昨夜の夢の体験は…
実は昨夜の夢の体験は、このイヤホンが提供する「夢制御プログラム」の一環だった。
夢見が悪くなりがちなカネコにとって、このプログラムは穏やかな睡眠を保証し、日中の心の平穏をもたらす存在である。
食事中、イヤホンから流れる音楽が少し変化し、彼の味覚を刺激する周波数に調整された。この音波は食事の味を一層鮮明にし、食べることの喜びを増幅させる設計になっていた。味わうごとに、特定の音楽が記憶の中の夢の風景と結びついているのだ。
カネコが最後の一口を飲み込んだ瞬間、店内のざわめきが突如として意識から遠ざかった。スプーンをテーブルに静かに置き、目を閉じて深く息を吸い込む。
イヤホンから流れる「Moon River」のメロディが徐々に変化し、心拍数に合わせて落ち着いたテンポに調整されていくのを感じながら、少しずつ昨夜の夢の世界へと誘われていた。
心と身体がリラックスするにつれて、現実の境界線がぼやけ始め、再び蝶になる空想に包まれた。意識はゆっくりと中華料理店から離れ、広大な都市の景色に置き換わる。
カネコは蝶として高く、遠くへと飛んで行く。周りには他の蝶たちも共に都市の上を舞い、人々の群れや高層ビルの間の緑のパッチを眺めている。
「お水入りますか?」とカウンターの向こうで微笑む料理人の声が聞こえた。その声によってはっと我に返り、カネコは軽く頷きながら微笑み返した。そして、蝶の自由な飛翔とは対照的に、身体はこの小さな中華料理店の一角に留まっていることを感じた。
食後、カネコはふと思い立ち、スマートフォンを取り出してヘルスケアのアプリを開く。画面には今日一日の感情の流れがインタラクティブなグラフとして表示されており、特に食事の時間帯に感じた喜びが顕著に跳ね上がっているのが見て取れる。
カネコはグラフを眺めながら「こんなことも記録されているのか」とちょっぴり驚きつつも、どこか慣れた様子で「このイヤホン、案外、僕の気持ちをよく分かっているな。
今日の麻婆豆腐は本当に美味しかったから、また来ようかな」とスマートフォンをポケットにしまい、店を後にしようとする。
店内は入った時と変わらず静かで落ち着いた雰囲気を保っていたが、外に出る準備をするカネコの心は、ほんの少し高揚していた。
古びたガラスのドアを開けると、夜の冷たい空気が店内に流れ込む。
通りは人々で賑わっており、彼らの笑い声や会話の断片が夜空に響いている。カネコは深く息を吸い込み、その新鮮な空気が彼の意識を一新させるのを感じた。
道すがら、イヤホンが自動調整してくれ、再びフランク・シナトラの「Moon River」が歩みに合わせて心地よく流れる。その声は昨夜の夢の記憶を鮮明に保ちながら、この世界の新しい美しさを見出す手助けをしてくれた。
次にこのイヤホンがどんな瞬間を捉えてくれるのか、少し楽しみになる。それは大それたことではなく、ただの日常の小さな幸せを記録することが、カネコにとって新鮮な喜びとなっていた。
西暦2035年。
夜の街を歩く人々の背中は、まるで夢の中で自由に飛び回る蝶のように軽やかで、未来のイヤホンが心に新たな風景を描き続けていた。
文/鈴森太郎
画像デザイン/Inox.