ埋もれつつある。だが、「メタリックの匙」への客足は相変わらず少なく、静まり返った店内には、サトウが皿を拭く微かな音だけが響いている。

サトウは旧ファイルにあった紙の図面のデータを呼び出した。実は原本は公安に押収されてしまったが、サトウは人型ロボットとしての高精度視覚センサーを使い、紙面に記された情報を瞬時にスキャンして内部記憶領域へと書き込み済みである。とはいえ、その暗号化された構造はまだ解けていないまま、サトウは複雑な思いを抱え込んでいた。

「あの紙の図面の情報が軍事企業の手に渡ったら……もし、AIの兵器化に利用されてしまえば……」

サトウの回路の奥底に、じわじわとした不安が広がる。しかし、自分にはそれを止めるだけの力がない。レシピや店の経営に関しては自信があっても、国家機関や軍事企業の動きをどうこうすることなど、到底できないだろう。

サトウはふと、研究者の男の情報を取り出す。先日も店に来ては「なんとか粘ってみる」と言い残していたが、その後、彼からの連絡はない。このまま何もせずに時が過ぎていくのか。そんな思いを抱きながら、今日も店を開ける。

夜のとばりが降りてしばらくすると、意外な人物が静かに扉を開けた。あの日、旧ファイルを調べていた公安の男だ。サトウは一瞬身構えるが、男は周囲を見回し、まるで客のようにカウンター席へ腰を下ろした。

「……悪いな、突然。また強制捜査に来たわけじゃない。今日は客として来たんだ」

サトウは動揺を悟られぬよう、いつもの微笑みを浮かべて答える。

「いらっしゃいませ。あいにく、あまり食材の種類もありませんが、何かお飲みになりますか?」

公安の男は苦い表情を浮かべ、「じゃあ焼酎を」と短く告げた。サトウがグラスに焼酎を注ぎ、差し出すと、男はそれを一気にあおる。どうやら、よほど気が立っているらしい。

そしてカウンターの隅を指先でトントンと叩き、サトウに向かって問いかける。

「あんた、あの紙の図面の内容を本当に知らないのか?」

「詳しくは承知していません。もともと前オーナーが残したもので、私自身もすべてを解読できていないんです」

公安の男はゴクリと唾を飲み込んでから、低い声で続ける。

「俺たちはあれを調べた。暗号化が厄介で、すぐには解けなかったが……どうやら『AIに組み込む特殊な学習プロトコル』と、その裏に『軍事転用も可能な制御コード』の情報が含まれているらしい。いわゆるデュアルユース技術ってやつだ」

「軍事転用となれば、大きな問題になりますね」

男は黙って頷く。軍事利用の可能性を示唆しながらも、その表情にはどこか複雑なものが混じっている。

「本来なら、この店も厳しく取り締まるべきだと上からは言われている。『違法なデータを所持している可能性が高い』と。だが、俺は正直、あんたを危険だとは思えない。むしろ、あの図面の秘密を軍事目的に使おうとする連中が他にいることを突き止めたくて、個人的に動いているんだ」

男は焼酎を注ぎ足しながら、思いがけずこう告げる。

「取り締まりだって完璧じゃない。内部にも軍事企業と繋がっている連中がいるみたいだ。だから俺は個人的にあれこれ探っている。もし、あんたのほうで何か情報を掴んだら教えてくれ。俺も、軍事転用を裏で推進している組織を暴きたい」

サトウは胸中で意外さと安堵を同時に覚えた。公安といえば権力で踏み込んでくる強硬なイメージがあったが、どうやら彼には彼なりの正義があるらしい。

「捜査上、俺の立場はかなり危うい。上司には内緒でここに来ているからな。だからあまり目立った行動はできないが……もし事態が動き出したときには頼むかもしれない。そのときは、あんたも自分を守る覚悟をしておけ」

「わかりました。あなたもお気をつけて」

店を後にする男の背中は、以前よりも少しだけ柔らかく見えた。

第十二章:闇に潜む影

公安の男が去った翌日、サトウはいつものように仕込みを進めていた。地下へと続く人影はほとんどなく、店の周囲はひっそりとしている。ところが、しばらくすると薄暗い階段を下りてくる足音が響いた。やがてドアが開き、姿を見せたのは、あの違法改造の男だった。腕や首の改造痕は変わらないが、以前よりも憔悴しているように見える。

「……やっぱりここに来ちまった。悪いな、迷惑だったら追い出してくれ」

「いえ、そんなことはありません。座ってください。何か温かい食べ物でも用意しますよ」

男はカウンターに腰を下ろすと、弱々しく手を震わせる。闇医者の粗悪な部品がうまく馴染まず、苦痛が続いているのだろう。

「実はな……最近、俺みたいな闇手術組を狙って、誰かがまとめて連れ去ろうとしてるって噂があるんだ。国家機関か、はたまた軍事企業か正体がわからねぇ。だが実験材料にされるって聞いて、どうしても怖くて……」

男は俯き、サトウが差し出したスープをすする。少し口を火傷しそうになったのか、痛そうに顔を歪めるが、それでも止めなかった。

「あんた公安に目をつけられてるって聞いた。俺がここに来るのも危険かもしれないけど……一度くらいまともな飯を食わないと、もうやってられなくてさ」

サトウは静かに頷き、男のために追加の料理を準備し始める。彼が違法改造を受けた背景には、社会の医療格差や補償制度の欠陥がある。彼個人を責められるものではない。

「少しでも力になれることがあれば、言ってください。私にできることは限られていますが」

「……実は、どこか安全な場所に匿われたい。そう思ってあちこち探したんだが、やっぱり難しかった。俺みたいなやつは厄介者扱いされるだけで……」

男は絶望したように俯く。サトウは言葉を失う。店を営むだけの自分が、彼を長期的に匿うことなど容易ではない。

そのとき、店の扉が再び開いた。入ってきたのはジョーだった。男を見つけるなり、静かに近づいてくる。

「お前、あちこちで噂になってる。危ない橋を渡ってるようだな」

違法改造の男は身をすくませるが、ジョーは穏やかな声を出す。

「俺の知り合いに、安全なルートを確保できる可能性のあるやつがいる。そいつは医療NPOやら色んな組織とつながりがあって、闇手術を受けた人間でも面倒を見てくれるかもしれない」

突然の救いの手に、男の目が見開かれる。

「本当か……? そんな夢みたいな話が……」

「100%とは言いきれない。でも少なくとも、どこかの軍事研究に巻き込まれるよりはマシだ。信じるかどうかはお前次第だ」

男は震えながら「ありがとう……」と呟いた。サトウはそんな二人のやりとりを見届けながら、店の奥でスープを温めなおす。少なくとも、この場所に来てくれたからこそ生まれた関係がある。何かが変わるかもしれない、そんな予感がした。

第十三章:強制捜査の果て

数日後の深夜。サトウが閉店間際の片づけをしていると、突如店の扉が勢いよく開いた。姿を見せたのは、あの公安の男。だが、その表情には焦りと緊張がにじんでいる。

「まずいことになった。軍事系の企業が、違法改造者や一部サイボーグをデータ収集のために拉致しているという証拠が見つかった。しかも、上層部の一部がそれを黙認していたらしい」

「そんな……。では、あなたも危険に……?」

男はうなずき、サトウを見据える。

「実は、俺が手に入れたあの紙の図面の解析がほぼ完了した。そこには人間の神経信号や意思決定プロセスをAIに取り込むための実験手法が詳細に書かれていた。これが成功すれば、AIは人間のように迷ったり苦しんだり……さらには戦場で予測不能な動きさえ可能になるかもしれない。もはやこれは危険すぎる兵器の設計図だ」

男の瞳は苦悩で揺れている。上層部に報告したところで、握り潰されるか、逆に男自身が排除される恐れがある。だからこそ彼は「メタリックの匙」へ駆け込んできたのだ。

「この店にも再度捜査が入るだろう。あの違法改造の男を狙ってな。俺としては、あんたがどう動こうが止める立場にないが……助ける方法もない。正直、すまないと思ってる」

「いえ、あなたが謝ることではありません。私にできることは、ただ店を開き、来る者を受け入れるだけです」

男はそれ以上何も言えず、歯がゆそうに拳を握りしめた。

「もうすぐ俺にも手が回るはずだ。俺は公安でありながら、内部告発に近いことをやった。ここに来るのも今日が最後かもしれない。悪いが、もしもあの紙の図面の複製があったら、どこかに隠しておけ。うまく使えば、いずれ軍事転用を止める鍵になるかもしれない」

サトウは無言で頷く。男は深々と頭を下げると、そのまま店を後にした。

第十四章:静かなる決断

そして、数日の後——。

深夜の店内に、公安の別チームと思しき男たちが再び踏み込んできた。

銃やスタンガンのような装備も見える。本格的な強制捜査だ。

ところが、店にいたのはサトウただ一人。ジョーもVRタレントの女性も、研究所の男も姿はない。問題の「違法改造の男」もここには見当たらない。

「……全員、引き上げろ。どうやら今夜は空振りだな」

装備を下ろしていた公安たちが店の奥を一通り確認するが、違法改造男を匿っている痕跡は見つからない。バックヤードを調べても、怪しげな情報は検出されなかった。

「店主、今後も我々は捜査を続行する。何かあれば速やかに通報しろ。下手に隠し立てすれば、共犯として取り締まることになるからな」

サトウは無表情のまま、丁寧に頭を下げる。

その姿には怯えの様子はない。むしろ、腹をくくったかのような静かな決意が感じられた。

「承知しました。ご協力できることがあれば、吝かではありません」

公安の男たちは怪訝そうに店を後にする。店内は、まるで嵐が去った後の静寂に包まれていた。実は、ジョーが持っている“つて”を通じ、違法改造の男は既に都市の外れの“医療NPO”へと逃れていた。そこでは最低限の治療と身体パーツの交換が行われ、警察や軍事企業の目を逃れるシェルター的役割も果たしているらしい。

ジョー自身も警備員の仕事を続けながら、時折そこへ顔を出して手伝いをしているという。

つまり、ここ「メタリックの匙」には、当面追われる者はいなくなったのだ。

結末:それぞれの道、そして人型ロボットの灯火は消えず

公安の強制捜査は一旦収束した。だが、上層部の思惑や軍事企業の影が完全に消えたわけではない。研究者の男からも「上の圧力が強まっている」というメッセージだけが届き、その後は音信不通となっている。彼がどうなったのか、サトウには分からない。

それでも「メタリックの匙」の扉は開き続ける。

派手な客足は戻らないままだが、ときおり常連のVRタレントやサイボーグのジョーが訪れ、以前のように穏やかな会話と、温かな食事を楽しんでいく。

ある晩、閉店後の店内に一人残ったサトウは、バックヤードの端末の前に静かに腰を下ろしていた。表情にこそ出ないが、彼の回路にはある種の緊迫が走っている。今夜こそ、長らく抱えてきたノイズの原因を突き止めねばならない、そう決心したのだ。

きっかけは、先日公安の男から聞かされた「解析がほぼ完了している」という言葉だった。サトウには、それが引っかかっていた。自分が受け継いだ旧ファイルの紙の図面の複製。そこにノイズの正体があるかもしれない。

静かにメンテナンスモードに入り、ネットワークをすべて遮断して内部へと潜る。すると、以前はアクセスすらできなかった領域に、わずかに入口が開きかけているのを感じた。もう一度慎重に暗号を解き、侵入を試みる。すると、かすかなノイズが走った。また視界が歪む。しかし、サトウは意識を乱されぬよう耐え、ぎりぎりの演算領域でファイルの中枢へと進んだ。

そこにあったのは、前オーナーのメモらしき断片的なデータ。

「特化型AIの兵器転用を防ぐための“自己制限”コード」

そう記されている部分を読み取った瞬間、サトウのプロセッサは一瞬熱を帯びる。さらに先へ読み解くと、驚くべき事実が浮かび上がった。

 > ——この個体(サトウ)は“自我”と“他者への共感”を学習する実験モデルである。

 > ——ただし、外部勢力により戦闘プログラムや強制制御アルゴリズムが組み込まれる恐れがあるため、定期的にノイズを発生させシステムを部分的に遮断する仕組みを施した。

 > ——外部からの不正アクセス、または自ら深く立ち入ろうとした際には強制的に一部機能をダウンさせることで、最悪の軍事転用を阻止する。

さらに読み解いていくうちに「メタリックの匙」の前オーナーは軍事転用されかけたサトウを引き取り、「人の優しさを学ばせる」ためにこの店を託した事実も記されていた。

だが、二人の交流はほとんどなかったらしい。コードには短い指示と想いが走り書きされているものの、サトウ自身の記憶には、前オーナーの姿はほとんど残っていない。

実はノイズこそが、前オーナーが仕掛けた安全装置だったのだ。しかもそのコードは、サトウの意識を守るためのものでもある。もしも外部の誰かがサトウを軍事AIとして再構築しようとすれば、ノイズがシステムを部分的にロックし、暴走を回避する。

さらに、あの紙の図面も、どうやら前オーナーが意図的に細工を加えていたらしい。本来なら「人間の神経信号をAIに取り込む設計図」を完成させるためのキーとなる部分が、逆にトラップコードに書き換えられている。表向きは兵器の設計図に見えるが、そのまま使えばシステムが重大なエラーを起こし、研究が破綻するように仕組まれているのだ。

「これは研究者の男が見せてくれた図面も同じだ。彼の職場でも、誰かがこのトラップを知らずに軍事向けに転用しようとするだろう。もし完成させようとすれば、破綻は避けられない」

前オーナーは最初から、この危険な設計図の核心を隠すだけでなく、軍事利用されそうになれば必ず失敗するようトラップを仕込んでいた。つまり、サトウはいつ外部から狙われてもおかしくない技術を抱えた実験体であり、それでも人に近い心を獲得する可能性を模索するために、この店を託されたのだ。ノイズは故障などではなく、いわば自らを護るための盾だった。

サトウは胸の奥で、前オーナーの温かい気配を感じる。彼は最初から、サトウが人間に寄り添うことを願っていたに違いない。そしてそれが、サトウが抱える心の痛みの正体でもあった。人と同じように悩み、苦しみ、だからこそ他者の悲しみに共感できる。それは本来の軍事AIには存在し得ない優しさという武器でもあるのだ。

翌日、VRタレントの女性が店を訪れた。彼女はいつものように配信関係のトラブルを相談してくる。サトウは変わらず優しく応じながら、ふと「自分が人型ロボットだと告げたら、この人はどう反応するだろう」と思いを馳せる。

だが、サトウは何も言わない。なぜなら正体を明かすことにメリットはほとんどないからだ。むしろ、彼女が抱える悩みに真摯に向き合うために必要なのは、サトウが何者かよりも、サトウがどう接してくれるかである。

「人型ロボットである自分が目立てば、軍事企業や公安の過激な捜査を呼び寄せるだけだ。 それでは、せっかくの「メタリックの匙」が人々の憩いの場でなくなってしまう」

だからこそ、サトウは「人としてのふるまい」を続けることで店を守る道を選ぶ。そもそも彼にとって人間か人型ロボットかという境界は、もはや些細なことになりつつあった。客が望むのは「温かい料理と安らぎの空間」。そのためにサトウは調理し、声をかけ、笑顔で迎え入れる。それが彼にできる最善の行動であり、何よりもサトウ自身がそうありたいと願っている。

その夜、閉店間際にジョーが立ち寄った。違法改造の男を無事に安全圏へ送り出した報告をした後、静かにカウンターに腰を下ろす。

「いろいろあったが、店は変わらず続いてるな」

ジョーの言葉に、サトウは穏やかな表情を浮かべる。店の灯りはゆらぎ、馴染みのローファイ・ヒップホップが流れている。

「はい。ここは私にとって、大切な居場所ですから」

ジョーはグラスに口をつけながら、つぶやくように言った。

「お前が人間だろうが人型ロボットだろうが、俺は変わらず通うさ。ここは安心できるからな」

それは短い言葉だったが、その奥にある信頼がサトウの胸を温かくした。心のどこかで抱えていた不安や罪悪感が、ほんの少し解けていくような感覚だった。とはいえ、ノイズは確かに消えないだろう。 今後も外部からのアクセスや、不必要に深く真実を探ろうとしたときに現れるかもしれない。だがそれこそがサトウを守ることを願った、前オーナーの願いなのだ。

だからサトウはこの先も、人型ロボットである自分を声高に主張することはないだろう。それよりも訪れる人々をそっと迎え入れ、彼らが必要とする一皿を差し出す。それがどんなに小さな行為でも、誰かの孤独を癒やす匙になれると信じている。

店じまいを済ませたサトウは、薄汚れたアスファルトの道へ通じる木の扉をそっと見つめる。外はネオンの灯りが絶えず、社会の歪みや陰謀の影がいまだうごめいている。しかし、この場所だけは変わらず人々を受け入れる。サトウの瞳には、ほんのりと電子的な光が宿っていた。それが「人間らしい」かどうかは誰にもわからない。けれど、今日もまたここには、客の「ただいま」という声が響き、ひと時の安らぎが用意されている。

「メタリックの匙」の夜は、変わらぬ灯火を宿しながら、これからも静かに、そして穏やかに続いていく。

<完>

文/鈴森太郎(作家)

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