毎年11月は七五三のシーズンですが、昔から日本には子どもの成長を願ったり、お祝いする行事や習慣がたくさんあります。しかし、当時と現代では時代背景が大きく変化していることもあり、その行事に込められた本来の意味まできちんと理解している人は、少なくなっているのではないでしょうか?昔から子どもを大切にしてきた、日本の行事について解説します。
日本では、子どもは天からの授かり物
我々日本人は、出産した時に、「子どもを産んだ」ではなくて、「子どもを授かった」と口に出しませんか?この「授かる」という言葉に、日本人の子ども観が凝縮されていると思います。我々にとって子どもは、天からの授かり物、つまり神の分身なのです。
これに対して英語圏では、かつて(19世紀ごろ)は子どもを「He」(彼)とか「She」(彼女)ではなくて、「It」(もの)で表現していたそうです。欧米では理性を備えた人が「人」であり、子どもは「人」に至っていない前段階の「もの」と捉えていたようです。対して日本では、子どもを天から授かった尊い存在と感じるため、「七五三」以外にもいろいろな儀式や習慣があり、子どもの成長を見守ってきたのでした。
出産前から出産までの儀式や習慣
●岩田帯
妊娠して5カ月目の戌(いぬ)の日に、岩田帯と呼ばれる、紅白の絹2筋と白の木綿1筋を妻の実家が贈り、それをもって神社に詣でて安産祈願をしてもらう。その後、絹の岩田帯を産婆さん、あるいは安産を経験した人生の先輩に結んでもらうというのが一連の儀式です。その後は、さらしの岩田帯を日ごろは巻いて過ごします。犬はお産が軽いので、それにあやかり戌の日にすると言われています。ちなみに岩田帯は、災いから身を守る「斎肌帯(いはだおび)」が語源になっています。
●胎教
1960年代に、医学の進歩により、胎児にも聴覚や記憶能力があるということが解明され、胎児とコミュニケーションをとる胎教という行動が注目されるようになりました。しかし、実は日本では、江戸時代から胎教はあったのです。男の子を授かった場合は武者絵を、女の子の場合は美人画を部屋に飾って貞婦伝を読み聞かせていたそうです。
でも、いまのように妊婦のお腹の中を超音波で見ることができない時代に、男か女かどのよに見分けていたのでしょうか?みんな直感が鋭くて、お腹の中の子の性別くらいはわかったのかもしれません。もっと不思議なのが、5カ月目に結ぶ岩田帯です。実は岩田帯を結ぶ5か月目というのは、お腹の子がちょうど人の形になる時期にあたります。今でこそ医学が発達して単細胞から始まり5カ月でちょうど人の形にまで進化することがわかっていますが、こちらも直感で5カ月目に祝うようになったのでしょうね。万物に神様を感じる感性の鋭い日本人ならではだと思います。
誕生から初誕生祝いまでの儀式や習慣
●へその緒
子どもが生まれると、へその緒は竹の刀で切ります。竹は節を超えてまっすぐに伸びるので、人生の正しい生きざまを現します。切ったへその緒は、九死に一生の場面で飲ませると必ず治る究極の薬として、保管しておきます。
●お七夜
産まれて7日目には、生まれた子どもの名前を書いた命名書を神棚か床の間に置いて、両家のご両親や産婆さんを呼んで誕生を祝います。祝いの席にはおかしらつきの魚がつきものです。なぜなら「おかしら」は、尾から頭という意味で、一生を全うすることにつながるからです。
●お宮参り
産後30日前後で、子どもの誕生を氏神様に報告に行きます。母親は出産でたくさんの血を流していて氣が下がっているため、母親の喪明けもかねて神社に参ります。母親は喪が明けていないので、子どもは通常父方の母(子どもからみた祖母)が抱きます。
このように繰り返し神詣でに参りますが、衣装は神事なので礼装着になります。日本の礼装着といえば本来は着物ですね。それで、生まれた子どもには産着を着せます。両親は第一礼装である、黒留袖、黒紋付、色留袖。準礼装である、訪問着、付け下げ、紋入りの色無地、小紋三役柄(鮫、行儀、通し)の紋入りの江戸小紋がふさわしいと思います。帯は金銀地の袋帯、半衿や足袋は白です。色は、白に始まり、色々な色を混ぜていくと黒に近づきます。そのため白と黒が一番格の高い色とされており、礼装の世界では、白黒、あるいは豪華な金銀を基本に合わせるのがきまりとなっています。
●お食い初め
生後100日で、子どもを家の祖父母などの長老が膝の上にのせて、箸をとり、生まれて初めて母乳以外の食べ物を口にする真似をする儀式です。これから、母の母乳を離れて育っていくので、一生食べ物に困らないようにとの願を掛けるのです。それに加えて、神社から拾ってきた石と梅干をのせます。石は立派な歯が生えますように、また梅干しはシワシワになるまで長生きできますようにとの願掛けのためです。
●初誕生祝い
お餅を風呂敷でくるんで、子どもに背負わせます。早くひとり歩きができますようにとの願掛けをするのです。また子どもの前に、そろばん、筆、辞書を置いて、どれかを取らせてその子の将来就くべき職業を占う「選びとり」も同時に行います。そろばんだと商人、筆だと文筆家、辞書を取ったら、学者に育てましょうか?
そして七五三へ
江戸時代には、ゼロという数字の概念がありませんでした、それで、年齢も生まれるとすぐに1歳、正月で一つずつ年を重ねていく、数え年と呼ばれる計算式を用いていました。それが明治になり欧米の影響で、生まれてから1年はゼロ歳、その後誕生日ごとに1歳ずつ重ねるようになりました、現在使っている満年齢ですね。
ということで、江戸時代には正月ごとに年齢が上がっていくので、誕生日という考え方はありませんでした。ただし、1年目だけは初誕生祝いとしてお祝いをしました。奇数は割り切れないので進化する、だから縁起がいい陽の数だと考えました。一方で、7歳までは神のものなので、1歳と3歳と5歳と7歳に神頼みを繰り返したのでした。3歳から7歳は七五三として、残る1歳を初誕生祝いとして祝ったわけです。
七五三のうちの3歳は「髪置きの祝い」といって、白髪になるまで生きながらえるようにと、頭に白い綿帽子をかぶせます。5歳は「袴着の祝い」といって、袴をはかせて、碁盤の上に立たせて、四方を拝んで飛びおります。碁盤が勝負を指していて、勝負を制することができるようにとの願かけです。7歳は「紐落とし」といって、それまでの紐付きの着物から大人と同じく紐なしの着付けにかわります。鬼宿といって、鬼が休む日で、災いが起らないので江戸時代から、11月15日に参るようになりました。
また、「7歳までは神のもの」との言葉があるように、昔は7歳まで生き延びるのは大変でした。いまでこそ、乳幼児の死亡率は3%ほどですが、江戸時代には50%を超えていました。例えば11代将軍徳川家斉公は、40人の側室との間に55人の子を儲けましたが、34人が七歳までに亡くなっています。だから、七五三のように7歳までに行う習慣が特に多いのです。そして七歳を経て、初めて役場の台帳に子の名前を登録していたのでした。
十三参りそして大人への仲間入り
7歳を越えて身体が安定すると、次は知恵を授かりたくなりますね。ということで、知恵の神様である虚空蔵菩薩にお参りするのが、十三参りです(4月13日ごろ)。これは関西を中心に行われてきた儀式です。この時には、大人と同じ仕立て(本裁ち)の着物に、まだ子供なので肩上げをして着装します。このころになると、女性は初潮があり大人の身体に変化します、男性も女性に準じて、元服や成女式を経て大人への仲間入りをします。
儀式や習慣が美しい心を育ててきた
このように、日本には七五三以外にもたくさんの子供を見守る儀式や習慣があります。このような習慣を通じて、繰り返し親族が集まる、神詣でをすることで、親族の親睦を深め、また自分の心を清めていたのでした。これが、日本人の美しい心を保ってきたとも言われています。それぞれの儀式や習慣をしっかりと次の世代に伝えて、日本の心が風化しないように心掛けたいものですね。
文/池田訓之
いけだ・のりゆき。株式会社和想 代表取締役社長。1962年京都に生まれる。1985年同志社大学法学部卒業。インド独立の父である弁護士マハトマ・ガンジーに憧れ、大学卒業後、弁護士を目指して10年間司法試験にチャレンジするも夢かなわず。33歳のとき、家業の呉服店を継いだ友人から声をかけられたのをきっかけに、まったく縁のなかった着物の道へ。着物と向き合うなかで、着物業界のガンジーになることを決意する。10年間勤務したのち、2005年鳥取市にて独立、株式会社和想(屋号 和想館)を設立。現在は鳥取・島根にて5店舗の和想館&Cafe186を展開。コロナ禍前には、着物業界初の海外店舗・和想館ロンドン店も営業。メディア出演や講演会を通じて、日本の「和の心」の伝道をライフワークとして続けている。著書に「君よ知るや着物の国」(幻冬舎)。