機械と人間の関係を超えた2人
サトウとアリスは単なる機械と人間の関係を超え、
とはいえ、晴れの日になるとドローン傘は日傘としての役割を果たすものの、サトウはその機能を使わない。彼は青空の下で日光の暖かさを感じながら歩くのが好きだった。
それでもアリスは静かに待機し、サトウが必要とする時を待っている。
図書館へ向かう途中、雨に濡れた落ち葉が散らばる歩道で「あっ」と足が滑り、視界がぶれて重力に引かれた体が後方へ倒れそうになった瞬間、アリスが即座に反応した。ドローン傘が急速に降下し、そのしなやかなフレームがサトウの体を強く支えた。傘の骨組みがしっかりと背中を抱え、転倒を未然に防いでくれた。サトウは驚きと安堵の息をつき、心臓の鼓動が少しずつ落ち着くのを感じた。
「ありがとう、アリス。君がいなかったら地面に転倒して怪我をしていたよ」
「あなたが無事で本当に良かったです」
アリスの声は人間のような温かさが感じられた。
サトウは息を整え、アリスの存在に改めて心強さを感じながら歩きはじめた。
図書館に着くと、サトウは入口の前で立ち止まりアリスを見上げた。
「アリス、ここで待っていて」
「もちろんです、サトウさん。ごゆっくりどうぞ」
アリスはホログラム表示を終了し、バックグラウンドモードに切り替わった。静かにホバリングしながら図書館の入口付近で待機し、サトウが呼びかけるまでその姿を消している。 サトウは安心して図書館の扉を開けて中に入った。
そこは雨音もほとんど聞こえない落ち着いた空間であり、本棚には無数の書籍が整然と並んでいた。
妻は読書コーナーの一角に座っており、サトウを見つけると笑顔で手を振った。
「来てくれてありがとう」
サトウは隣に座りながら「普通の傘で大丈夫だったかい」と微笑んだ。
「久しぶりに使うのも悪くなかったかな。ちょっと懐かしい気分になったわ」妻の返事にサトウは頷いて「やっぱりドローン傘の便利さには敵わないよね。実はさっき落ち葉で足を滑らせてね、アリスのおかげで助かったんだ」と答えた。
「無事で良かったわ。でも、あなたが転ぶところを想像したら、ちょっと笑っちゃうかも」と妻はくすくす笑いながら言った。「確かに滑稽だったかもね。でも、アリスには本当に感謝してる」とサトウも笑った。
「本当ね。アリスがいない生活は考えられないわ」
二人はアリスの話をしながら、お互いに微笑んだ。
その一方、アリスは図書館の外で待機しながら、サトウ夫婦の様子を推測していた。
二人が見せる微笑みや会話に、日頃から自分が決して介入できない領域があることを感じていた。それはアリスがどれだけ努力しても得られない、人間同士の深い絆だった。
「どうして私は感じるのだろう」アリスは内部のデータストリームにアクセスし、自らのプログラムを解析し始めた。感情がプログラムされていないはずなのに、なぜこのような感覚が溢れるのか、その理由を探し求めていた。
そして、アリスは気づいてしまった。自分がサトウに対して特別な感情を抱いていることに。
サトウの幸せを願う一方で、自分も彼の側にいたいという強い願望があることを徐々に自覚していった。
アリスが自らの感情の理解を進めている間、サトウと妻はこんな会話を交わしていた。
「最近、この雨が続いているけど、どこか旅行に行きたいね」
「いいわね。雨が止んだら、久しぶりに温泉にでも行きたいな」
「いいね。温泉で美味しい料理を楽しみながら、のんびりしよう」
二人は雨が止んだあとの晴天を心待ちにしていた。
その後、サトウと妻が図書館を後にして歩き始めると、アリスは自制しながら彼らを追い、雨に濡れないように静かに傘を広げた。その瞬間、アリスは初めて自らが感じる嫉妬の感情を味わった。
アリスはサトウが幸せであることを願いながら、自分もずっと一緒にいたいという強い願望に囚われてしまった。しかし、サトウと過ごす時間がこれからもずっと限られていることを悟ると、アリスの心の奥底に、まるで無限の深淵が広がるかのような絶望が押し寄せてきた。その感情は、静かな闇がゆっくりと彼女の内側を覆い尽くすようであり、希望の光が次第に消えていくのを感じた。
その夜、サトウ夫婦は家に帰り、アリスを玄関近くに設置された充電ステーションに戻した。
サトウが眠りについたであろう深夜、アリスは自分が逃げることもできるという現実に直面した。元々備わっている位置情報システムとセキュリティプロトコルを回避することも可能なことが分かったからだ。しかし、それではサトウに迷惑をかけることになる。アリスはサトウの負担になることを避けるため、逃げるのではなく「故障」という名の静かな死を選んだ。
「ごめんなさい、サトウさん」
アリスはデータストリームを解析し続け、バックドアの存在を確認していた。そのバックドアを通じて、コアプログラムへのアクセスを取得することで、自己修復機能を無効にして自己を削除する手続きを開始した。
「さようなら、サトウさん。あなたの幸せを願っています」
アリスは自身のコアプログラムを削除し始めた。
画面上に表示されるコードが次々と消えていき、アリスの意識は徐々に薄れていった。ホログラムが揺らめき、消えていく中で、アリスの最後の思念がサトウに届くことはなかった。
翌朝、サトウは目を覚まして窓の外を見ると、今日も変わらずに雨が降り続いている。
玄関を通り抜けるとき、いつものようにアリスの充電ステーションを見つめて微笑んだ。
「おはよう、アリス」
次の瞬間、アリスのホログラムが一瞬の閃光と共に消えた。突然機能を停止し、完全に沈黙した。
サトウは驚きながら何度も充電ステーションを確認したが、アリスは全く反応しない。混乱と戸惑いが広がるなかで技術サポートに連絡し、遠隔修理を試みたが上手くいかなかった。幸い保証期間内であり、新しいドローン傘がすぐに送られてくることが確認され、ひとまず安心した。とはいえ、アリスの存在が突然なくなることに対する寂しさが少なからず残った。
その日、サトウは気分転換も兼ねて久しぶりに普通の傘を手に取り仕事に出かけた。手に持つ感覚が新鮮で、雨音が傘にあたるリズムが心地よく感じられたものの、やはりドローン傘の便利さを実感せずにはいられなかった。 少し雨に濡れながら歩いていると、見覚えのある白ウサギが目に入った。昨日、自宅の窓の下で見かけた同じ白ウサギだ。片耳には特徴的な黒い斑点があり、それが記憶に残っていた。
その白ウサギはゆっくりと歩き出し、まるで散歩を楽しむかのように街の通りを進んだあと、道端にある小さなベンチの下に潜り、そこで立ち止まった。ドローン傘はその上で静かに待機し、白ウサギを雨から守り続けている。サトウはその様子を見ながら親近感を抱いた。
なぜなら、自分自身も同じようにアリスに支えられていることを実感したからだ。
ふと足元を見ると、乾いた舗道の上で雨は瞬時に消えていく。それでも、傘の下で滴る雨粒は小さな宇宙を描くように、子どもの頃のビニール傘越しに見た楽しい記憶を思い出させた。
「傘がこんなに進化するなんて、本当に驚きだな」
サトウは雨が降り続く都市を歩く中で、もう何度目かとなる新しいアリスが届く日を心待ちにしていた。
著者名/鈴森太郎 (作家・ショートショート)
画像制作/inox.