芸術家人生のはじまり
26歳(1956年)のときに、初の個展「Niki Mathews−パリ−絵画」がスイスのザンクト・ガレンで開かれます。同年、彫刻家のジャン・ティンゲリーと出会い、制作に協力してもらうようになります。やがて友情は恋愛へと発展していき、サンファルはその後、30 歳(1960 年)でハリーと離婚します。ハリーが二人の子どもと引越し、彼女はそのまま残ることとなります。この年の末、サンファルとティンゲリーは多くの芸術家がいたロンサン地区に引越し、共有のアトリエを構えます。母として、妻として、葛藤がなかったはずはないけれど、芸術家として生きる道を選んだ、あるいは選ばざるをえなかったと言えるのかもしれません。
射撃絵画
31歳(1961年)のときに、第一回射撃イベントというアート活動が行われ、ヌーボー・レアリストたちとの交流が始まります。その後、33歳(1963年)のときに、ロサンゼルスで「キングコング」を制作。この年、ティンゲリーとソワジーにアトリエと住居を構え、「花嫁、出産、娼婦、魔女」など女性をテーマにした作品を制作し始めます。こうした流れの中で生まれたのが「射撃絵画」と呼ばれれる作品です。これは板にたくさんの絵具をつめた袋や缶をとりつけ、それをめがけて銃を撃つというものでした。サンファルはこの作品について「絵が泣いている。絵が血を流す。絵が私を殺した。」と語り、鉄砲から絵具が出るのではなく、板から絵具が流れることが重要で、板が身体の比喩になっています。サンファル自身、この射撃パフォーマンスを何度も実施しています。この撃つという行為そのものが様々な社会情勢の風刺的な役割を担っているのです。
そして、そのあとに取り組んだテーマが「女性」でした。当時女性は結婚して家に入るのが当たり前ということに、そして子供を産んでよき母になることが当たり前という風潮へのサンファルの反抗でもあったのです。この当時作った映画が「赤い魔女」で、これは男性から求められる女性像の矛盾を表現した作品となっています。
ナナの誕生と60年代
35 歳(1965 年)のときに、毛糸や布などを材料に「ナナ」という女性像の制作が始まりました。ナナ誕生のきっかけはサンファルの知人が妊娠した姿を見たことがきっかけでした。ナナという言葉はフランス語の俗語で「娘」を意味します。パリのアレクサンダー・イオラス・ギャラリーで「ナナ」のシリーズを発表します。女性像がダンスをしたりするダイナミックなポーズが印象的で、それは伝統的な女性像とは対極にあり、女性を解放した作品といえるでしょう。
その後、36歳(1966 年)のときに、ティンゲリーと共にストックホルム近代美術館に巨大なナナ「ホーン」を発表し、これは大きな反響を呼ぶこととなります。またその翌年(1967 年)にティンゲリーとモントリオール万国博のフランス館で「幻想楽園」を制作します。同年、サンファルの父親が亡くなり、この出来事が、その後に制作する映画「ダディ」のきっかけとなります。
これは父親から受けた性的虐待を告発するものでした。そして1968 年になると、お互いに新しい恋人を持つという経験を経て、41 歳(1971 年)、ティンゲリーとも正式に離婚します。このとき二人はもはや共に暮らしていなかったものの、没後も互いの作品を管理することを約束したといいます。
映画ダディ
1972年になるとサンファルは長年温めていた映画『ダディ』を制作します。サンファル自身は、「自分と父との関係がどういうものだったのかを理解するのに映画を作ることを決めました」と述べています。しかしこの作品はティンゲリーのほか、家族など周囲の人々のひんしゅくを買うことになりました。父との関係がどういうものだったか理解したいという目的 のもとに映画を作ったものの、サンファルはこの映画制作後に鬱病を発症しています。サンファル自身「私が驚いたことに、この映画は私を鎮めるどころか私の中にうつ病を引き起こさせました。」と語っており、潜在自我が縛っていたものを自由に解放するには、ずいぶんと時間がかかったことをサンファル自身が明かしています。
タロット・ガーデンとその後
1974年、サンファルは肺病の療養中に理想宮殿である「タロット・ ガーデン」の土地を提供してくれる旧友と再会します。サンファルはガウディのグエル公園やシュヴァルの理想宮のような自分の作品が並ぶ小さな王国を夢見ていたのです。以後、その構想、設計、制作が開始されます。
終生の作品となる「タロット・ガーデン」は、22枚の「大アルカナ」と呼ばれるタロット・カードに基づき制作されており、これは旧約聖書に出てくる「永遠の樹」がモチーフになっています。作品のうちのいくつかは未完のままとなりました。
トスカーナにあるこの「タロット・ガーデン」は、1998年に一般公開されています。
1983年になると、パリのポンピドゥ・センターで「ニキ・ド・サンファル 1954-1980」展が開かれ、その後展覧会はヨーロッパ各地を巡回して、芸術家としての名声を確かなものとします。
おわりに
サンファルは50代からリウマチを発症し、生涯にわたって苦しむこととなりました。晩年はアメリカのサンディエゴに移住し、生涯最後の時までそこで過ごすこととなります。サンファルは最後の最後まで制作を続け、2002年に肺炎のため、その生涯を閉じることとなります。
現在でもサンファルの彫刻作品はパリのポンピドゥ・センター広場をはじめ、いくつかの公共施設でその作品を見ることができます。サンファルは生前から、たとえ難しいコンセプトの作品であっても、誰もがその作品を見て明るくなれるアート作品を目指していました。そういった意味で、常にひらかれたアート作品を作ったサンファルは、今後もさらに評価を高めていくことでしょう。
文/スズキリンタロウ