フジテレビの数々の情報番組で司会を務めたフリーアナウンサーの小倉智昭氏が亡くなった。
小倉氏は、筆者の住まう静岡市の住民にとっては特別な存在である。なぜなら、テレビ東京のホビー番組『タミヤRCカーグランプリ』のナレーター「小倉のお兄さん」だったからだ。この番組には、小学館も協力していた。
今考えると、『タミヤRCカーグランプリ』は非常に特殊な内容の番組である。舞台は静岡県静岡市のタミヤ本社のサーキット、それをテレビ東京とそのネット系列局が毎週報道するのだ。『タミヤRCカーグランプリ』が放映されていた1984年から1999年までの時代には、静岡県にテレビ東京系列のネット局はなかった。にもかかわらず、「静岡市が舞台のホビー番組」が制作されていた。
この番組は、「地方都市の産業振興」を考える上で極めて重大なヒントを与えてくれる。
80年代は「RCカーの時代」
『タミヤRCカーグランプリ』は、その名の通りリモコンで操作できるRCカーのレースイベントや車体の組み立て、メンテナンス方法の紹介などを取り上げる内容だった。
80年代、タミヤは「電動モーターで動く自動車模型」の第一人者だった。その分野を席巻していた、と言ってもいいだろう。これにはタミヤが直面していた「消費者ニーズの転換」が大きく関係している。
70年代のタミヤの主力製品は、1/35MMシリーズを中心とするミリタリーモデルだった。ベトナム戦争が終結する1975年に最盛期を迎えたが、そこからはかつてのプラモ少年たちが就職や結婚を契機に趣味から離れていってしまった。さらに、ミリタリーモデルブームを凌駕する様々なブームが到来し、80年代は「ミリタリーモデル冬の時代」と呼ばれる状況に突入した。
このタイミングでタミヤが見出した新たな方向性、それがRCカーとミニ四駆だった。
1984年に放送が開始された『タミヤRCカーグランプリ』は、動かない情景用模型に代わる主力製品としてRCカーを大々的にプッシュした番組なのだ。
「小倉のお兄さん」として番組ナレーターを務めた小倉氏は、番組全体を軽く明るい色合いにする貢献を果たした。早口だが決して重苦しくないトークで、番組内容を誰にとっても分かりやすく解説する小倉のお兄さん。これを視聴する子供たちは、お兄さんがプロのアナウンサーということは一切知らない。そう、彼は「お兄さん」なのだ。いろんなことを優しく楽しく教えてくれる、少しおっちょこちょいな近所のお兄さん。それが当時の少年たちにとっての小倉智昭だったのだ。
小倉氏の語り口はレーシングRCカーのハードルを低くすることに成功し、「RCカーは誰でもできるホビー」に変貌させた。ナレーターが小倉氏でなければ、RCカーは今でも「一部の大人だけが熱中する手の出しにくい趣味」のままだったかもしれない。
女性リポーターとタミヤの開発スタッフ「前ちゃん」こと前田靖幸氏が、RCカーのイロハを優しく丁寧に解説してくれるコーナーも番組内で設けられていた。インターネットというものがない時代、このコーナーは子供たちにとっては貴重な情報源だったことは言うまでもない。また、レース終了後の表彰式で優勝者がもらえる景品は、立派なトロフィーとタミヤの新しいRCカー。大人が持っても巨大なその箱に、全国の子供たちは目を輝かせた。
プラモデルと茶は同列ではなかった
RCカーレースのアナウンスも小倉氏の役割である。
普通、モーターレースのアナウンサーといえば重厚で立体感のある声を放つことのできる人物がその役を任される。が、小倉氏の声は迫力とはまったく程遠い。だからこそ、少年たちは気軽な心構えで静岡市のタミヤ本社併設サーキットを目指すことができたのだ。
また、この時代の静岡市は行政レベルで「プラモデルの草の根普及」を考えていなかった点も考慮する必要がある。
今でこそ、静岡市は小中学校の授業にプラモデル制作を取り入れるなど、ホビー産業の振興に熱心だ。しかし、80年から90年代にかけての静岡市はそうではなかった。RCカーを含むプラモデルは「子供とオタクの遊び」に過ぎず、静岡市の他の主力産業である茶、缶詰、サクラエビ等の海産物の生産に肩を並べるものではないというのが、一般市民のおぼろげな意識だった。
大人、特に社会的に高い地位を持った者は、「その当時の風俗を象徴するモノ・コト」に目を向けようとはしない。自治体が実施するタイムカプセル事業などを見れば、それがよく分かるだろう。背広を着た大人たちだけが関わっているタイムカプセルの中にあるのは、当時の新聞や市町村の広報紙、貨幣、施設の建設に関わった職員の名簿くらいだ。「当時の子供たちの間でこんなものが流行した」ということに一切目を向けないため、結果として「無難でつまらないもの」ばかりがタイムカプセルに収められるのだ。
そのような状況から数十年を経て、プラモデル産業はようやく「地域を発展させる主幹産業」であることがスーツの大人たちにも認識された。
ありがとう、小倉のお兄さん!
プラモデルがネット転売の対象になってしまうほどの人気商品ということは、今や静岡市民の誰しもが知っている。
一方、静岡市を始めとする静岡県下の自治体は、若者の大都市圏への流出が止まらない。茶産業には全国各地にライバルが数多く存在し、駿河湾のサクラエビももはや1シーズンに何千トンも漁獲できるものではなくなった。唯一、プラモデル産業だけが今でも「他を圧倒する優位性」を保っている。
静岡市民がこの産業のさらなる発展を計画する時、大いに参考になるのが「小倉のお兄さん」ではないか。
情景用模型もミニ四駆もRCカーも、世界中の誰もが楽しめるホビーである。そこには老若男女や国籍は一切問わない。そうしたことを、小倉のお兄さんは我々に教えてくれたのだ。
文/澤田真一
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