南葛SCで3年間プレー。チームを勝たせられないと感じて決断
引退会見で南葛SCオーナーの高橋陽一氏から描き下ろしのイラストを贈られた稲本潤一
元日本代表・稲本潤一(南葛SC)が12月4日、長い現役生活に終止符を打つことを記者会見の場で正式に発表した。ガンバ大阪のアカデミーで育った17歳の若武者が97年にJリーグデビューを果たしてから早いもので28年。彼も45歳になり、体が思うように動かなくなったことを実感した様子だ。
南葛1年目だった2022年春。夜の練習後に笑顔を見せた稲本潤一
2002年日韓W杯で2ゴール。歴史を作った男!
とはいえ、稲本の歩んできたキャリアというのは称賛に値する。クラブレベルではガンバを皮切りに、J1、J2、J3、関東サッカーリーグ1部の国内5クラブでプレー。海外もイングランド、トルコ、ドイツ、フランスの4か国・7クラブで幅広く足跡を残した。
代表に関しても、U-17世界選手権(現ワールドカップ=W杯・エクアドル)、99年U-20ワールドユース(W杯・ナイジェリア)、2000年シドニー五輪と年代別世界大会を総なめにし、2002年日韓W杯に参戦。日本が大舞台で初めて勝ち点を得た初戦・ベルギー戦(埼玉)で2点目をマークし、さらに初勝利を挙げたロシア戦(横浜)では値千金の決勝弾をゲット。仲間を指さした”オレオレポーズ”で一世を風靡した。
「あの指タテポーズを(最後に在籍した)南葛でやってほしいと(オーナー兼代表取締役の)高橋陽一先生に言われたのに、できなかったのが心残りです」と本人も苦笑していた。
W杯3大会出場で2度のベスト16を経験
ジーコジャパン時代は中田英寿、中村俊輔(横浜FCコーチ)小野伸二(Jリーグ特任理事)らと「黄金の中盤」と位置づけられたが、2006年ドイツW杯は中田と福西崇史(解説者)の控えに。それでも、3戦目のブラジル戦(ドルトムント)では玉田圭司(昌平高校監督)の先制弾をアシスト。「稲本、ここにあり」を見せつけた。
その後、オシムジャパン移行は小野や高原直泰(沖縄SV)ら同世代の面々が次々と代表から外れていく中、稲本はオシム・岡田武史(FC今治会長)の両監督から招集され、最終的には2010年南アフリカW杯にも参戦した。この時は川口能活(磐田GKコーチ)、楢崎正剛(名古屋アシスタントGKコーチ)、中村俊輔らとともにベテランとしてチームを支える側に回ったが、日本が勝利したカメルーン戦(ブルームフォンテーヌ)とデンマーク戦(ルステンブルク)にクローザーとして出場。自身2度目のベスト16進出に貢献している。
日本代表は82試合出場5得点と、152試合の最多記録を持つ同い年の遠藤保仁(ガンバ大阪トップコーチ)よりはかなり少ないが、インパクトの強い活躍をしてきたことは事実。W杯の複数得点者というのは、本田圭佑、岡崎慎司(バサラ・マインツ監督)、乾貴士(清水)、堂安律(フライブルク)と稲本の5人しかいない。そこに名を連ねていることだけでも特筆すべきものがあるのだ。
2009年9月の欧州遠征。稲本はベテランの1人としてチームをけん引した
2002年8月のインタートトカップ・ボローニャ戦でのハットトリック!
稲本を語るうえで、もう1つ、忘れてはいけないのが、イングランド・プレミアリーグで初めて実績を残した日本人選手だという点。今では遠藤航(リバプール)、三笘薫(ブライトン)、冨安健洋(アーセナル)、鎌田大地(クリスタルパレス)ら複数選手が毎週のように試合に出ているが、2000年前後の時代は日本にとってプレミアは夢のまた夢だったのだ。
そこに真っ先に引っ張られたのが稲本。2001年夏に赴いた最初のクラブはアーセナルだ。当時のアーセナルはティエリー・アンリ、パトリック・ヴィエラ、ロベール・ピレスら世界最強と言われたフランス代表の主力選手がズラリと並んでいた。稲本がスター軍団の一員になれたのは、指揮官が90年代に名古屋グランパスを指揮した日本通のアーセン・ベンゲル監督だったことが大きかったが、日本人選手が最高峰リーグの扉を叩くこと自体、異例の出来事だったのである。
アーセナル時代は試合に出られない日々を強いられたが、日本代表活動に参加するたび「Jリーグにいるよりもアーセナルで練習している方がレベルが高い」と本人は口癖のように言っていた。前述の日韓W杯の2ゴールもその経験があってこそ。イングランド人の記者が「あれだけ能力のあるイナモトをアーセナルで使わないのはもったいない」と口を揃えたほど、彼は自身の評価を1年で一気に引き上げたのである。
「日本人とは思えないスケール感を持った選手」と先輩・宮本恒靖も絶賛
直後にレンタルで赴いたフラムでも凄まじいデビューを果たす。その大舞台となったのが、2002年8月のインタートトカップ(UEFAカップ出場権を争った大会)の決勝・ボローニャ戦のセカンドレグ。この頃のフラムは本拠地・クレイブンコテージが改修中で、ロフタスロードという別のスタジアムを使っていて、筆者もそこに赴いたのだが、稲本がいきなりハットトリックを達成。チームにタイトルをもたらしたのだ。歴史的場面を目の当たりにした衝撃は22年が経過した今も脳裏に焼き付いて離れない。
「日本人とは思えないスケール感を持った選手」とガンバ大阪の先輩・宮本恒靖(JFA会長)も語っていたが、そのポテンシャルの凄まじさを強烈に印象付けたのである。
だが、その爆発的なパフォーマンスがシーズン通して継続できなかったのが悔やまれるところ。02-03シーズンはケガもあって途中から出番を失ってしまう。レンタル延長となった03-04シーズンは尻上がりに調子を上げ、ついに2004年夏には完全移籍かと見られたが、その直前の6月のイングランド代表との親善試合で大ケガを負い、交渉が決裂してしまった。
イングランド大量移籍時代を作った先駆者
その後、稲本はウエスト・ブロミッチやカーディフに再レンタルされ、2006年にはトルコの名門・ガラタサライで再出発。ドイツのフランクフルト、フランスのスタッド・レンヌにも赴いたが、どこのクラブでも大ブレイクとはならなかった。やはり2004年6月の大ケガが最大のターニングポイントだったと言うしかないが、彼がイングランドの複数クラブでキャリアを積み上げたことで、その後の宮市亮(横浜F・マリノス)、浅野拓磨(マジョルカ)、冨安のアーセナル入りにつながったのは間違いない。
「イングランドは日本人にとって鬼門」と言われ、海外移籍の先駆者でもある中田英寿もボルトンで失意を味わったリーグ。そこで稲本が切り開いた道を2010年代に香川真司(セレッソ大阪)、吉田麻也(LAギャラクシー)、2020年代の南野拓実(モナコ)、冨安、三笘、遠藤らが引き継ぎ、現在のような日本人複数参戦状態を作り上げていった。その功績は非常に大きい。我々は改めて稲本の足跡をリスペクトすべきだろう。
「自分はどんな選手だったかと聞かれると特徴がないなと。フィジカル、技術、メンタルといった五角形があるとしたら、それを全ての面で最大値に近くしていこうと思ってここまでやってきました」と稲本は引退会見で語ったが、日本人という範疇をはるかに超えたスケールの大きなプレーというのは、紛れもなくこの男のストロングだった。
関西人らしい陽気で気さくなキャラクター、ヤンチャな一面も含め、永遠のサッカー少年は45歳までピッチ上を駆け抜けた。本人も「やり切った」というが、こういう現役生活を送れる選手はほんの一握りだ。だからこそ、第2の人生でより多くのものをサッカー界、スポーツ界に還元しなければならない。
稲本自身は指導者になると公言したが、指導者と言ってもJリーグの指揮官を目指すのか、育成年代を手がけるのかは未知数。いずれにしても、かつて”ビッグベイビー”と言われたこの男が見る者を魅了する次世代の選手を育ててくれれば理想的。ここからの歩みを興味深く見守りたい。
取材・文/元川悦子
長野県松本深志高等学校、千葉大学法経学部卒業後、日本海事新聞を経て1994年からフリー・ライターとなる。日本代表に関しては特に精力的な取材を行っており、アウェー戦も全て現地取材している。ワールドカップは1994年アメリカ大会から2014年ブラジル大会まで6大会連続で現地へ赴いている。著作は『U−22フィリップトルシエとプラチナエイジの419日』(小学館)、『蹴音』(主婦の友)『僕らがサッカーボーイズだった頃2 プロサッカー選手のジュニア時代」(カンゼン)『勝利の街に響け凱歌 松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか多数。