「家族と仲が悪く毎日イライラしている」「職場の上司と性格が合わなくてつらい」「恋愛がうまくいかず苦しい」。
私たちの人生には、このような乗り越えるべき「壁」がたくさんあります。その中でも最も大きな障害は「自分自身」かもしれません。なぜなら、悩みや苦しみは、「他人」が生み出しているのではなく、紛れもなく「自分」から生まれているものだから。
YouTube登録者数約70万人を誇る大人気僧侶・大愚和尚こと大愚元勝氏による累計5万部突破のベストセラー『自分という壁 自分の心に振り回されない29の方法』から一部を抜粋・編集し、自分を知り、受け入れ、変えていくためのヒントを紹介します。
「諦める」ことで、大切なものが明らかになる
■「この世の終わり」は新しい世界への第一歩
「大好きだった人と別れた」
「大切な人が亡くなった」
「第一志望の採用試験に落ちた」
「信頼していた人に裏切られた」
そういう瞬間が訪れると、私たちは絶望します。
しかし、「絶望」が突然やってくるわけではありません。いくつかのステップを踏むといいますか、絶望に到達するまでには「悲しみ」や「落胆」など、必ず別のネガティブな感情が生じています。
まずこれらがあって、その程度が甚だしくなったときに、絶望へと移行していくわけです。
絶望するような状況に陥ったら、大きなショックを受けるでしょう。
「この世の終わり」
「もう生きていられない」
場合によっては、そんなふうにとらえる人もいらっしゃるかもしれません。
打ちひしがれ、無気力になり、笑顔が消え、他人と接点を持つことを拒絶し、最悪の場合は自ら命を絶ってしまったり……。
絶望という感情が、このような悲劇をまねくケースは多々あります。
いずれにせよ、心身ともに一時的に相当なダメージを受けるので、仕事や勉強など、日常生活におけるすべてのパフォーマンスが低下したり、判断が鈍ったりすることは間違いないでしょう。
なにせ〝望〟みを〝絶〟たれてしまったのですから。
では、絶望にいっさいの救いがないかというと、そんなことはありません。
逆に、ポジティブにとらえることもできます。
絶望したということは、すなわち「限界を迎えた」「今よりもさらに落ちることはない」状況にあるということです。
であれば、「絶望したのはつらいけれど、望んでいたものはもともと自分には手の届かないものだった」と別の視点でとらえなおしてみたり、「自分にとってそもそも必要のないものだった」と考えることはできないでしょうか。
「ひとつの方向性に対して望みが絶たれた」ということは、「違う方向性に対して可能性が開けた」ということでもあります。
もしかしたら絶望を感じた瞬間は、自分にとって本当に大事なものを見極めていくチャンスかもしれないのです。
■どん底まで落ちたときに見えてくるもの
私は今「大愚元勝」と名乗っていますが、かつては「仏道元勝」という僧名でした。名前を変えるきっかけになったのは、なにを隠そう「絶望」です。
修行中の身だった私は、一生懸命に「なにか覚りを開かなきゃ」「もっと良い人間にならなきゃ」ということをずっと考えていました。
でも、どんなに修行に励んでも、なかなかその境地にはたどり着けません。
人生に絶望した私は、師匠に「もうダメです」という旨の手紙を書きました。
すると、返ってきた手紙にこう書かれていたのです。
「落ちろ! 落ちるところまで落ちろ! おまえは大きな愚か者だ。だから今日から『大愚』を名乗れ」
これを読んで気づかされました。「そうか、私は自分の愚かさを認めていなかったのだ」と。そして、「もっともっと」という欲やあがきを捨てて、心機一転やり直す決意を固めることができました。
まさにこの出来事が、私にとって人生の転機になったのです。
だから私は今、次のように考えています。
中途半端に受けたショックというのは、致命傷にならないため、人はまた愚かな行為をくり返してしまう。
どうせショックを受けるのなら、立ち直れなくなるくらいの大きなものであったほうがいい。
であれば、次のステップに進めるし、似たような過ちをくり返さないようになる。
したがって、絶望はできるだけ早く、なるべく若いうちに感じたほうがいい。
というように、完全にプラスにとらえているのです。お寺では日々、お弟子さんたちに「早く絶望しろ、早く絶望しろ」と言っています。みんなけっこうしぶとくて、なかなか絶望してくれませんが(笑)。
そして、絶望から立ち直るということは、それまで抱いていた自分の願望を手放すことができたということ、「諦め」を受け入れられたということです。
これは決して、悪いことではありません。
仏教では、煩悩的なことは全部諦めたほうがいいと説かれています。
食欲、性欲、権力欲、金銭欲。そういった欲望を手放していく、つまりは諦めていくことができてはじめて「覚り」に近づけるのです。
「諦め」には「ギブアップ」という意味がありますが、仏教では「明らかにする」という意味でも使われます。
自分にとって本当に必要なものであるか否かを明らかにしていく。
設定した目標の実現性や、自分の心技体の適性を見極めていく。
この行為が「諦め」とイコールで結ばれるんですよね。
本当に必要なものだったら、どんなことがあっても諦められません。諦めることができたということは、それが本当に必要なものではなかったということ。
自分に適した別のなにかがある。
絶望のあとには希望しかない。
これに気づくことができたのだ、と考えるようにしましょう。
■「諦め」を受け入れられないと苦しみが続く
このスタンスは、人生のいかなる場面においても通用しますし、効果を発揮します。
進学や就職における絶望はその典型例です。
進学校に通っていて、偏差値も申し分なく、模擬試験ではつねに志望校に対して合格率80 %以上のA判定。このような人が受験に失敗すると、もれなく絶望してしまいます。
諦めきれずに同じ志望校を目指して浪人するのは構いません。
でも、次の年も、その次の年も失敗して、2浪、3浪とくり返していくのはいかがなものか……。その大学はこの人にとって、本当に必要なものではなかった、ということではないでしょうか。
滑り止めで受かった大学に、妥協して入ったケースも然り。こういうケースではたいてい諦めを受け入れられず、4年間悶々とし続けたりします。
「こんなはずじゃなかった」
「ここは自分のいるべき場所ではない」
そうやって現実を直視せず、同級生を見下しながら学生生活を送るのです。
就職も思うようにいかなかったら、さらに〝ないものねだり〟は加速するでしょう。
受験に失敗して絶望したあと、「第一志望の大学には縁がなかったのだ」「これが今の自分の真の実力だから仕方がない」と、その出来事の意味をとらえなおすことができていれば、苦悩やコンプレックスを抱えることなく、新たな気持ちで充実したキャンパスライフを送ることができたかもしれません。
「諦め」を受け入れたことでそれまで気づいていなかった才能や適性が開花し、希望した会社に就職できていたかもしれません。
恋愛についても同じで、好きな人にフラれて一度絶望しても、それをずるずると引きずらないこと。「もっと自分に合う人、素晴らしい人に会うチャンスが生まれた」と考えましょう。
世の中で「成功者」といわれる人たちは、たいてい人生のどこかで絶望を経験しているものです。そこに希望はないと気づけたからこそ、別の道に希望を見いだし、サクセスロードを歩むことができた。そんなパターンが大半ではないかと思います。
お笑い界のレジェンド・明石家さんまさんは、かつてこんなことをおっしゃられました。
「生きてるだけで丸儲け」
まったくもって、そのとおりです。
プラス思考のかたまりのように見えるさんまさんの生き様は、絶望を感じている人たちにとって、またとないお手本になるのではないでしょうか。
■死の絶望を乗り超えた母の心の強さ
死を意識しなければならないような状況に直面し、絶望したときもこの考え方を忘れないようにしていただきたいと思います。
例えば、がんになってしまい、ステージ4まで進んでいることが判明し、余命宣告を受けたとしても、下を向かないということです。
がんになったら、誰もが大きなショックを受けるでしょう。
でも、まだ死ぬと決まったわけではなく、生きています。みんな、そのことが頭から飛んでしまうんですよね。そこに希望を見いださなければ、残された時間を大事に過ごすことはできないでしょう。
自分の生活習慣を悔やんだり、苦しんだり、悲しんだりしている間にも時間はどんどん過ぎていきます。
それはとてももったいない。限りある時間を有効に使うために、「これからの時間を後悔なく過ごしていこう」という希望を持つことが大切です。
「やりたいことがあったらやってください。行きたいところがあったら行ってください。謝りたい人がいたら早く謝ってください」
私は、病気になられていつお亡くなりになってもおかしくないという状況の方に対しては、こう言うようにしています。
身近なところでいいますと、私の母は、まさに絶望を希望に変えて、ある種の奇跡のようなものを起こしてくれました。
5年ほど前に受けた健康診断でステージ3の大腸がんが見つかり、医師に次のように言われました。
「転移している可能性がありますし、ご年齢がご年齢ですので、仮に手術で切除できたとしても、歩けなくなるかもしれません」
このとき母は82歳。歩けなくなるリスクを冒して手術に踏み切るか。それとも、手術をせずに治療しながら、残りの人生をまっとうするか。大きな決断を迫られました。
「切れと言われたら切ります。でも、転移が見つかれば、再手術が必要です。体力的なことを考えると、手術はしないほうがいいかもしれません」
これが医師の見解でした。
しかし母は、「一度死んだと思えば、なんでもできる」と、リスクを承知で手術することを選んだのです。
近いうちに死が訪れたら仕方がないという「諦め」を受け入れ、開き直れたからこそ、思いきった決断を下せたのでしょう。
そして、母は〝賭け〟に勝ちました。
手術は成功し、転移も認められず、つらいリハビリを乗り超えて、もとの生活を取り戻すことができたのです。
あれから5年以上が経ちましたが、今も元気に歩きまわっています。
人間、最終的にどうなるのかなんて、誰にもわかりません。
だからこそ、自分の人生は自分で選択して、悔いのないよう生きましょう。
もし母が歩けなくなっていたり、がんが転移していたりして、状態が急速に悪くなったとしても、自分で決めた結果であれば、きっと後悔なく旅立つことができていたと思います。
大事なのは、絶望したときに腹をくくることです。
「絶望したときこそ落ち着かなきゃダメだ。自分を見つめ直し、最善の道を見つけていく。それしかない。焦って、迷って、おたおたして、自分を見失うのは愚か者のすること。死ぬと決まったのにこれ以上暗くなる必要はあるか? どうせ死ぬんだから、それまで精一杯明るくやっていこうじゃないか」
ブッダの教えを〝超訳〟するとこうなります。
絶望からしか生まれない希望もある。
このことを、ぜひとも忘れないようにしていただきたいと思います。
☆ ☆ ☆
いかがだったでしょうか?
『自分という壁 自分の心に振り回されない29の方法』は、自己との向き合い方を深く考えさせてくれる一冊です。
人生の壁に直面した時、それを他人や環境のせいにするのではなく、自分の内側を見つめ直すことで新たな道が見えてくるかもしれません。
大愚和尚のメッセージは、読む人の心にそっと寄り添い、勇気を与えてくれます。本書を通じて、人生に立ちはだかる「壁」を超える力を、一緒に見つけてみませんか?
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■著者情報
大愚元勝
佛心宗大叢山福厳寺住職。慈光マネジメント代表取締役。慈光グループ会長。佛心僧学院学長。僧名「大愚」は、大バカ者=何にもとらわれない自由な境地に達した者の意。 駒澤大学、曹洞宗大本山總持寺を経て、愛知学院大学大学院にて文学修士を取得。 僧侶、事業家、作家・講演家、セラピスト、空手家と5つの顔を持ち、「僧にあらず俗にあらず」を体現する異色の僧侶。
YouTubeチャンネル「大愚和尚の一問一答」
構成/DIME編集部