古墳王子の早口コラム
こんにちは、小学生の頃から古墳の魅力に目覚め、訪ねた古墳は3000基以上の高校生、古墳王子です。
このコラムでは皆さんにディープでマニアックな古墳の魅力が伝わるよう、僕が感じた感動や発見をオタク特有の早口でお伝えしていきます。
さて今回は、古墳時代のヤマト王権下で古墳の築造から葬送儀礼を一手に引き受けていたと考えられている、古代氏族・土師氏(はじし)について迫っていきたいと思います!
巨大古墳築造プロジェクトで大活躍!日本最古のスーパーゼネコンの手腕はいかに!?
土師氏が手がけたであろう一番大きなプロジェクトは、日本一巨大で世界遺産にも登録された大阪府の大仙古墳。宮内庁さんは地域の伝承などを元に仁徳天皇陵と治定してしまっているけど、実際のところは別の天皇陵かもしれない、未だ論争が絶えない古墳で、治定された明治時代以降立入厳禁となっていますが、近年周堤部の発掘調査が行われるなど、注目度は今も高いままです。
そんな大仙古墳の大きさは全長約840メートル(周濠を含む)、後円部の高さは約35.8メートル!想像できますか?
ぼくは何回も大仙古墳に通っていますが、古墳の周りを一周するのに歩いて1時間はかかります。高さは例えるならマンションの13階にも相当するでしょう。これを重機もない約1500年前に築造してみせたのである。土師氏、どんだけ-!!
ちなみに現代のスーパーゼネコン・大林組さんの試算によると、古墳時代当時の工法で総工期は15年8ヶ月、総作業員数は680.7万人、総工費は796億円!!この数字だけでも土師氏は古墳時代の墳墓担当スーパーゼネコンといえるし、これだけの費用を投入できたヤマト王権もなかなかに凄いのである。
大仙古墳(大阪府堺市)
文献からみる土師氏の由来と活躍の歩みとは?
古墳時代は今から約1500年前といわれていますが、確かその頃は文字が無かったんじゃ・・?それなのにどうして古墳の築造師が土師氏だってわかるの?その答えは奈良時代に編纂された日本最初の歴史書『日本書紀』にあり!
古語で書かれていて内容も難しいので簡単に訳すと、土師氏の祖先は素戔嗚尊(スサノオノミコト)の息から生まれた天穂日命(アメノホヒノミコト)という神様で代々出雲に住んでいたが、その子孫である野見宿禰(のみのすくね)が垂仁天皇の皇后が亡くなった際に「殉葬はやめましょう」と進言して、出雲から100人もの工人を呼び寄せ、自らも土を使って人や馬などの埴輪を作って献上しました。
そのアイデアと出来映えに喜んだ垂仁天皇は、野見宿禰を土師職(葬送儀礼担当)に任じ、それに伴って野見宿禰一族は土師氏を名乗るようになったと記されています。
ちょっと最初の方はファンタジー入ってない?ってツッコミたくはなりますが、確かに日本書紀に土師氏の名前は登場するのである。ちなみに野見宿禰はヤマト随一の力自慢を相撲でブチ殺した(えっ!?)伝承から相撲の神様と言われています。
それはさておき、古墳時代の土師氏の活躍は大阪の航空写真を見ても明らか。歴代の天皇陵から重臣の墳墓、他地域でも帰葬する妃の陵墓や首長墓をバンバン築造するのである。
ナガレ山古墳(奈良県北葛城郡河合町)
ライバルの出現と悲しき薄葬令・・・そのとき土師氏は!?
大きな墳墓に埋葬されることが一大ステータスだった古墳時代、土師氏はその技術力を大いに発揮し、葬送儀礼に関する様々な業務に邁進。そのクオリティの高さから、葬送に関すること以外にも、朝廷から食事のための土器製造を依頼されたり、豪族には暗殺のための人足を派遣する(えっ!?)など各方面から結構ひっぱりだこだったわけであるが……入ってきてしまったのよ、仏教が!!
皆さんもよくご存じの仏教は、日本書紀によると欽明天皇の時代、552年に百済の聖明王の使者から仏像と経典を献上されたことをきっかけに日本列島に伝来します。さらに遣隋使の派遣も相まって、一部の皇族や豪族の間で仏教が大流行!キラキラに輝く仏像やゴージャスな寺院建築技術に魅了され、仏の教えを記した経典で心が救われる人が続出した結果、古来の神様を信仰する勢力と仏に帰依したい勢力の争いが大勃発。様々な紆余曲折を経て大化の改新・薄葬令の発布となったのであります。
そんな時代のうねりのなか、土師氏は割と柔軟に仕事をこなしていたらしく、古墳時代末から飛鳥時代にかけて築造された古墳には仏教のエッセンスが感じられる石棺を用いてみたり、薄葬令と仏教由来の火葬に対応するため、墳丘の小型化や蔵骨器を納める横口式石槨の採用、石室内に大胆な壁画を施すなど、時の権力者たちのニーズに十分に応えていた感じだ。
さらに古墳築造のための土木技術は、古代道路整備や仏閣の基礎工事にも生かされただろうし、石室や石棺を加工する技術をもつ人は石造物を加工する仕事に、葬送儀礼で舞いや楽器を担当していた芸能分野の人たちは仏教行事で楯節舞を奉納する仕事を賜ったらしい。
水泥南古墳(奈良県御所市)
しかし飛鳥時代から奈良時代になると、墳墓の築造はほぼ消滅し葬送儀礼のかたちは仏教形式へ、僧侶の方々が担うようになった結果、今まで土師職(葬送儀礼)で確固たる地位と生計を立ててきた土師氏一族は、思い切った方向性の転換を迫られる。
さぁどうする土師氏!?しかしここは心機一転、今度はスーパーゼネコンとして工人集団を率いてきたマネジメント力や情報収集力などの才覚を大いに生かし、朝廷の官僚や判事、国司として地方へ派遣されるなど文官の仕事に従事する道を得て、本来の葬送儀礼の仕事から遠ざかることとなるのである。が、しかし、ここからが大誤算!ご先祖様の偉大な名声が仇となる!?
桓武天皇も驚愕!? 実録『土師一族、土師氏やめるってよ』
時は奈良時代も終わりを迎えようとする頃。土師氏は桓武天皇の治世で文官の仕事に励んでいたが、何やら大きな悩みを抱えるようになる。
ちょっと気のせいかもしれないが、自分たちの一般的イメージが土師氏=葬送=凶事、みたいな?せっかく官服を着て文官の仕事に勤しんでいるのに、姓が土師というだけで職場で「不吉な人」と思われているっぽい(被害妄想)。なんか自分でも土師という氏名が古くさい気がする(失礼)。我が家の娘に恋文がぜんぜん届かないのは、死を連想する土師職の家と思われているからではないか(違う)など、そんな気持ちになったかならずか、とうとう桓武天皇に「土師氏をやめて菅原姓を賜りたい!」とおねだりするに至ったのである。
そんな突然のお願いにびっくりする桓武天皇。確かに吉凶の仕事を司る土師職なのに凶のイメージ強めだよねぇ、なんだか可哀想。縁のある地名の菅原ならいいんじゃない?と思ったかどうかはわかりませんが、改姓の勅で土師氏が菅原姓を名乗ることを許し、ここにまさかの『菅原氏』が大爆誕!!
しかし話はこれで終わらない。この改姓の勅を知った他の土師氏一族が我も我もと改姓を願い出て、秋篠氏や大枝氏も新たに誕生。さらに土師氏一族の改姓祭りは続き、果ては土師氏とあまり関係ない人までこの機に便乗してちゃっかり菅原姓を手に入れる始末。
特に多くの学者や文人を輩出した菅原姓は大人気で、学問の神様で有名な菅原道真公も実は土師氏の子孫にあたります。
ただでさえ平安京遷都や蝦夷征討で忙しいのに相次ぐ土師氏の改姓ムーブに辟易したのでしょうか、いよいよ朝廷は797年に『土師氏一族を土師職(葬送職)から解放する』という内容の文書を出すに至り、土師氏の名は一部の集団を除き歴史から姿を消したのである。
長岡京の円面硯(京都府向日市・向日市文化資料館)