歴史的僅差の闘いになると予測されていたのに、ふたを開けてみればトランプ氏圧勝だったアメリカ大統領選に唖然となったのは、わたしだけではありますまい。ハリス氏がアフリカ系・インド系アメリカ人だからでしょうか、女性だからでしょうか、予備選抜きで候補になったためインパクトに欠けたせいでしょうか。要因はさまざまありましょうし、有識者の方々の分析もすでに発表されていますが、わたしはやはり経済の悪化と分断による対立構造に因があると思う者です。
【勝手にブック・コンシェルジュ】「もしトラ」が「またトラ」になって愕然としている皆さんに『ザ・ロード』を
「論語と算盤(そろばん)」という言葉をご存じですよね。新1万円札の顔になった渋沢栄一が、孔子(論語)の教えに従い、利潤追求(経済)と社会貢献(倫理)を両立させるのが経営思想の根幹になければならないと後進に伝えるべく書き表した本のタイトルです。わたしは治政にもこの思想は大事だと思うんです。経済と倫理の両立。どちらが欠けても優れた国家運営はできないのではないか、と。
ところがこれだけ経済状況が悪化してしまうと、人心は「人の道」ではなく「金の道」に傾いてしまう。かくして、「論語か算盤」となり、今回多くのアメリカ人が景気のいい話をポンポン口にするトランプ氏という「算盤」を選択したのではないでしょうか。
親ロシア、親イスラエル、反SDGs、人種差別者にしてミソジニーの塊であるトランプ氏が世界の命運を握るこれからの4年間が不安でならず、絶望すら覚えている方も少なくありますまい。そういう皆さんに、今回は2023年に亡くなったのが惜しい上にも惜しい小説家コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』をおすすめしようと思うのです。
『ザ・ロード』
コーマック・マッカーシー
ハヤカワepi文庫
希望の火を高く掲げ、前を向くための勇気をもたらす一冊
太陽の光も通さないほど厚い灰燼におおわれた寒々しい世界。核戦争でも起こったのか、木立は死に、動物の姿をめったに見ることのできなくなってしまった不毛の大地を、父子が南を目指してひたすら歩き続ける――。
ピューリッツァー賞を受賞した『ザ・ロード』はただそれだけの話です。ただそれだけを描いて、読後「泣ける」なんて甘っちょろいレベルではない、おごそかな感動で読者を圧倒してやまない小説なのです。
生存者たちはわずかな食糧をめぐって殺し合いをし、〈首を切り落とされ内臓を抜かれ串に刺されて焦げている赤ん坊〉のような無惨な光景がそこかしこで見られる。そんな人が人として生きることを許さない苛酷な世界で、父親は幼い息子を守るために自分は鬼になることを決めていて、こちらに害をなす者は容赦なく殺し、他人を助けることも極力避けるようにしています。
ところが、世界が終わりを迎えた数日後に生をうけ、この殺伐たる世界しか知らないにもかかわらず、いえ、だからなのでしょうか、息子は自分たちが〈火を運んでいる〉善き者だという父の教えを信じ、純真な心を失わないのです。
こんな印象的な場面があります。荷物を盗んだ泥棒を殺そうとする父親を必死で止める息子。その場で命を奪うことはとどまるものの、“核の冬”の寒さの中、制裁のため盗人を真っ裸にひんむいて置き去りにしようとする父親に、息子は懇願します。
〈助けてあげてよ、パパ。さっきの人。
彼はもと来たほうをふりかえった。
あの人はおなかがすいてただけなんだよ、パパ。このままだと死んじゃうよ。
あの男はどうせ死ぬんだ。
今とっても怖がってるよ、パパ。
彼はしゃがんで少年を見た。怖がってるのはおれだ。わかるか? パパなんだ。
少年は答えなかった。坐りこんだまま頭を垂れてすすり泣いていた。
いろんな心配をしなくちゃいけないのはお前じゃないからな。
少年はなにかいったが、彼には聞きとれなかった。なんだって? と彼はいった。
少年は涙と汚れでぐしゃぐしゃの顔をあげた。ぼくだよ、といった。それはぼくなんだよ。〉
少年が指す〈それ〉とは極寒の中裸で放り出された〈どうせ死ぬ〉泥棒のことなのでしょう。〈それ〉とは怖がっている者のことなのでしょう。そして、〈それ〉とは心配しなくちゃいけない者のことでもあるのです。
“善き者”として育てられた少年は気づいています。父親を先に亡くしてしまった場合、どうやってサバイブしていかなくちゃいけないのかという個人的な心配を抱える者にして、この世界の行く末を心配することまであらかじめ義務づけられた幼き者、つまり未来の人が自分なのだということに。
この終わりの世界にあって、息子には人の心を失わず生き続けてほしいと願い、だからこそ善意や優しさを教えてきた父親は、しかし、生き延びるためには他人を押しのけてでもという悪意も伝えなくてはならない矛盾に苦しんでいます。この、苦悩を抱えながらか弱い息子を守って、汚染が少ないと思われてる南を目指す父親の姿に、わたしはある聖人の面影を重ねます。それは「キリストを運びし者」として知られる聖クリストフォルス。
人をかついで無償で川を渡してやっていた力持ちのクリストフォルスは、ある晩ひとりの子供から向こう岸に連れていってほしいと頼まれるのです。ところが、その子供の重さときたらはんぱじゃない。やっとのことで向こう岸に着き、「まるで世界を担いでいるみたいだったよ」と言うクリストフォルスに子供はこう告げます。「汝の担ぎしは、世界よりも大きなイエス・キリストなり」。
幼な子は一人ひとりが命や希望という火を運ぶイエス・キリストなのだ。だから、すべての大人は聖クリストフォルスのようであれ。わたしはこの小説から作者のそんなメッセージを受け取ったんです。
世界が終わりを迎えても、世界が絶望に包まれても、なおわたしたちは人間でいることができるのか。希望の火を消さずに掲げていられるのか。読後、さまざまな思いが胸を満たします。
トランプ氏が再選したとて世界が終わりを迎えるわけではありません。絶望する必要はありません。希望の火を高く掲げて、未来の人である子供たちにとって人間らしく生きていける豊かで平和な世界を手渡すために、絶望の種を撒くかもしれない人間や現象を注視していくこと。黙示録的世界を描きながら創世記の光を放つこの小説は、そんな前を向く勇気をもたらしてくれる指南書だとわたしは思っているのです。
文/豊崎由美(書評家)
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