社会人になってからの日々
社会人の日々は、怒涛の忙しさだった。勤務先は幸い自宅から通える距離ではあったものの、毎日早朝に起きて出勤し、深夜まで仕事に追われてタクシーで帰宅するのが日常であった。
ぼくは仕事のプレッシャーと責任感に押しつぶされそうになりながらも、がむしゃらに働いた。この当時、仕事に没頭することで遠距離恋愛の孤独を紛らわせようとしていたように思う。おかげで仕事以外、考える暇もほとんどなかった。しかし、心の奥底では彼女との距離が埋められないもどかしさが常にあった。寂しさと孤独感が時折顔を出しては、ぼくを悩ませたからだ。ふいに目に飛び込むオフィスの窓から見える景色は、都会の喧騒と雑踏だった。
そんなある日、大学の先輩である田中さんに久しぶりにご飯に誘われ、最近話題の新ゲーム「空中クラゲ」について興奮気味にこう話してくれた。
「ほら昔さ、お前に紹介したいっていう企業があっただろ?実はオレ、その会社に転職したんだよ。そこで開発や企画に携わった空中クラゲっていうゲームが発売されたんだけど、これ本当に面白いんだよ。絶対に試してみろ!むしろ今やれ!」
田中さんの勢いに強引に引っ張られる形で、ぼくはその場で自分の眼鏡型デバイスを装着して、空中クラゲをダウンロードして早速プレイを開始した。
どうやら空中クラゲとは、高度なAIを搭載した仮想ペットゲームであり、ユーザーの感情に応じて色や形が変化する特性を持っていた。デバイスを装着すると、現実世界に仮想のクラゲが融合する形で漂い始めた。
田中さん曰く、このゲームはユーザーのストレスを軽減し心の癒しとなるように設計されており、クラゲのインタラクティブな動きがじわじわと人気らしい。
ぼくは直感的に面白いと感じ、その後も空中クラゲにどっぷりとハマっていった。
空中クラゲの動きは本物のクラゲ以上に滑らかで、とにかく心地よい。その特性はプランクトンに似ており、基本設定では自分の意思で移動することはできず、風や周囲の環境によって動かされる。例えばユーザーが息を吹きかけると動くので、ある程度、方向性を決めることも可能だ。
その他にも、空中クラゲは動きに自律性を持たせる要素を追加できる。つまりユーザーの感情や環境の変化を感知すると、そのデータを基に最適な行動を自主的に判断して行動することもプログラムできる。これにより空中クラゲはユーザーの感情を読み取って自律的に動くのだ。
空中クラゲはユーザー同士の関係を深めるために、互いの環境に溶け込む動きを見せることがある。こうしたEQの高いAI機能を持つ空中クラゲは、これまでのゲームAIと一線を画す愛着を感じさせた。
このインタラクションはぼくにとって新しい楽しみとなり、早速彼女と共有した。帰宅後に空中クラゲを通じて一緒に過ごす僅かな時間。これが遠距離の寂しさを和らげ、ぼくの日常に少しずつ彩りを取り戻してくれるようになる。
最新の眼鏡型デバイスは大学時代とは比較できないほどの劇的な進化を続けており、彼女とぼくは離れた場所にいながら、隣の部屋同士のように錯覚するほどシームレスな空間として融合することができた。つまり、ぼくたちは仮想空間でお互いの部屋の状況をリアルタイムで共有することができるのだ。
ある日、お互いの眼鏡型デバイスを通じて部屋をリンクしながらゲームをしていると、突然、プレイ中のぼくたちの空中クラゲが互いの部屋に行き、ゆったりと漂い始めた。
「うわっ、すごい!」とぼくは思わず声を上げた。
これは空中クラゲと眼鏡型デバイスを使い、ユーザー間で情報共有した場合に実現される新機能らしく、知識としては知ってはいたものの体験するのは初めてのことで本当に驚いた。
彼女も笑顔で空中クラゲを眺めて「本当に一緒にいるみたい!」と喜んだ。
ぼくたちは空中クラゲの動きを追いかけながら、近況について話し合い、不思議と会話が弾んでいった。
順調に二人の関係が深まるにつれて、ぼくは再び彼女と一緒に暮らすことを考えるようになった。とはいえ現実的な問題も多かった。仕事の都合や物理的な距離が、ぼくたちの関係をもう一歩進ませないようにしていたからだ。それでも空中クラゲによって前向きな気持ちを持ち続けることができた。
ところが予想もしなかった事件が発生する。
ある夜、ぼくと彼女が住む地域を含めた大規模停電が発生した。異例のブラックアウトに都市部や郊外全域が暗闇に覆われたのだ。電気、ガス、水道などの生活インフラがダウンするなかで、懐中電灯のない部屋の中の唯一の光源は、スマートフォンと眼鏡型デバイスを通して見える空中クラゲの淡い光だけだった。
この状況をどう乗り越えるべきか考えていると、空中クラゲは自発的にその特性を発揮し始めた。停電を検知すると、眼鏡型デバイスを通じて衛星インターネットにアクセスし、地上の通信が断たれても途切れることなく繋がってくれたからだ。
ふいに「大丈夫?」と彼女の声が眼鏡型デバイス越しに聞こえた。
「うん、なんとか。街全体が真っ暗で不気味だけど、一緒に話してると少し安心するよ」
「私も同じ。空中クラゲが光ってくれて、本当に助かるね」
実際、空中クラゲは暗闇の中で希望のように輝き、部屋全体を柔らかな光で包んでくれた。もちろんお互いの部屋は仮想空間上で繋がっている。
「ねえ、この光景、なんだかロマンチックじゃない?」と彼女がふと口にした。
「確かに!視点を変えれば、普段は感じられない特別な瞬間だよね」
「見て、空中クラゲ同士が仲良くしてるみたい。私たちも一緒にいる気分になるね」と彼女が微笑んだ。「ぼくたちはつながっているから、大丈夫だよ」
停電が続く間、空中クラゲは電気の復旧作業の進捗をリアルタイムで解析し、ぼくたちに情報提供を続けてくれた。そのおかげで不安はずいぶんと軽減された。
今回の大停電の影響で多くの家庭やオフィスが電力を失った。しかし、その間も空中クラゲは眼鏡型デバイスの仮想空間内で輝き続け、多くの人々に希望を与え続けていたのだ。
しかし話はここで留まらない。
都市の夜景が暗闇に包まれる中、空中クラゲは自発的に増殖して一斉に仮想空間を漂い始め、眼鏡型デバイスを通じて街全体を照らしていったのだ。
窓から外を眺めると、無数の空中クラゲが浮遊していた。これは自然界では決して見られない幻想的な光景である。
住宅地では家族がリビングに集まり、空中クラゲの光に照らされて団欒の時間を過ごしていた。子どもたちはその不思議な景色に目を輝かせ、手を伸ばして触ろうとする。
大人はその姿に家族と一緒にいることの幸せをかみしめていた。
田舎の集落でも空中クラゲは希望の灯火となっていた。ホタルの点滅とは異なり、近未来のようでありながら、どこか懐かしさを含んでいたからだ。村の人々はその風景に驚きつつも、穏やかな笑顔で眺めながら、家族や隣人と過ごす時間を楽しんでいた。
こうして空中クラゲの光はどこまでも広がり、電力が復旧するまでの間、仮想空間の中で明るい未来を描き続けてくれた。
数日後、電力会社の復旧作業が進み、徐々に電気が戻り始めた。最初は病院や重要な施設から順次復旧し、その後、一般家庭にも電力が供給されるようになった。ぼくや彼女の住む都市にも電気が戻り、家電製品が再び稼働し始めた。
「電気が戻ったよ!」と眼鏡型デバイスを通じて彼女の声が聞こえた。
「よかったね。これで安心できるね」
「うん。でも、この数日間、空中クラゲのおかげで本当に助かった。あなたと繋がっていられたから、怖くなかったよ」
「ぼくも同じ気持ちだよ。あと空中クラゲがいてくれて、本当に心強かった」
街の夜景も徐々に明るさを取り戻していった。
SNSには空中クラゲに対する感謝の言葉が溢れ、どれだけ多くの人々を支えたのか、その様子が伝わる投稿が次々とアップされていった。
空中クラゲのおかげで不安を乗り越えた今回の出来事は、彼女と共に歩みたいと決意するには充分だった。大停電がきっかけで、ぼくは彼女との将来を明確に想像するようになったのだ。
やがて空中クラゲのユーザーは爆発的に増えていく。もはやブームを超えて空中クラゲを育てることが日常の一部となるほどのカルチャーとして浸透していった。
このゲームが社会に与える影響もさらに大きくなり、メディアでも頻繁に話題になることが珍しくなくなった。
大停電から半年後、ぼくと彼女は結婚した。生活は遠距離のまま変わらない週末婚ではあるものの、ぼくたちは空中クラゲのある日常を楽しんでいる。
婚姻届の証人はもちろん田中さんにお願いした。
また結婚を機にぼくは再びミズクラゲを育て始めた。
仕事は今も変わらず忙しいものの、少しづつ育てる余裕が生まれてきたことを実感している。
ある日、週末に彼女がぼくの家にやってきてこう言った。
「ミズクラゲも私たちのように穏やかな時間を過ごしているのかもね」
その時、空中クラゲがふわふわと現れた。
ミズクラゲが仄かな光を放ちながら水槽の中を漂い、空中クラゲがその上に浮かぶ不思議な空間に魅了され、しばらく無言で眺めていた。
ふいに彼女がぼくに顔を向けてこんなことを言った。
「ねえ、私たちが出会った時も、こんな感じだったよね」
ぼくは微笑みながら頷いた。全てはクラゲがゆらゆらと漂う水槽の前で始まったのだ。
ぼくたちはクラゲを通じてつながり、空中クラゲによってその絆はさらに深まった。
仮想と現実が溶け合う世界で、ふたりの心は確かにひとつになっている。
この静かな夜、複数の未来が浮かぶこの場所で、穏やかな時間が永遠に続くように感じられた。
文/鈴森太郎 (作家)