ニキ・ド・サンファル~ひらかれたアートを創った仏女性芸術家の生涯~
今回のアイデアノミカタはフランスを代表する女性芸術家ニキ・ド・サンファル(1930-2002)です。代表作である射撃絵画や「ナナ」という巨大な女性彫刻で世界中で親しまれています。作品を通じて女性の矛盾を表現しており、鋭い社会批評をしています。パリにあるポンピドゥー・センターの広場には恒久作品として彫刻作品が展示されており、難しいコンセプトが根底にあるものの、作品を見ると心が明るくなるような開かれたアート作品を作ったのも特徴です。
生い立ち
1930年、パリ郊外でフランス人夫妻の第2子(5人兄弟)として、ニキ・ド・サンファル(以下サンファル)は生まれました。父親は銀行を経営していましたが世界恐慌の煽りをうけて破産。サンファル家はアメリカへと移住します。サンファルは自身のことを「1930年世界恐慌ベビー」とユーモア交じりに呼んでいます。その後ニューヨークに引っ越し、聖心修道院女学校に通います。家庭では典型的な家父長制度のもと、厳格なカトリック教育を受け、厳しく躾けられて育ちます。サンファルは幼少期からそのことに反抗しており、一時は遠くの修道院学校へ放校になるほどで、その後、美術学校へと転向しました。学校では詩と演劇を主に学んでいましたが、ここでもギリシャ彫刻にイタズラをするなどして再び転校となります。サンファルはどうしても厳格なキリスト教の教育や学校教育に収まらなかったのです。
表現者として波乱の人生が幕を開ける
高校卒業後、サンファルはルックスを生かしてモデルの仕事を始めます。その活躍は名だたるファッション誌の『ヴォーグ』、『ハーパース・バザー』、『ライフ』、の表紙を飾るほどでした。しかし、翌1949年には1歳年上の幼馴染ハリー・マシューズと突如駆け落ちします。
いかにもおてんばで並外れた行動力のあるサンファルらしい決断ではないでしょうか。ニューヨークで結婚し、21歳(1951年)のときにボストンで娘ローラが生まれています。このころハリーは音楽を勉強し、サンファルは油絵の制作をしていました。翌年パリに移り、ハリーは指揮者を目指してエコール・ノルマルで勉強し、サンファルは演劇学校に入学します。夫婦揃って芸術家だったのです。この時期に家族で南フランス、スペイン、イタリア、などを旅行し、さまざまな美術館や大聖堂などを見たことは、サンファルに多大なインスピレーションを与え、のちの作品に影響したと言われています。
しかめっ面の原因と絵画に出会う
サンファルは子供の頃、夕食のテーブルでしかめっ面をするというコントロールできない癖がありました。チックのような症状だとは思いますが、サンファルは後年これを父親への無意識の復讐と位置付けていました。またサンファルには上唇を噛む癖があり、20 歳の頃それで外科手術を受けています。「20年後、私の唇はあまりにもひどい扱いをしたので、2番目の唇ができていました。私は自分の顔の上に自分の恥をぶらさげていたのです。(中略)攻撃するならからだの他の部分を選んだほうがましです」と、皮肉とユーモアたっぷりにサンファルは述べています。こうした様々な活動の反動なのか、23 歳(1953 年)のときに深刻な神経衰弱に陥り、ニースで入院し、10 回もの電気ショック療法とインシュリン療法を受けています。サンファルは身体も心もボロボロになるなかで絵を描くことにしました。どん底の状態で絵を描くことで、絵画が自身の治療に有効であることがわかったのです。そしてサンファルは演劇を諦め、芸術家を志すことになるのです。
同じ頃、ハリーも音楽を諦め小説を書き始めています。その後サンファルは、アメリカ人の画家ヒュー・ワイスと出会い、5年間絵画の指導を受けます。彼は自由なスタイルでサンファルらしさを出せるように制作することを勧めたといいいます。そして、サンファル24歳のときに息子フィリップが生まれます。サンファルとハリーはこの時期にルーヴル美術館で、クレー、 マティス、ピカソ、ルソーなどの作品に触れています。また、ガウディの「グエル公園」、シュヴァルの「理想宮」に出会い、将来自分の理想宮殿を作ろうと決意します。またこの年にキネティック・アートにも興味を持つようになります。
<グエル公園>・・・ガウディが制作した公園で、スペインのバルセロナにあり、公園から町を一望できる。自然との調和をめざした芸術作品。
<シュヴァルの理想宮>・・・郵便配達員であるシュヴァルによって制作されたアウトサイダー・アート作品。完成まで33年かけており、現在はフランス政府によって国の重要建造物に指定されている。