毎月連載のパラレルミライ20XXは「SFプロトタイピング小説」です。
SFプロトタイピングとは、SFの想像力を活かして未来の技術や社会を描くことで、現実世界のイノベーションや問題解決に役立てるための洞察を得る手法です。今回は眼鏡型デバイスxゲームAIのある未来社会の物語を書いて
「空中クラゲ」
クラゲサークルの一室にある大きな水槽の向こうには、柔らかな光を放つクラゲが浮かんでいる。その体は単純な神経網だけで構成されており、人間のような思考の波に揺られることなく、ただ反射で動いている。
ぼくは水中をホップするクラゲが脈打つたびに、自分の人生も流れに身を任せているだけではないか、そんな考えが脳裏をよぎった。
人間も広大な宇宙の中で漂っているだけのちっぽけな存在なのかもしれない。
大学に入学して間もないある日、偶然立ち寄ったクラゲサークルの水槽の前で、ぼくがクラゲに見入っていると、隣に一人の女性が立ち止まってこんなことを言った。
「プランクトンの定義って知ってる?自分の意思で泳げないってことなの。クラゲは進む方向を決めれないんだってさ」
後に2歳上の先輩であることが分かった彼女の言葉は、ぼくに小さな波紋を広げた。意思を持たない存在、方向を決められない生命体。それは人間と対極にあるようで、実は同じなのだろうか。
クラゲの不思議な魅力に興味を持ったぼくは、迷うことなくその場でサークルへ加入した。こうして大学生活はクラゲ漬けの毎日へ突入していくことになる。
ぼくの通う都心の大学は、ここ数年ですっかり社会に定着した眼鏡型デバイスを日常的に使う。このデバイスは現実の風景に仮想の情報を重ね合わせて使用するので、学生たちはそれを使って授業の資料を見たり、友人と連絡のやりとりをしている。
毎週金曜日の午後にクラゲサークルのメンバーが集まり、眼鏡型デバイスを利用して、より鮮明にクラゲを細部まで観察する。水槽で飼育できるクラゲの数は限られているらしく、ミズクラゲ、カラージェリーフィッシュ、タコクラゲをそれぞれ水槽を分けて育てていた。
クラゲの種類によって水温も異なるので、何か異常があった場合はアラートが眼鏡型デバイスに通知される。
こうして効率的にクラゲに関する知識を共有していくのがとても面白い。ぼくはサークルの活動日以外も足繁く通い、ほぼ毎日、クラゲを観察する時間に費やした。
特に尊敬しているのがクラゲサークルリーダーで4年生の田中さんだ。他の先輩曰く、クラゲへの情熱が歴代の先輩と比べても際立って高いらしい。実際、クラゲの生態や種類、飼育方法や観察のコツなどを熱心に田中さんは教えてくれた。その他にも適切な水流の作り方やクラゲをポンプで吸い込んで傷つけない工夫、最も美しくクラゲが輝く照明の設定、聴覚機能に関する未解明の謎など、あらゆる情報を実践で学ぶことができた。
サーファーの田中さんは昔からクラゲが好きで、高校野球のスポーツ推薦で進学したものの、入学直後からクラゲサークルに加入した変わり者としても知られている。
そんな田中さんの熱心な指導のもとで、ぼくはクラゲという神秘的な存在にますます惹かれていった。なによりクラゲのゆらめく姿を見つめていると、まるでふんわりと浮かんでいるような不思議な気持ちに包まれた。
クラゲとの出会いによって充実した大学生活を過ごす中で、あっという間に夏が近づくと、サークル内で毎年恒例のクラゲの展示会を開催する話が持ち上がった。
今年は田中さんが企画を提案し、その熱気が全員に伝わっていく。
展示会ではクラゲの魅力を広く知ってもらうために、様々な種類のクラゲを紹介し、その生態や特性についての説明を行う予定である。ぼくは2歳上の先輩とクラゲのPR担当となり、一緒に作業する機会が増えていった。
ある日、展示会のヴィジュアルや映像、SNS用の画像生成の準備を進めるために遅くまで作業をしていると、先輩がぼくに声をかけてきた。
「今日はありがとう。手伝ってくれて助かったよ。ちょっと休憩しない?」
ぼくたちはサークルの部室でお茶を飲みながら、クラゲの話題から少しずつお互いの話をした。先輩が大学に入ってからの体験やクラゲサークルでの思い出を語る姿を見て、ぼくはずっと惹かれていることをはっきりと自覚した。
展示会当日、大学の一角に設けられた特設会場には、朝から多くの来場者が詰めかけていた。入口には「クラゲの神秘展」と書いた大きな看板を置いた。淡いブルーの照明に照らされた空間は、深海にいるような幻想的な雰囲気に近づいたと思う。
会場中央には大小さまざまな水槽が並び、その中でゆらめくクラゲたちが淡い光を反射させながら泳ぐ姿は、訪れる人々の目を釘付けにしていた。水槽の周りには、クラゲの生態や種類、飼育方法などについてのパネルが立てられており、それぞれの説明を読みながら見入る沢山の人の姿があった。
展示会では来場者が自身の眼鏡型デバイスを利用することで、より深くクラゲの魅力を体感することも出来る。特に水槽ではなく、水族館などの大きな場所でしか育てることができないクラゲについては、仮想情報が大きな役割を担う。多種多様なクラゲの情報が目の前に浮かび上がるように、細部まで設計したことで、豊富な情報コンテンツに触れた多くの人が驚いてくれた。
メインイベントはクラゲの飼育や研究についての発表である。司会の田中さんの豊富な知識と話術にぐいぐいと引き込まれ、結果的に講演は大きな拍手に包まれた。ぼくはその瞬間に自分たちの努力が報われたことを実感し、心の中で大きな達成感を感じていた。
展示会が終わりに近づくと、ぼくと先輩は会場の片隅で佇みながら、静かに会場を見渡していた。クラゲのゆらめく姿と訪れた人の笑顔が重なる。なにより先輩の隣にいると、ぼくの心は静かに満たされていった。
こうして無事に展示会が無事に終了し、サークルのメンバー全員が打ち上げをした日の夜、ぼくは勇気を出して先輩に告白した。
先輩は少し驚いた表情を見せたが、優しく微笑んで「ありがとう、私も君のことが特別だと思っている」と言ってくれ、ぼくたちは付き合うことになった。
実は、告白前に「お前なら絶対に大丈夫。行ってこい!」と背中を押してくれたのは田中さんだ
った。
とはいえ、田中さんにあとからなんで脈ありと思ったのか教えてもらうと「いや、根拠なんかないよ、勘だな」と笑った。
いずれにしても、田中さんのおかげで今がある。
その後、大学2年生になった春、4年生になった彼女と同棲をはじめた。決め手は就活中で家を留守にすることが多く、住居費がもったいないという理由と、ぼくの部屋のリビングにあるクラゲ用の水槽が気に入ったからだ。つまり、お互いに一緒にいたかったのだ。
ちなみに、田中さんは卒業後もOBとしてクラゲサークルに度々顔を出していて、本当にここまでクラゲが好きな人はなかなか存在しないと思う。
自宅でも飼育するミズクラゲの世話は毎日の習慣であり、その時間が二人にとっての小さな幸せだった。何気ない日常の尊さを実感したのもこの頃だ。夜が深まるとぼくたちはソファに座り、静かにミズクラゲを眺める。彼女が集めた観葉植物がリビングを彩り、その中で揺れるミズクラゲと水槽からのゆらぐ光が植物の葉に映り込む様子を楽しんだ。
ぼくは彼女との生活がこれ以上ないほど満ち足りたものに感じられた。
本当に大切なことは淡々とした日常に宿る。こんな毎日がずっと続いて欲しいと願った。
しかし、理想はいつまでも続かない。
彼女が志望していた企業に就職が決まり、配属先がやや遠方に決まった。
就職後のぼくたちの家の距離は快速電車で2時間程度離れてしまう。
それは同棲生活も彼女が卒業するまでの期間限定であり、その後は遠距離になることを意味していた。
その後、月日は流れて、彼女が卒業する日に、サークルメンバーと最後の打ち上げを行った。クラゲサークルの部室にみんなが集まり、会話の流れの中でぼくが「クラゲサークルの未来に乾杯!」と声を上げた。ぼくたちは笑顔で杯を合わせたが、心の中では別れの寂しさが広がっていたと思う。それだけみんなの絆が深かったのだ。
それ以降のぼくの大学生活は、少し色褪せたように感じた。とはいえ、クラゲサークルの活動も新入生が加入するなど充実しており、後輩たちに自分の知識や経験を伝えることで、少しでもクラゲへの情熱を共有しようと努めた。
あるとき、OBの田中さんが声をかけてくれ、一緒に飲みに連れて行ってくれた。そのとき田中さんが「そうだ、お前に伝えたかったことがあるんだ。会社の取引先の企業がクラゲの生態を利用した新しい研究を進めていて、クラゲに詳しい人材を探してるって言ってきたんだ。興味があったら話を聞いてみないか?」と提案してくれた。もしかしたら願ってもない機会なのかもしれないけれど、ぼくはやんわりと断ってしまった。クラゲサークルは続けていたものの、それは趣味の範囲であり、社会人になってからは別の活動をしたいと思っていたからだ。むしろ田中さんこそ挑戦してほしいと言ったところ、にやっと笑ったまま特に返事はなかった。
その後、月日は流れ、ぼくの大学生活も終わりの日が訪れた。
ちなみに彼女との関係は週末にどちらかの家に通う形で続いていたが、自宅で育てていたミズクラゲは卒業前にクラゲサークルに譲った。就職先の仕事が激務になることが予想されたため、クラゲにとってベストな環境を考えた末の決断だった。
最後にキャンパスの端に位置する部室を見つめた。窓越しに見える水槽の中でクラゲたちがゆらゆらと静かにそこに存在していた。