2024年は日本の人口の約半分が50歳以上になるといわれ、少子高齢化は確実に進んでいます。
現役世代が減ることによる人手不足が懸念されていますが、その人手不足によって「おひとりさま」の高齢者へのケアが、今後ますます厳しくなることが予想されています。「おひとりさま」と言われると家族のいる人は、他人事のように感じるかもしれませんが、パートナーが認知症になったり、先に亡くなってしまったらどうでしょう? 子供がいても独立して家庭を持っていれば、簡単に頼ることもできません。
司法書士として高齢者のサポートを20年以上続けてきた太田垣章子さんは、いまや「1億総おひとりさま時代」だと警鐘を鳴らします。誰もが「おひとりさま」になり得る時代、人に迷惑をかけず、楽しく生き抜くための準備が必要なのです。動くのも考えるのも、億劫になる高齢者になってからでは遅いので、体力と気力がある、いまこそ準備の始め時。
そこで、今回は『あなたが独りで倒れて困ること30』(ポプラ社)から、人生の最後の決断を自分でくだしておくことの重要性をご紹介。人生の最期を家族の誰かに判断させることほど残酷なことはないのです。
いざという時、どこまでの治療を受けるか決めた方がいいですか?
■遺された人たちが迷ってしまうケースは意外と多いのです
日本人はとかく「お金のことを口にするのは、はしたない」「死ぬ時のことを話すのは、縁起が悪い」そう刷り込まれてきた気がします。
それが「老後2000万円問題」を発端に、国民一人ひとりがそれぞれ自分の老後のお金を貯めなければならないということを自覚し始め、それに関連して「投資」という単語もお馴染みになったほど状況は変わりました。
同時に「終活」という言葉も、かなり浸透したと思います。
それでもまだ、いずれ自分も認知症になっていったら……と弱ってくることを受け入れられない人が多いのも、先の刷り込みの話からすると、仕方がないことかもしれません。
私の父は、「自分は死なない」「自分はボケない」と豪語していました。
二人の娘は、税理士と司法書士。知識のある専門家が家族に二人もいるというのに、二人からのどんなアドバイスにも、耳を貸しませんでした。
父は、確かに体力がありました。鍛錬もしていました。10階くらいまでは若い頃からエレベーターを使いませんし、孫を抱くと胸筋が発達して家族を驚かせたくらいです。父が自分は「死なない」と言うと、あり得ないと分かっていても「もしかして……」と思わせるくらい、生命力がありました。
そんな父にも、ある日「突然」、がやって来ました。
40年ぶりに旧友と自宅で囲碁を打つと、父はわくわくしながら昼食をとりました。しっかり食べて、そろそろその友人が到着する、という段階で父はソファでうたた寝です。猛烈商社マンだった父は、どんな場所でも一瞬で爆睡し、「だから闘える」と自慢していたほどです。そのため母もいつものことと、気にしていませんでした。
待ち焦がれたお相手が来られた時、父は目を覚ましませんでした。そこで初めて母は異変に気が付きます。
せっかくのお客様は家にも上げてもらえず、そのまま心配な思いを抱えて帰路へ。父は救急車で病院へ運ばれました。
診断は脳幹梗塞。即死の方が多い中、一命は取り留めたものの、父の脳は真っ黒の状態に。いわゆる植物状態になってしまいました。ここで私たち家族は医師に問われます。
「脳はもう何も感じない状態です。脳が復活することはありません。コミュニケーションを取ることもできません。このまま何も治療しなければ、2、3日だと思います。どうしますか?」
私はもう回復しないなら、このまま逝かせてあげたいと思いました。本人も楽しいとか嬉しいといった感情を、抱くことができません。機械に繋がれ、ただ死んでいないだけの状態。それはあまりに辛いだろうと思ったからです。
姉は、機械に動かされているとしても、生きていて欲しい、そう言いました。
本人の予めの意思表明はなく、家族で意見が分かれると、医師は生かす方向にしか動けません。責任を問われるのが、怖いからです。
そうして父の植物状態生活は、始まりました。
病室に行くと、父はいろいろなものに繋がっています。機械の音が聞こえ、もちろん父に触れても、声をかけても反応はありません。ただ機械のしゅー、しゅーっという音が聞こえてきます。医師は「本人は何も感じていない」と言いますが、父の顔は険しいものでした。それを見るたびに、父を生かすことが正解だったのか、という思いが頭から離れませんでした。
3ヶ月くらい経った頃だと思います。
母が「いつまで続くんやろ……」そうつぶやいたのです。
ゴールが見えないため、不安になるのは分かります、でもそれだけは言って欲しくない言葉でした。生かしてしまったのは、他でもない、私たちなのですから。
80歳を超えて、母は1時間かけて病院に通います。「タクシーを使って」と言っても、もったいないと電車とバスを乗り継ぎます。どちらかと言えば、我が家は富裕層に入る家庭だったと思います。それでも無駄なお金を使うことに慣れていないのでしょう。暑い日など母の身体が逆に心配になりますが、それでも頑なにタクシーは利用しませんでした。
そして病室でただ横たわっている父と、会話できるわけでもなく、手を握り返してくれるわけでもなく、僅かな時間を共にして、そしてまたバスと電車を乗り継いで、1時間かけて家に戻ってくるのです。
「機械の音しか聞こえないから、気が滅入る……」
母がそう言うので、もう病院に毎日行かなくてもいいよ、百貨店にでも行って楽しんできたら、と言うのですが「ご近所の人に、旦那が入院しているのに奥さんは遊んでばかりと思われる」とのことで……。
そんなこと誰も思わないだろうに、母は自分が勝手に抱いた呪縛を拭い去れず、老体に鞭を打って病院に通いました。いったいいつまでこの状態が続くのか、そう気が滅入っても仕方がないことだと思いました。
病院の医師に聞いても、同じような回答でした。
「ご家族の大半は、判断を迫られると何とかしてください、と嘆願されます。
ただ皆さん、2、3ヶ月経つと、いったいこれがいつまで続くのかと尋ねられます。
保険が利く部分もあるとはいえ、場合によっては経済的な事情もでてくると思います。どのような方法であれ、コミュニケーションが取れないままだとご家族が辛くなってしまうことも当然かと思います。
ただいったん生命維持の方向に進んでしまうと、それを外すことは殺人となってしまいますので、ご本人の生命力に任せるしかありません。長い方だと何年も同じ状態ということもあり得ます。難しい問題ですよね」
本人から「こうして欲しい」と言われたことがない状態で、「このまま逝かせてください」と言える家族がどれだけいるでしょうか?
悲しいけれど、いつも「必ずこうしてくれ」と言われ続けていたら、それを尊重しよう、と諦められるのではないでしょうか。
父はその後1年ほど、同じ状態でした。入院するまで本当に元気な人だったので、このまま何年もこの状態が続くのかな、そう思う頃、二度目の脳梗塞を起こして息を引き取りました。
「しんどいのではないですか?」
そう何度も医師に確認するくらい、植物状態の父は険しい顔をしていました。
「何も感じていませんよ」
医師は同じ言葉を繰り返していましたが、本当に険しい苦しそうな顔でした。
でも亡くなった時の顔が、穏やかで解き放たれたような顔だったので、私は父が亡くなった寂しさより、「やっと機械から解放されて良かったね」とホッとした思いが強かったのを覚えています。
89歳という高齢で亡くなった父。あの時、どういう判断が良かったのか、私には未だに答えが見えません。ただあの時の父の苦しそうな顔が忘れられず、答えてくれなくても最期をどうしたいか聞き続ければ良かったと思っています。
同じような経験をした友達がいます。
彼女のお父さんも、同じように反応もない状態での入院でした。何を言っても理解できないし、脳は何も分からない状態だと医師から説明を受けました。
年老いた母、そして姉と彼女が入れ替わり病院に通いました。経済的な負担も大きかったと言います。医師には「何とか助けてください」と言ったものの、肉体的にも経済的にも負担になってきました。
ある時、彼女は追い詰められて思いを口にします。
「お父ちゃん、そろそろ逝ってくれんか」
そう言わざるを得ないほど、自分の人生を必死に生きている世代の負担は計り知れないものでした。医師は何も理解できないと言ったけれど、その言葉が届いてしまったのか、お父さんはその1週間後にお亡くなりになりました。未だに彼女は、言葉にしてしまったことを後悔しています。彼女の言葉でお父さんが亡くなった訳ではない、そう言っても、彼女の背負った十字架を取り除くことはできません。
人の人生の最期を、他でもない自分ではない誰かに判断させるということは、本当に残酷なことだと思います。瀕死の状態の家族に、誰が「もう(治療を)止めてください」と言えるでしょう。気持ち的には奇跡を祈るような思いで「何とかお願いします」と言ってしまうのが自然なことではありませんか? ただその先のことは、経験した者しか分かりません。どちらにしても大変な決断です。
そしてその決断を、家族にさせてはいけないのです。
だからこそ自分で、決めておかねばならないのです。
たとえば
●胃ろうをするかどうか
●人工心肺を使うかどうか
●脳が判断できなくなったらどうしたいのか
●コミュニケーションが取れなくなったらどうなのか
きっとこういった問いは無数にあります。
それでも自分の人生は自分で決めたくないですか? 大切な家族に判断させて、その人の先の人生に十字架を背負わせたいですか? 子どもがいない人なら、長年会ってもいない甥っ子や姪っ子が判断を迫られることになります。彼らはどうやってあなたの意思を汲むことができるのでしょうか。
普段から死生観を聞いている人だからこそ、まだ判断ができるのです。ここ数年、話もしていないという状況なら、判断のしようもないと思います。
日本には、尊厳死協会というものがあり、この団体では、病気が治る見込みがなく死期が迫ってきた時、自分自身がどうしたいかを選ぶ権利を認めてもらう活動を行っています。協会では、「リビング・ウイル」といって、自身の意思を書面に残しておくことをすすめていますからぜひHPを見てみてください。
あなたにとって、生きるってどういうことですか? そこから目を背けずに、決めましょう。そしてそれを身近な家族に、きちんと伝えておきましょう。伝える人がいなければ、きちんと形にしておきましょう。
自分の人生に、責任を持つ。今はもうそんな時代なのです。
【まとめ】生きるってどういうこと? を考え自分の最期は自分で決めて託しておく
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『あなたが独りで倒れて困ること30』(ポプラ社)1320円
著者・大田垣章子
文/太田垣章子( おおたがき・あやこ)
司法書士・賃貸不動産経営管理士。
登記以外に家主側の訴訟代理人として、延べ3000件弱の家賃滞納者の明け渡し訴訟手続きを受託してきた賃貸トラブル解決のパイオニア的存在。決して力で解決しようとせず滞納者の人生の仕切り直しをサポートするなど、多くの家主の信頼を得るだけでなく滞納者からも慕われる異色の司法書士でもある。著書に『2000人の大家さんを救った司法書士が教える 賃貸トラブルを防ぐ・解決する安心ガイド』(日本実業出版社)、『家賃滞納という貧困』『老後に住める家がない!』『不動産大事変』(すべてポプラ新書)がある。