楽しかった思い出は自分の人生の中の輝かしい〝宝物〟であるが、冷静に振り返って検証してみれば、その記憶の一部はひょっとして〝オリジナル〟ではないかもしれない!?
〝宝物〟は傷つかないようにそっとしておきたいのは人情だが、もしその記憶がありがちなイメージで埋め合わせたものであった場合、実は我々は案外そのことに目ざとく気づけるのだという興味深い最新研究が届けられている。
脳は本物の記憶と〝偽の記憶〟を判別できている
コロナ禍明けからのインバウンド再開後の訪日客数は予想をはるかに上回り、ご存知のようにコロナ禍前を越える数値で推移している。平日の都内でも訪日客の姿はとにかく多く、コロナ禍中の閑散とした街の光景が幻であったかのようだ。
ニュースでは訪日客でにぎわう定番の観光地の様子などがよく報じられているが、その中にはかつて自分が行ったことがある場所もあり、懐かしさを覚えるケースもある。
個人的にそうした場所の1つが奈良の古寺名刹で、中学生時代の修学旅行で訪れたことを思い出したりもするのだが、どういうわけなのか旅行の間の記憶はあまり鮮明にはよみがえってはこない。なにぶんにも数十年前の体験なので記憶が色褪せていても仕方がないことではある。
たとえば東大寺で大仏を絶対に見ているはずなのだが、その時のことを思い出そうとしても何らビジュアルイメージが湧いてこないのだ。
もちろん〝奈良の大仏〟についてうわべだけの知識はあるので、何かの写真や歴史番組や旅番組などで見た大仏の姿が漠然と思い浮かんではくる。したがって残念ながら自分の修学旅行の思い出はそうした一般的な知識によってかなり〝補完〟が必要な貧しい記憶になってしまっていると言わざるを得ない。
そう思えばなんだか惨めな気もしてくるので、自分で〝脚色〟を加えて楽しい思い出に仕立て上げてしまったとしても害はないともいえるのだが、そうは問屋が卸さないというべきか、我々の脳は本当に記憶していることと、ほとんど忘れていて一般的な知識で欠落を〝補完〟している記憶とを、はっきり区別していることが最新の研究で報告されていて興味深い。
独マックス・プランク研究所と英バーミンガム大学の合同研究チームが今年7月に「Communications Psychology」で発表した研究では、我々の脳は出来事を正確に思い出している時と、一般的知識で欠落を埋めている時をはっきりと区別して認識していることが報告されている。
200人が参加した実験で参加者はさまざまな物体の画像を見せられ、できるかぎり記憶しておくことを求められた。参加者に見せられた画像はたとえば「青いトラック」、「緑色のドングリ」、「黄色の飛行機」、「オレンジ色のリンゴ」などで、この一連の課題を終えた後に、その物体の色合いをどれだけ正確に思い出せるかがテストされた。
参加者は物体の色を思い出してカラーバーで色を指定したのだが、その回答の際に、自分の回答にどの程度自信があるのか「確実」、「不確か」、「推測」から選択するように求められた。
回収した回答データを分析したところ、回答に自信がない(不確か、推測)場合に有意に選ばれやすい画像と色の組み合わせである〝プロトタイプ〟が浮き彫りになったのである。
これはプロトタイプが記憶の欠落を埋めている可能性を示唆するものであり、脳は正確な記憶と補完した記憶の2種類の記憶を区別し、記憶の信頼性を正確に評価できることを意味している。
現場で見たはずの奈良の大仏が思い出せない以上、うわべだけで知っている大仏の姿は〝偽の記憶〟であり、完全に置き換えることはできそうもないようだ。
ひょっとすると卒業アルバムを引っ張り出してみれば修学旅行を思い出す手がかりが得られるかもしれないが、そもそも自分にとっての〝宝物〟となる思い出ではないことは明らかであり、この先も思い出すことはないのかもしれない。